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大切なものなんてあるかわからない

 ウイダーinゼリーは十秒で飲んだ。

 店の前に設置されたゴミ箱にゴミを捨て、駐車場で伸びをする。

「んん〜、帰るかぁ」

 来たときよりはゆっくりと、普段と同じくらいのペースで走る。カロリーをチャージしたおかげで気分的に元気になった。早起きな犬に声をかけながら住宅地を抜けていく。

 いつも通り。いつも通り。そう心掛けて走る。

 規則正しく。ルーティーンを守り。ちょうどいいリズムで。

 こういうときに心を落ち着かせるのは得意だ。

 水泳、短距離、バスケ、剣道。いろんなスポーツをやってきたし、いろんな試合に臨んで来たのだ。いざというときの心構えはばっちり作れる。走りながら、下腹に軽く拳をあてがう。重くブレない集中力を高める。よし。

 私は住宅地の十字路を曲がり、一定の距離を保ったまま後ろを付いてくる足音を振り切るように、猛然と走った。角を曲がる際に、横目で確認したその姿を見て、

「(導かれし者きたあああ!)」

 走っていなかったら思い切り声に出して叫んでしまっていたに違いない。幸いというべきか、私は全力で走りながら大声を出せるほど器用ではなかったので、近所迷惑にならずに済んだのだけど。

 ってそんな悠長に気遣いをしている場合じゃない。

 ミニストップを出て少し経った頃に、私は不振な気配に気が付いた。

 ずっと足音が聞こえる。それはもちろん、私のとは違う足音だ。誰かが後を付いてきている。それを確認するために、急に方向転換して、道を曲がったのだが。

 ランニング中の私の後ろを同じ速度で走って付いてきていたのは、さっきミニストップのレジで私の後ろに並んだジャージ姿の男だった。

 導かれし者なんて思っていたから本当に付いてきてしまったのだろうか。なんてとぼけたことを考えてみるが、それはあまりにも幼稚な発想だ。そもそも、導かれし者たち現象なんて名前が幼稚と言えば幼稚なのだけど、なにが一番幼稚なのかと言えば、ネットで収集した知識を自分で考えたことのように使って面白がっている自分なのかもしれない。

 しばらくして。歩調を少しゆるめ、走ったまま何度か後ろを確認した。

 導かれし者? が偶然私と同じ方向へ走っていただけのランナーだったら、私が曲がった十字路をそのまままっすぐ走り抜けていくのではないかと期待して、私は足を止め、振り返って曲がり角を見つめた。

 そこから現れるのは、ジャージ姿の男よりも、イチゴジャムの塗られた食パンをくわえた女子高生の方がずっといいな。意外と落ち着いてそんなことを思いながら待った。どんなルーティーンよりも、全力で体を動かすことが、私にとっては一番落ち着くらしい。

 しかし、曲がり角からは、女子高生はもちろん、いつまで待ってみても、ジャージの男が姿を現す様子がない。様子がない、というよりこれは、様子がおかしいと言う方があっている気がする。

 様子がおかしい。

 不自然だ。そして不気味だ。

 ランニング中に、自分と同じようにランニングをしているヒトに行き遇うというのは決して珍しいことではない。自分の住んでいる町の中で、走りやすい場所を探していれば、自然と似たり寄ったりの道を選ぶことになるだろうし。自分の家がスタート地点で、大きめの公園や、歩道のある道路、ヒトや車の通りが少ない道。私がよく使っている今日のコースも、道が広くて車の通りもそんなに多くない。そして長い直線がとれる。グニャグニャした細い道を行くよりも、単純に長い道の方が、走りながら「どこで曲がろう」とか考えないで済む分、ずっと走りやすいのだ。

 だからこの道を走るランナーが他にもいること自体は自然なことだと思う。

 だけど、私の後ろを走っていたジャージ姿の男は、

「どこに行った?」

 私の足は、来た道を戻り始めた。

 さっき曲がった十字路までの道はただの直線で、一戸建ての住宅が並んでいるだけだった。もしかしたらその通りに彼の自宅があったのか?

