【1-5】数百歳のあなたへ
足を挫いた後、不完全なまま癒着してしまった関節が痛み続けるように、私の右手はあのケーキを口にして以来、ずっと違和感を訴えていた。
何となく魔術を使うのが怖くなって、私は自分のものではなくなってしまった右手を使わないようにしていた。
『見てお姉様! ネズミ型偵察機試作273号ちゃんよ! 今回は前回よりも生き物らしい歩き方をさせるために新しく関節のパーツを増やして……って、ねぇお姉様聞いてるの?』
「あぁごめんなさい。そのネズミに今度は何をさせるの?」
駄目だ、日に日に強くなる異物感のせいで意識が散漫になってしまう。病院にも行けない環境で身体の変化は不安が大きい。もっとも、医者に診て貰っても改善はしないだろうが。
『このネズミは第二王子の元へ送るつもりよ』
「レトお兄様に?」
『273号ちゃんの目的はスパイをしてもらうことね。確実に殺めるなら行動を知らないといけないでしょう?それに』
「あや……え、お兄様を!?」
私は思わず立ち上がり、勢い余って少しバランスを崩した。それほどの衝撃だった。
シエルの手の上ではドールがガタガタと元気に動き回っている。それが乗るシエルの腕を掴み、淡々と話し続けようとする彼女を制止する。異母兄の命を奪う話を妹の前でされてたまるか。
シエルは眉間にしわを寄せると、私の手を払い、両手を腰に当てた。言うことを聞けない子供に諭すような口調で彼女は続ける。
『あのねぇ、お姉様は自分自身の目的がブレすぎではなくて? 一番大事なことは何?』
「私の目的は玉座の奪還と家族の幸せよ」
『ならやっぱり殺すしか無いじゃないの』
「何故よ! レトお兄様は家族よ」
『貴方、王族を家族だとお思いでして? 馬鹿なこと言わないでよ。血族に味方なんているわけがないでしょ。ましてや王位継承権を持つ兄なんて一番の敵も良いところよ』
グッと握りしめたシエルの手の間からドールがバタバタと手を出した。苦しそうに藻掻くネズミの動きは一定のリズムを刻んで、まるで小さな軍人のように映った。あれは兄を殺す歩兵なのだから。
「私はレトお兄様を大事に思っているわ! 確かに王位の話では戦わなくてはならないけど、殺すなんて」
『ぬるいですわ。お姉様が地上に戻ってからの障壁は彼なのよ?敵は減らせる者から減らさないと……今の王妃は正面から戦って勝てる相手じゃないわ』
「でもっ」
『なら仮の話をするわ』
シエルの提示した論理は、あまりに隙がなかった。
もし殺さずに私が王位を継ぐにしても、レトお兄様は王位から必ず遠のく必要がある。つまり王族ではなく公爵家へと下さなければならない。あのヒルデガルドが息子を公爵家に安住させるわけがないし、そうなることが必ずしもレトお兄様にとって吉とは限らない。
公爵家に降った、温室育ちの王族が一人貴族社会で生きていくのは厳しい。どこかの貴族と婚姻しようものなら、その血筋に再び継承権が戻り、次なる火種を生む。
要は、レトお兄様は一生孤独でなければならないのだ。
『死んだ方が皆のためなのよ』
目の前のこの亡霊は何を言っているのだろうか。淡々と家族の死を話されて、冷静でいられるわけもなかった。このままじゃ暗殺に向けてシエルは動き出すし、このまま意見の違いでぶつかれば最悪の敵となるだろう。
「とにかく納得できる形に収めなければ」
焦る私に残ったのはこれだけだった。
黙り込む私をチラリと見ると、シエルは眼前でネズミの人形を床にそっと下ろして片目を閉じた。ドールはほのかに光を放つと、まるでそこで息をするもののように表面が変化していき、皮膚が生え、毛が伸び、目には生気が宿るのだった。
『可愛い可愛い私の273号、役割を全うしてその身を果てさせなさい』
生きているのかと見紛うような滑らかな動きで、273号は闇の先にある地上への通気口へと突き進んでいく。あれがお兄様の元へ辿り着けば、シエルの計画が、現実味を帯びてしまう。
「待って……!」
ハッと顔を上げて、私は叫び、思わず右手を伸ばした。
魔術を発動させているわけでもないのに指先が熱い。おかしい、そう思った瞬間、私はバランスが取れなくなって足がもつれた。伸ばした右手がグニャリと蜃気楼のように歪んでいる。違う、視界がマーブル模様のように全てぐちゃぐちゃに歪んでいた。
この不快感に私は覚えがある。
『お姉様、避けてッ!』
シエルの鋭い悲鳴と同時に、私の右手から噴き出した黒い靄が、頭上の暗闇へと突き抜けた。
次の瞬間、静かに、しかし雪崩のように降りてきたのは、青白く生気のない無数の人の腕だった。
衝撃に耐えようとギュッと目を瞑るが、予想していたような痛みや浮遊感は来ない。
——バリ、ガリ、ボリボリッ
おぞましい咀嚼音が鼓膜を震わせた。
恐る恐る瞼を開けると、私の指先から白い腕が、グニャリと私を避けるように異様な角度で曲がっており、彼らはシエルの試作号に群がっていた。真ん中でネズミが暴れてガタガタと悲痛な軋みを鳴らしている。
私はなんだか現実味がないその景色を、息を殺して眺めていた。シエルを横目に見ると彼女の顔は青く、瞳孔が開いており、手を口に当てて叫びたいのを抑えている。
次第にその咀嚼音も静かになると、手はゆっくりと私の頭上の暗闇へ戻っていく。後には、欠片一つ残っていなかった。
——シュルシュルシュル
