【1-4】アイデンティティの喪失
(ここは、図書室かしら)
シエルの思い出の地であろう光景は、私の知らない場所だった。上を見上げるとどこまでも続く無数の書庫。天井から日の光が差し込み、部屋のありとあらゆる所に金の飾りが施されている。
「こんな豪華な場所が、シエルの時代にはあったなんてね」
手を握りしめると感触があり、床にあった本に触れると古い本特有の、粉っぽさが伝わってきた。この古代魔術で作られた空間にも五感はあるようだ。
「扉は……開かないか」
後ろにあった大きく無機質な白い扉は、押しても動く気配はない。魔術を発動させようとしても、魔法陣が描けない。
静かすぎる室内に、何だか嫌な予感がする。この部屋から早く脱出する方法を探さなければ。
「こんなことになるならシエルも事前に教えてほしいものね」
私は立ち上がり、近くの棚から適当な本を一冊抜いて開いた。中は、真っ白だった。
よく見れば、表紙の金文字すら意味を成さないでたらめな羅列で、とても読めたものではない。
他の本もいくつかめくってみたが、途中までしか文字が書かれていないものや、そもそも本棚に張り付いて抜けないものなど、状態は酷く不安定だった。
「読める物と読めない物の差は一体何……?」
円柱形の本棚を中心に、放射線状に広がる棚は、まるで大きな迷路のようだ。正直、自分が今どこまで歩いてきたのかよく分からなくなり始めていた。変わらない景色、どこまで行っても終わらない本の山。
しかし、ある区画に来たとき、私は違和感を覚えた。本棚の装飾に差がありすぎるのだ。今まで見たどの棚より、細かく掘られており明らかに古かった。
「ここの本、全部読めるわ」
表紙もページもどこを見ても抜けが全くない。ここに出るためのヒントがあるかもしれない、そう確信した。私は全ての本を一つずつ読むことにした。現実の時間の流れがどうなっているか分からないが、いつまで経っても日が傾かないことから時が止まっている可能性が高い。
「高度魔術構成学、創造力の育て方、ツェール論における再現性……古代魔術の本質を深く探究していたのかしら」
何百年も前のものだから、表現が古風でやや難しい。でも、スルスルと頭に染み付いていく。文字を追うたびに、脳の裏側に直接熱いコテを押し当てられるような既視感がある。
おかしい。
私はこの理論を知らない、けれど言葉も頭に入ってくる。古代魔術に関する書物は今じゃ存在しない言葉も多くて、全容は分からないはずなのに。
ふと、めくる指先へ視線を落とした。
「ない」
そこにあるはずの小さな傷跡。かつて魔術の訓練で付けた火傷の跡が、消えていた。陶器のように滑らかで、苦労を知らない肌。これは、私の手じゃない。服も、知っているものよりずっと古めかしい意匠だ。
私はどうしてこの異変に気がつけなかった?
「『思い出の味がするケーキ』って記憶に入れるって意味だったのよね」
そう、ここはシエルの記憶の中。なら何かおかしいのだ。記憶ならば、その中に存在しないはずの私は何故動けている? 記憶を好きにいじれる訳がない。
私が動けるということは、今の「私」はアンネリーゼではない誰かなのではないか。
「鏡は……っ!」
呼吸が浅くなる。喉の奥がカラカラに渇き、胸の奥で心臓が早鐘を打っていた。
本を置いて下を見ると、示し合わされたかのように手鏡が真下に落ちていた。表面にヒビが入った鏡は、動くことのない日の光をキラキラと反射させている。
「私」は私ではないかもしれない。底知れぬ、感じたことの無い恐怖が、私の真下に広がっていた。
震える手で取り、目を開けた先でそっと覗き込んだ鏡に映ったのは、私ではない。
人間ではない。
無数に蠢く、巨大な白い手の隙間から。ぎょろりとした目が、こちらをじっと見つめ返していた。
「ぁ」
鏡から出てきた白い手は私を掴むと、そのまま引きずり込んできた。古い紙が擦れるような音が中に響く。
『イゾルテ、イゾルテ、呪われた子イゾルテ』
頭の中で響いているのか、声が聞こえているのか分からない。反射する声は、徐々に大きくなっていた。
(……溶ける。私の名前が、指先からインクになって零れていく)
冷たく、どんどん滲んでいく。溶けた黒いインクが垂れると、白い手はそれに群がってムシャムシャと貪り食っていた。その様が気味悪くて、直視できなかった。
『これは間違い』
『"イゾルテ"にしなきゃ』
伸びてくる白い手が私の肌に触れるたび、そこから「アンネリーゼ」という要素がなくなっていくような感覚。頭が割れそうだが、これに流されたら私は私じゃなくなってしまう気がする。
キィィンと耳鳴りがうるさくて、私は頭を振り、その白い隙間から見る目を直視した。
「黙りなさい……私はシルヴレッタ王国第一王女、アンネリーゼ・シルヴレッタよ!」
『じゃあイゾルテは?』
『どこ?』
『探さなきゃ、どこにも行けないようにしなきゃ』
白い手は突然統率を失ったように戸惑い、ザワザワと動き回り始める。手が身体から離れて、私は下の見えぬ底に向かって落ちていく。
「ひぃぁぁぁ!!」
手と手の隙間から赤い目と黒い髪をした男と目が合ったような、そんなことを考える間もなく、私は意識が途絶えた。
***
『アンネ! アンネリーゼ•シルヴレッタ! 起きなさい!』
「シエル……?」
かび臭い香り、青い魔導回路の光、ここは私の知る地下室のようだ。手を握りしめると感覚がある、服も自分が着ていた部屋着のドレスだ。
『食べた瞬間急に倒れるから、何事かと思ったわ』
「ねぇシエル、私、私は誰かしら」
『……は?』
シエルは驚愕に目を見開くと、私の両手を握りしめて目を合わせて言葉を続けた。
『あなたはアンネリーゼ・シルヴレッタよ。ねぇ、お姉様。ケーキを食べて何を見たの?』
「何をってそりゃ……」
話そうとしても喉に何か詰められたかのように、言葉が出てこなかった。
私は何を見た? 図書室に飛ばされたことは覚えている。本、手鏡、なぜ私は手鏡を見たんだろうか。あの黒髪の男とは、どこで出会った?
