【1-2】それはまるで幸せの青い鳥
そのカーテシーは、あまりに完璧で、あまりに残酷だった。王族として華やかな一生を過ごすはずが、数百年前、この国が最初の犠牲として捧げた部品。歴史から塗り潰されたシエル。
彼女が纏う空気は、魔石から溢れ出す熱を一切寄せ付けないほどに冷え切っている。
『で、貴方は?』
シエルにそう言われて、私はハッとし、慌ててドレスの裾を摘まみ上げた。
「シルヴレッタ王国第一王女、アンネリーゼ・シルヴレッタ……これからよろしくお願いします、シエル様」
シエルは満足そうに頷くと、軽々と魔石の上から飛び降りる。
『シエルで良いわ。よろしくね"お姉様"』
私は、顔にかかる髪を指先で払い、シエルを真っ向から見据える。
分かりやすく皮肉を込めた呼び方をされたのは分かっていたものの、敢えて何も言い返さずにいた。彼女が己より遥か格上だということを肌で感じていたからだ。
(何故私を助けたのかしら……それに元王女とはいえ、王族である私の味方とは限らない。一刻も地下から早く脱出しないと)
シエルは私の前から動こうとしない。関節一つ一つに視線が刺さり、下手な真似はできなかった。
『あらぁお姉様、魔女相手に魔術を隠して発動させようだなんて馬鹿な真似はしないで?』
「……!」
私は肩をピクリと揺らした。
私は正確にはまだ魔術を発動させていない。指の先端に、目に見えないほど少し小さな魔法陣を一瞬出した、ただそれだけだ。一般的な魔術師の魔力探知でも引っかからないような微細な魔力量だったはずなのに、シエルは瞬時に反応した。
『貴女たちが使う魔術は、一線を引くごとにカチカチ嫌な音が鳴るの。設計図を空中に広げようとした瞬間の、その魔力の軋みと熱が、私には耐えられないほど煩いのよ』
呆れたように肩をすくめると、彼女が私の周りを回る。その黒髪が私の頬をかすっていく。
私はドレスの裾を強く握りしめ、白銀の髪を揺らして彼女を睨みつけた。
「……貴方は、私のこの18年を騒音だと言うのかしら」
『えぇ。今の魔術は風の一吹き、氷のつぶて一つ作るのに、世界に言い訳を並べている。設計図なんか、魔術には必要ないし、いらないの……特に貴方の場合はね』
澄ました顔をした彼女を見ながら、今度は堂々と魔法陣を出した。私だって貶されたプライドがある。
「何百年も閉じこもってる方にはわからないかもしれないけど、私は早くここを出ないといけないのよ」
両手の間から魔法陣が二枚、三枚、と増える毎に消費魔力は増えていった。手順を踏む毎に私の指先は熱を持っていく。
私はチリチリとした痛みに耐え、着々と魔法陣は出来上がっていった。
(これ以上は指が持たないわね……)
『……ちっ』
バチンと大きな音がして、回路が千切られる感覚がした。青い光の線はの粉となってサラサラと舞っていく。
私は最初、氷が腕に触れたのかと思った。腕についていたのは白く細い少女のもの。掴まれた手首から、心臓まで凍りつくような冷気が流れ込んで来る。
「何をっ」
『もー、氷魔術で火傷できる馬鹿なんて早々いないわよ』
シエルは苛立ちを隠せぬ顔で、指先を覆うように氷を出現させた。
(火傷の治療……?)
流れ込む冷気は、私の沸騰するような血液を強引に静め、暴走しかけていた魔力を瞬時に無へと還す。
空中に浮かんでいた魔法陣が、ひび割れた鏡のように砕け散り、後に残ったのは地下室特有の、どこまでも不気味な静寂だけだった。
「……っ、離して」
長い髪を揺らし、不遜に微笑むシエルを睨みつけた。
『お姉様、そんなに唇を噛まないで。折角の綺麗な顔が台無しよ』
シエルは私の手を掴んだまま、至近距離で瞳を細めた。
『ねぇ、こんな非効率な方法辞めましょう……好きな人に手紙を送るために傷付く乙女なんて見てられないわ』
「好きな人!?」
『貴方、あの少年に氷でゴーレムを作ってメッセージを送りたかったのでしょう?』
「なっ……」
心臓を射抜かれたような衝撃に、私は息を呑んだ。
ルカの名こそ出なかったが、私の胸の奥に仕舞い込んだ、最も柔らかい場所を土足で踏み荒らされた気分だった。なんでそんなことまでこの亡霊は知っているのか。
『あらあら図星かしら? 健気ね、お姉様。でも、あんな鈍重な氷の塊を外に出せば魔力探知に引っかかるか、魔力すら扱わない、ただの見張り兵に見つかるわよ』
シエルは私の指先から手を離すと、 小さな粒を手のひらに浮かべた。ほわほわと光る雪のようで、今にも溶けて無くなりそうである。
『良い? 外に送るドールに込める魔力はこんな小さい量で良いの。"何百年もここに閉じこもって"ドールを作っている私の話なんだから間違い無いわよ』
「さっきの発言は取り消すわ。火傷も治してくれたし、悪かったわ……」