 それはあり得ないことではない。

 むしろ、そうであった方が、今の状況は私にとって好ましいと言えるんじゃないだろうか。

 不気味な想像が膨らむ。

 首筋を汗が流れるような錯覚がした。こんなに寒いのに流れるほど汗なんかかくわけない。気になって首筋を手で拭うが、やっぱりなにもなかった。

 なんで静かなんだよ。と内心で毒づく。さっきまでみたいに、彼の足音が曲がり角の先から聞こえていればまだ安心できるのに。せっかちな私が、ゆっくり走ってきているランナーが、いつまで待っても交差点を通過しない、とひとりで焦っているだけで済む話なのに。喧嘩をする野良猫の鳴き声も、ゴミ捨て場を見張るカラスの鳴き声も、なにも聞こえてこない。

 いつのまにか小走りになった私は、十字路のすぐ前まで戻ってきてしまっていた。

 別に、そのまま走り去って、帰ってあっくんと日の出を見に行く準備をしたって問題ないはずなんだけど。どうしても、その十字路の先にいたはずのジャージ姿の男の行方が気になってしまう。

 ちゃんと確認しないと、不安のようなこの気持ちが、いつまでもなくならない。なんなんだ。本当にどうでもいいことなのに。

 そうわかっていても、我慢できず、そっと忍び寄るように曲がり角からもと来た道をのぞき込んだ。

「あれ?」

 誰もいなかった。

 身を乗り出して、道の全体を見渡しても、そこにヒト影はない。

「本当にこの近所に住んでいたのかな」

 自分の声から、緊張感がなくなったのがわかった。

 やっぱり。思い過ごしだったのだ。誰かが私の後をつけているなんて。

 ため息のような、深呼吸のような息をふぅと吹き出して、もう一度、目の前の景色を見たとき、何か、自分の目に見えていないものがある気がした。

 時々こういう感覚に陥ることがある。

 無意識の中で描いている景色と、実際に目で見た景色に、明確に一致しないものが、そこにあるような気がする。自分の無意識だけがその正体に気が付いて、私の意識は置いてきぼりを食らっている。だけど、無意識が主張するのだ。赤色のランプを点けて「何かがおかしい」と騒いでいる。

 でも私にはとっさにそれを見つけることはできない。

 なんだ?

 私はこの景色の中に、いったいなにを見た?

 何か、忘れている?

 わからなかった。

 貰い物のハンカチをタンスのどこかから探し出す時のように、記憶の引き出しをひっちゃかめっちゃかに掻きだした。

「誰かが後をつけている……?」

 その一文が私の中でピックアップされた。

 だけど、明確に正解を見つけたという感じはしない。

 掠ってはいる。あるいは、その言葉を読み解くことで、私は正解にたどり着ける気がする。

 何だこれは。

 誰かが、後を、つけて、いる。

 後を。いるつけて。誰かが、いる。つけて、後を誰かが。誰かが。

「……誰かが見ている気がする」

 はっ、とした。

 これじゃない。と思った時にはもう遅かった。

 誰かが見ている。それはしばらくの間、私があっくんに持ちかけていた相談だった。最近は少し忘れることも多かったが、私はずっとそういうことを口にしていた。けれど、導き出さなければいけない答えはそれじゃなかった。そう気付いた瞬間、私は無意識の私の認識と目の前の景色の違いを見つけた。

 私が、少なくとも最後にジャージの男を見た地点より、今立っている十字路の近くの家屋に、電気がついている部屋がひとつも見あたらない。

 いや、それどころか、見える範囲で電気がついている家はなかった。見える範囲と言っても、このあたりは庭付きの、比較的土地の広い家が多いので、ちゃんと窓が確認できる家は五、六軒くらいだけど、元旦にしてはどこも早寝の家が多い。しかしそれは、今日が元旦じゃなかったとしても、今の状況としてはおかしい。

 もちろん、絶対とは言えないことだけど、さっきのジャージの男がこの通りのどこかの言えに帰宅したのだとしたら、玄関だったり、リビングだったり、寝室だったり、浴室だったり、どこかの電気を点けるのが自然なんじゃないだろうか。こちらからすべての部屋の電気を確認できるとは限らないけど、でもこの時間、どこも真っ暗な家ばかりなのだから、電気がつけば外から見てもわかる可能性が高い。

 ジャージの男の家がこの通りにあったと仮定すれば。だ。

 じゃあ。

 なかったとしたら?