「ごめんなさい、断片的にしか覚えてないの。そもそもシエルの記憶なんだから、あなたなら何を見たか分かったりしないの?」
『断片的でもいいわ、とりあえず教えて頂戴』
古代魔術ケーキは、見せるものの調整なんかはできないのか。古代魔術には安定性がないから、もしかして作るときに何かミスをしたのではないか。
『アンネ!』
考え込んでいると、酷く焦燥した顔のシエルが私の肩を揺らした。
「あ、えぇっと、私が覚えているのは図書室に行ったこと、本を読んだこと、手鏡を覗いて……あとは男に出会った気がするけど、もしかしたら会っていないかもしれないわ」
『男?』
「黒髪の、なんだか懐かしい顔だったような」
それなのに、思い出そうとしてもその顔がぽっかり虫食いのように抜けてしまう。まるで意図的に塗りつぶされているように感じた。
『赤い瞳?』
「赤?」
『そう、血のような色をした瞳よ。目つきの悪い少年じゃない?』
「そんな目なら絶対覚えているはずだわ」
シエルは少し決まり悪そうに目を逸らした。
さっきから何を探っているのだろう。今までに見たことのないほど焦り、取り乱すシエルの姿に、私も少し緊張感を抱いてしまう。彼女はぶつぶつと早口で呟きながら、宙を落ち着きなく旋回していた。
『友人が困っているなら、必ず助けてあげなさい』
昔、実兄コンラッドによく言われた言葉だ。まあ、当時私に友達なんて居なかったのだけれど。
シエルは初めてできた友達だ。困っているならば助けてあげたい。うーんと私も頭を捻っていると、一つ、あの本を思い出した。
「あ、ツェール論における再現性」
シエルは弾かれたように振り向いた。これは当たりか。
『お姉様は魔術書庫にいたのね!』
「魔術書庫? そんな場所この城に無いわよ」
彼女は空中に線を引くと、何百年と外出してないはずなのにかなり正確な地図が描かれていた。魔導回路で感知しているのは本当らしい。そして最後に、ある森の中に赤く丸をつけた。
『今私たちがいる地下は、中央にある城の真下だからここね。東にあるここは王妃の住む離れ。離れから北に進むと、ほら、大きな森があるのは知っているかしら』
「あそこは広いし、森に住む亡霊に閉じ込められて帰れなくなる、とよく言い聞かされていましたわ」
『その最奥にあるのが、魔術書庫よ。特殊な魔術で守られていて、普通の人は開けることはおろか、魔導回路伝いでもここの様子を知ることができないのよ……私のいた頃は、誰でも入れたんだけどね』
少し寂しそうに呟くと、シエルはパチンと指を鳴らして魔法を解除した。
シエルの口ぶりから推測するに、古代魔術は使用者にもどうなるかわからないような不安定さがあるらしい。現代の魔法陣は何がどんな結果を招くのか一から十まで決まっていたので、なんだか新鮮だ。
ならば、スパイスケーキ意識消失事件も、彼女はそんなことになるとは全く思っていなかったのかもしれない。
私は俯くと、右手を開いたり閉じたりした。さっきから拭えない違和感は、意識を失ってまだ完全に感覚が戻っていないからなのか。
(……なんだか、他人の骨を無理やり嵌め込まれたみたい)
自分の手なのに、作り物の義手を動かしているかのような異物感。それなのに少しずつ馴染んでいる手に、背筋がゾッとした。
私は本当に「アンネリーゼ」のまま帰ってこれたのだろうか?