手は最初からそこにいなかったかのように、綺麗さっぱりいなくなった。シエルは安心したのか床にヘナヘナと力無く座り込む。私もようやく息を吸うことができた。未だに早く鼓動する心臓を押さえながら、シエルの横に座った。
上を見上げても、手がいなくなった後の天井には穴もなく、特に変わった様子もない。あれは一体どこから湧いて出てきて、何故ドールを食ってしまったのか。
「まさか、ドールを食べちゃうなんてね。びっくりしたわ」
『ドール……?』
「シエル?」
『ねぇ、ドールってどんなドールだったかしら、あれ、どんな見た目をしていたのだったっけ』
ポカンと不思議そうな顔をしたシエルは、すぐに自らが遭遇したことの異常性に気がついたようだった。みるみるうちに涙を滲ませ、両手で頭を押さえて彼女は震えながら小さくうずくまった。
『273号よ、273回も作ったのに!私の手の中に、あったはずの、あの子の構造も顔も、分からない。どうしよう分からないアンネリーゼ……!』
「どういうことなの!?」
自分の数百年の人生をかけて作り上げてきた研究成果が、一瞬にして分からなくなる。一体どれ程の恐怖なのだろうか。人間がとても想像できるような範疇を超えてしまっている。
白い手に呑み込まれたものは、物理的な破壊に留まらず、世界の認識そのものから消去されるというのか。
『白い手に見覚えはある?』
「何となく、どこかで見た気がするの。でも分からない、あの図書館にあんなのはいなかった……と思う」
思い出そうとするほど、足りない記憶が多すぎて何も分からなくなる。ふと、指先に感じていた熱が引いていたことに気がついて、私は掌を見つめた。
あの熱は間違いなく魔術が発動したときの摩擦だった。つまり、あの白い手は魔術によって生み出されたもの。そして、魔法陣は描いていなかったはずだからあれも古代魔術の一種ということになる。
『お姉様』
顔を上げたシエルはこちらを険しい顔で見つめていた。まるで、裏切り者へ向けるような憎しみと、強者へ送る恐怖のような感情が渦巻いている。何かを祈るように私の肩を掴み、口を開いた。
『"あれ"と契約した?』
「あ、あれってなんのことよ」
『魔獣よ』
「魔獣!?」
あの古代魔術と何の関係があるのか私はすぐには分からなかった。私は混乱して、立ち上がり、シエルがおかしくなったのだと思った。
「魔獣なんて大昔の神話じゃないの!何を言ってるのよ、さっきからどうしちゃったの?」
『お伽話だって、誰かが見たから作られるものなのよ。あの白い手、人の魔術じゃないの』
「人の魔術じゃないって、そんな、じゃあ私の指はどうして熱くなっていたのよ!確実に魔術が発動したはずよ」
『……契約の魔術よ』
そもそも魔獣とは何なのか。
昔の話だ。かつて人がまだ古代魔術を扱えた時代、想像力にはいつか限界がやってくる。魔術を使いたくても使えない、そんな悩みを誰しも抱えていた。魔獣はそんなときに、突然現れる。
ある人は空が突然光って、それがやって来たと言う。ある人は地響きがして地中から這い出てきたと言う。夢の中から現実へ舞い込んだという話もある。とにかく、魔獣というのはそういう人知を超えた存在なのだ。
人の世にやって来た彼らは、獣と書くだけあって人では無い見た目をしていたが、動物らしい形であるとも限らなかった。あらゆる物語に出てくる人外は大概奴らのことを言っている。
シエルも立ち上がると、宙に浮かんで明らかに私から距離を取っていた。その待遇に私は少し腹が立った。
「貴方ちょっと……はぁ、子供の時はよくお伽話に出てきたわよ。でも、童話の中の存在がどうして今の白い手に関係するの」
『あれは大体実話なのよ。あの手は魔獣の一部よ』
「それと、私が契約したって言うの?」
問題はここだ。身に覚えのない契約を知らぬ間に結んでいるなんて、詐欺師も驚く芸当だろう。何より、私はあの白い手と会うのは初めてな気がするのだ。
『……分かっているわ、契約を結ぶタイミングが無いのよ。でも、契約しないまま、白い手が意志を反映して出てくるなんてあり得なくて』
「理由は不確かだけど私が発動させてしまったのは確かなのよ、感覚的に分かるわ。だから、ドールのことを謝らせてほしいの」
一歩前に踏み出すと、シエルは露骨に後ろに引き下がる。私は顔を見て謝ろうとすれば、視線を逸らしていく。
「シエル?」
『お姉様……いえ、アンネリーゼ・シルヴレッタ。お願いだからそれ以上近寄らないで欲しいの』
拒絶。
目の前が真っ暗になったような気がした。地下に一人しか居ない友達、大切な仲間、遠くとも血縁関係のある人間。そんな大切な人が、目の前で私に怯えている。私のせいで。自分を見ようともしないシエルが視界に入るだけで辛く、私も目線を逸らした。
伸ばそうとした手を胸の前で握りしめるしかできなかった。下手に動けば、また怖がらせてしまいそうだから。
「そう、よね、ごめんなさい。あんな化け物怖いわよね」
シエルは何も言わずに、部屋の奥へ消えた。私はその日、一人で部屋の隅で横になった。目を閉じると、だんだんと地下の暗闇が瞼に馴染む。
(お兄様、私は友達を大切にする方法を知っていても、仲直りまでは教えて貰っていませんでした)
シエルの目は、私を人扱いしていなかった。
あれは理解できない化け物に向ける目だ。