「くっ」

 目に映っているものがその答えだ。

 向かって左側にある家の門柱の陰からジャージの男が飛び出し、こちらに向かって走ってくる。

 手には何か持っていた。

 今度は私の無意識は警報をならさなかった。それを見間違えることはそうないだろう。無意識が警報を鳴らすまでもなく、それは目に見えて危険だ。専門的な名前までは知らないが、私は普段、それとよく似た刃物を総じてナイフと呼んでいる。

 愚かなことに、私は目前に迫った現実を見ることに必死で、いっとき、体が硬直していた。

 やばい。

 その単純な感想を持つのにタイムラグがあった。

 とにかく。と無音でつぶやく。

 なにもない、誰もいない。石ころでも拾って投げつけるか? いや、アスファルトで舗装された道にそんなものが落ちているわけないだろう!

 とにかく。

 逃げなきゃ。

 獲物をねらう肉食獣の瞳の様に、夜闇に瞬く刃の煌めきから視線を切り、後ろに体重移動して、全力で走り出せるように体を半回転させる。

 なんだっていうんだ。ストーカー? そんな覚えはないし。そうだとしても、一発目からナイフだなんて、アピールの仕方が熱すぎだ。そんなの、どんな相手だって全力で逃げるに決まってる。

 けれど、先に走り出したジャージ姿の男に背を向けて走りだしても、逃げきれるかどうかはギリギリだ。同時に走り出したのならまだ、逃げきれるかもしれないけど、私が加速する前に追いつかれたらそれでお終いだ。

 お終い。

 お終いってなんだ?

 内臓をまさぐられる様な気持ち悪い感覚が胸の奥で起こった。

 逃げなきゃ。早く。

「な——!」

 振り返って、後方確認も前方確認もせずそのまま走りだそうとしていた私は、自分の後ろにいたものにぶつかりそうになった。ものじゃない、ヒトだ。

 あぶない。逃げろ。ナイフ。不審者がいる!

 私は避けるよりも先に、その人物に危険を知らせてあげないといけないと思った。

 なんでそんなことを思ったのかわからない。

 当たり前のことだからだと言えば当たり前のことだ。ナイフで切られれば怪我をする。そんなの人間にとって、もっとも基本的なルールみたいなものだ。自分じゃないからって、ヒトごとだからって、放っておけるわけがない。

 けどそうじゃなかった。

 慮《おもんぱか》っている場合でも、慮るべき相手でもなかった。

 後ろにいた彼——顔までは確認していないが体格的に男性だろう——は、まるで初めから私が振り返って走り出すのを知っていたように、半身になって私の肩を掠めるくらいギリギリのところを避けてすれ違った。

 彼は私にぶつからなかった。その代わりに、腹部が急に熱くなる。

 急に目線が低くなった。

 膝が痛い。どうして私は地面に膝をつけているんだ? 立ち上がれない。太股が震えて力がうまく伝わらない。膝、割れたんじゃないのか。

 火でも着いたように腹の真ん中が熱い。左手で押さえようとすると、堅いものに触れた。私の腹からグリップの様なものが生えている。なんだこれ?

