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もしも。
地面で血を流して、痛みに呻きを漏らしたり苦悶する様子なく、静かに倒れている女が、意識を失ってしまったために動けないのではなく、意図して死んだフリのようなことをしているのだと気付いていなければ——危ないところだっただろう。
「っぬ」
寝返りを打つ要領で回転し思い切り振り回された女の手には、俺が腹部に刺したはずのナイフが握られていた。
後ろに飛び退きながら避けたが、刃の先はジャージの布を僅かに引っかけて裂き、カッと短い音をたて地面に突き立った。勢い余って、尻餅を着きそうになるが、さらに二歩後退り、体重を安定させた。
油断——は、していなかった。だからこそ咄嗟の反撃行動にも対応できた。しかし、想定はしていなかった。今の俺とCの心理状況をパニックとは言わないだろう。焦っているとも、言わない。まだその前だ。パニックや焦りの原因は思考がまとまらないことだ。
俺たちは、まず。
解決方法が見えなくて焦ったり、思考が矛盾してパニックに陥るよりも前に。
単純な驚きに支配されてしまった。
脳内の言葉を管理する部署が爆破されたみたいに、一瞬ですべての思考が真っ白にされた。
もちろん、それは長時間続かない。ほんの数秒で普段通りの思考を取り戻すだろう。
けれど、女の行動の方が、俺の思考が回復するよりも早かった。
左手で傷口を押さえ、ナイフを握った右手で地面を押し上半身を起こすと、座ったままの姿勢でナイフを握った右手をこちらに向けて振りかぶった。
それに対して、俺は反射的に身構えた。
「Sナイフを奪え」
後ろから焦った声色でCが言った。
なぜだ。と思った。そこでやっと思考がはっきり回り始める。「クール」が口癖なだけあって、Cの方が冷静だったらしい。俺よりも先に驚きから回復して、焦りを覚えている。
なぜだ。もう一度状況を確認している暇はなかった。身構えて、一瞬体を硬直させてしまった俺には、対応が間に合わなかった。
女は振りかぶった体勢から立て膝を着き、より勢いをつけてナイフをがむしゃらな力で投擲した。瀕死の彼女が投げたそれを避けることは造作もないだろう。Cが焦るほど危機的な状況じゃない。少しの怪我を覚悟すれば、はたき落とすことだって難しくはない。ただそれが、自分に向かって飛んでくるナイフならば——だ。
「ちっ」
Cが舌打ちするのと、同時に、俺から見て真横に向かって投げられたナイフが、民家のブロック塀を越えて一階にある窓を破った。
一瞬の大きな破壊音とともに窓の一部が崩れる。かなり大きなナイフだ。その音だけでも、十分誰かの耳に入るだろう。けれど、女はそのことを知っていたのか、それともただの偶然だったのか、ガラスの破壊音に続いて、ピーピーピーと警報装置が作動した。
「くそ」
と毒づく。思い返してみれば、この通りの民家はかなり大きい家ばかりだった。ガラスの割れを検知して作動する警報装置を取り付けていても、不思議はない。
周囲数件の部屋の明かりが、次々に点く。
路上に膝を付く女と目があった。面倒な目だと思った。怯えや恐怖でも、緊張や不安でもない。そういうものを全部乗り越えた時の、ヒトが何かに本気で挑む時の目をしている。
そこにははっきりとした、強い意志がある。おそらくは生き残るという、強い意志。
まだ予備のナイフは持っている。だけど、そっちは手に収まるようなサイズだ。殺傷能力は高くない。本気で抵抗されれば、簡単にとどめをさせるか確証はなかった。
その間に、この女以外の人間に目撃されるかもしれない。
「S、引き上げだ」
Cはそう言って、すぐに走り出した。
おそらく、多くの目撃者を作るリスクよりも、女の目撃証言を確実になくすというメリットは小さい。そう判断したのだろう。
縛り付けるような頑なな女の視線を振り切り、Cの後を追った。