「え。な、あ、あ、あ」

 急に苦しくなって胃の液を吐き出しそうになる。うまくできなくて、のどがぐっとキツくなり、涙が絞り出された。

 肺を膨らませる毎に腹部に激烈な痛みが走って、すぐに息が口から漏れていってしまう。「スッ、ぅぅぅー、スッ、ぅぅぅー」という、情けない呼吸音が、情けないと思っても、変えることも、止めることもできないで、一瞬だけしか入ってこない空気を貪る。吸った空気がそのまま涙に変わってしまっているように、一呼吸毎に涙が流れる。

 空気が、呼吸が。お腹が痛い。膝で立っていることすらままならなくなり、肩からコンクリートの上に倒れた。左の頬骨を思い切り擦った。倒れた振動で、腹の奥が抉られるように痛んだ。

「ぅうがあ!」

 それでも私は「スッ、ぅぅぅー、スッ、ぅぅぅー」という呼吸を続けることしかできない。

 なにが起こった——んだ。

「クールだぜ」

 若い男の声が聞こえた。

 ジャージ姿の男か、今すれ違った男か、二人とも倒れる私の後ろ側に立っているので、どっちが言ったのかわからない。

「まったく簡単にやってくれるよな、S」

「難しいことはない」

 向かってくる相手の前にナイフを置いておくだけだ。Sと呼ばれた男が慣れた風に言う。

 自分の腹から生えるグリップ。包丁の持ち手の三倍はあるんじゃないかという太さのそれは、刃の部分が見えないほど深く突き刺さっていた。

 ナイフかよ。これ。

 自分の涙と涎で、頬と地面の間がベチャベチャする。

 とにかく? 逃げなきゃ?

 どこへ?

 苦しくて体に力を入れることができない。

 逃げなきゃ、まずい。もっとまずいことになる。逃げた方がいいに決まっている。

 なのになんでこんなに私は、逃げることを諦めているんだ。

 立ち上がって走り出す。

 大きな声を上げる。

 そうした方がいいのはわかっているのに、なにもできない。やろうという気力が、一秒毎に注ぎ出て、乾いていってしまう。

 なんで私なんだよ。

 何も。

 何も今日じゃなくたっていいじゃないか。

 なんでなんでなんで、と腹から生えている、じゃなく刺さっているナイフの柄を見つめながら嘆く。

 何もできないでいる私を男たちが放っておいてくれるはずもなく、後ろから腰のあたりをまさぐられ、着ているジャージの上着を乱暴にまくり上げられた。

「ぃひっ」

 と触られる恐ろしさと、冷たい空気が肌に触れて、変な声が出てしまう。

 なに、なんだ——。

 私は抵抗しようと思ったが、首をほんの数度回転させて、振り向くのが限界だった。それ以上動いたら爆発するぞ、と言う様な勢いで、動きと共に腹の痛みが激増する。

 少しだけ視界の端に引っかかった男は、さっきのジャージ姿の男だ。

 ジー、と私のウエストポーチのファスナーが開かれる音がする。

 今更かよ。と内心で私は自分に毒づいた。今更になって、私はこの二人の男の目的に気が付いた。今までは、状況に動転しすぎて考えている余裕すらなかったけれど。

「……そ、……ぅ、か」

 そういうことか。と、喋ることがまともにできなかった。

 ジャージ姿の男は、ミニストップで会計する私の後ろに並んでいた。その時に見たのだ。深夜に出歩く不用心な女が財布に六万も入れているのを。

 ばか。

 いろんな意味でバカだ。財布を間違えたのも、スマートフォンを忘れてきたのも、財布に六万も入れっぱなしにしていたことも。それに、事件が続いている地域でこんな時間にひとりで外を出歩いていることも。

 つまり、この二人は、例の通り魔……?

 二人組だなんて聞いてない。

 違う。そもそもこの通り魔事件は目撃証言が一件もなかったのだ。被害者も半数以上は死亡していて、生きていても重体。どれもごく短時間に、現金以外の余計なものは一切取らず、犯行を済ませているという話だった。

 生きていても……?

 生きている被害者と、死んでしまった被害者がいるのはなんでだ?

 ここまで完璧に自分たちの痕跡を残さず犯行を続けているのに、確実にとどめを刺していない相手がいるのはなんでなんだ?

 それに。

 重体とは言えど、全員がまったく口も利けない状態ではないはずだ。

 なのに。

 私はこうして二人の犯人の存在を確認しているのに、なんでその情報がニュースになっていないんだ——。

 一瞬腹の痛みを忘れるほど、二の腕にビリビリと鳥肌が立った。

 ジャージ姿の男は、財布を抜き取ったかと思うとすぐにポーチにしまい直した。現金だけ抜いたらしい。

「今回はがっつり見られたな。その点は、あんまりクールじゃねえ」

「逃がすには惜しい額だった。とどめを指せば問題ない」

 いつもみたいにな。と私を刺した男が言う。

 やっぱり、そういうことだ。と確信する。

 私みたいに、犯人の姿を見てしまった被害者だけは、確実に殺されていたんだ。

 彼らは犯行の目撃を避けるために、ほとんど時間を掛けずにすべてを終わらせようとしている。通常は後ろからひっそりとおそったりしていたのだろう。だから、必要でなければ、命を確実に奪う行程も省く。けど、今回私は自分が狙われている可能性に気付いてしまった。

 なぜなら、私が走っていたから。

 そして、私の財布に彼らが狙うに値する現金が入っていたから。

 走る私を襲おうと思ったら、追跡する側も走る必要がある。その足音に私は気付いてしまった。

 真っ暗な背景の中に、真っ白な文字で「殺される」という言葉が浮かび上がった。

 それがどういうことなのかまったくわからなかった。

 殺されたら、いったい私はどうなってしまうんだ。

 その前に、これだけ深く腹部をナイフで刺されて、ヒトは生きていられるものなのか?

 もし私が彼らの姿を見ていなくて、とどめを刺されることにならなかったとしても、これだけの傷を負ってしまえば、死亡者リストに載るのは確実なんじゃないか。

 横たわって、真横になって見える風景にだんだんと慣れてきた。それが本来私が見るべき景色なんじゃないかと思うくらい、もう一度立ち上がる可能性が見えなくなっていく。

 静かな足音で、ひとりが私に近づいてくる。

 私は死ぬのか。

 でもそれは、絶対にだめなこととはいえないかもしれない。少なくとも、内臓に火を放たれたような痛みは、もう感じないで済むはずだ。きっと涙も止まる。こんなに苦しい呼吸もしなくていい。怖くもなくなる。

 ああ。

 怖い。

 なんでだろう。

 私は、すごく怖い。

 また涙が出てきた。

 なんでこんなに怖いんだ。

 何がそんなに怖いんだ。

 死にたくない理由。生きたい理由。って、そんなにあるだろうか。この痛みを押してまでも。死ぬことを恐怖する理由。そんなもの私にあるのか。

 昔はあったかもしれない。

 好きなマンガの最終回とか。次に出場する予定の大会とか。期末テストとか。受験とか就職とか。宿題も、新発売のボールペンも、人気アイドルの新曲も、誰かに言わなきゃいけない伝言も。子どもの時にお祭りで取ったスーパーボールも、貯金して買ったお気に入りのバッグも。よく見かける野良猫も。自分の人生には死ぬことのできない一大イベントがたくさんあって、死ぬには惜しい大切なものがたくさんあって、命がけで守りたい宝物ばかりだった。

 昔は。

 昔は。

 十代の時はたぶん私はそうだった。

 大切なもの、大切なもの、大切なもの。

 いろんなものにそういうシールを貼り付けて、自分はこの世界にちゃんと価値があることに気づいている、というフリをしていたんだと思う。

 なにもわからないからこそ。価値がわからないからこそ。不安だからこそ。何かに価値を見いだせる自分は、価値ある存在だと思いたかったのかもしれない。

 けれど今はそうじゃない。

 少しずつ私は変わった。みんな変わった。かつて大切だったものは、引っ越しのついでに燃えるゴミになった。

 死んでも行きたかったイベントは、特に用がなくても行かなくなった。

 いつの間にか自分にとって大切だったものたちが、なんでもなくなっていった。

 代わりに私は何かを手に入れたんだろうか。

 わからない。

 なにかを情熱的に大切にすることができなくなって、代わりになにか大切なものができただろうか。

 わからない。

 見つからない。

 私がひとりで作り上げた大切なものたちの、大切なもので包まれた、大切な世界は、少しずつ欠けて、だんだんとなくなってしまった。

 大切なものがない世界なら、私はもう死んだってかまわないんじゃないか。

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