この少女は思いの外、根を持つタイプだった。
人間が味わうには長すぎる歳月は、彼女の魂を成熟させるのではなく、純粋な狂気として煮詰めただけなのかもしれない。
「でも、そんな少ない量で外に行ってしまえばすぐに魔力を消費しきって消えてしまうわよ?」
『その時はまた、その有り余る魔力で作れば良いじゃない。とにかく、これ以上の魔力量は厳禁よ!』
ビシッと人差し指をこちらに向けて堂々と話す姿は、さながら先生のようだった。
『……それから、本当に届けたいのは何? ゴーレムが目的ではないわ、貴方の無事を知らせるのが目的なのでしょう?』
「えぇそうね」
『ならば重要なのは機能性よりその想いよ……いい、お姉様。言葉に熱を込めすぎてはダメ。本当の想いは、もっと静かに、雪が降り積もるように届けなさいな』
確かに、私が編もうとしていた通信用のゴーレムは、確実性を重視するがゆえに複雑な術式を何層も重ねていた。それが彼女の言う「騒音」だというのなら——
私はふっと目を閉じた。思い返すのはルカのこと。
(今どうしてるかしら、私が居ない王宮はどうなってるのかしら。ルカや私の従者達の扱いが酷くないと良いけれど)
シエルが私の目の前でぴたりと止まり、空をなぞる。
音が消えた。
私の魔法陣が立てていた、あんなに耳障りだった軋み音が嘘のように引いていく。私の指先から生まれたのは、ゴーレムのような無骨な兵士ではない。
掌の上で、羽音すら立てずに静止する、透き通った青い翅を持つ1羽の蝶。
「……何、これ」
『それが貴方の意思よ。貴方が届けたいものを、一番届きやすい形にしたの』
シエルは満足げな薄い笑みを浮かべ、周囲で地面に放置されていたドール達は再び組み上がり、カチカチと関節を鳴らせて踊り出す。まるで何かを祝福するように。
亡霊の彼女は両手を合わせると、嬉しくて堪らないという顔でこちらに微笑んだ。
『おめでとうアンネリーゼ。そしてようこそ、私達の魔術の世界へ!』
***
湿った使用人部屋はカビの匂いがした。
呼吸の仕方が分からない。目の前が真っ暗になるのはこういうことだろう。
濡れた枕と頬がひたりと付いた。涙の冷たい感触は現実に引き戻すには少し弱すぎる。涙はもう出ないはずなのに、世界は歪んでいて、輪郭がはっきりしない。
「おい、赤目。死ぬなら外にしてくれ。死体を片付けるこっちの身にもなれ」
乱暴な蹴撃が、重い鉄の扉を震わせた。かつて自分に膝をつき、恭しく頭を下げていたはずの下級使用人の声だ。返事をする気力もなかった。ただ、枕の奥へと深く顔を沈める。
「……チッ、ほら、お前の大好きな御馳走だ。さっさと食え」
冷え切った大きな音は扉に遮られ、諦めたのか遠のいていく。かつてアンネの側にいた時、俺を取り巻いていた偽りの敬意は、彼女がいなくなった途端に霧散した。周囲にいた平民階級の従者は次々と解雇されており、直にいなくなるかもしれない。俺は、一応貴族の息子だからと今は後回しにされているのだろう。
後ろ盾のない俺に向けられるのは、隠そうともしない赤い目への嫌悪だけだ。
俺は一度大きなため息を吐いて、枕に顔を沈めた。冷えた枕は、葬儀の時、彼女の銀髪に触れた吹雪の冷たさを思い出す。
俺は動けなかった。動く理由が、どこにも見当たらなかった。中流貴族としての礼儀作法も、教養も、彼女を守るためには何の役にも立たなかった。あの時、彼女の手を掴んだ騎士の腕を、噛み切ってでも引き離させなければよかった。震えていた俺の足は、あの瞬間に折れてしまえばよかったんだ。
(……目が、熱い)
忌み嫌われた、この赤い目。
一族の恥だと罵られ、地下の隅に押し込められていた俺を、彼女だけが「美しい」と言った。
『私は、あなたのその目好きよ。赤は燃えるような意志の色。いつかきっと、誰かを愛せる美しい色よ』
「……ただ一人の、俺の神様」
俺の目は今、こんなにも暗くて、動くこともできない。
貴女がいない世界は色のない、硝子のような世界なのに。
俺が愛せるのは、君だけなのに。
——パキッ
静寂の広がる部屋で、何かが凍り付くような音がした。自分の肺が鳴らす浅い呼吸音も、すべてが硝子の向こう側へ遠のいていく。このまま閉じこもってしまいたい。なのに、あの音が、氷の音が気になる。外を映すことを拒む瞼をわずかに持ち上げると、視界の端に、ありえないはずの色が灯っていた。
「アンネ……?」
それは、羽音すら立てなかった。
月明かりさえ届かないこの暗がりに、そこだけが青白い光を放ち、透き通っている。
氷でできた薄い翅を持つ一羽の蝶が、夜の深淵から滑り落ちるように、俺の鼻先まで降りてきた。
「あ……」
枯れた喉から、かすかな吐息が漏れる。蝶は、冬の静寂をそのまま切り取ってきたかのような冷気を纏いながら、迷うことなく、俺の指先へと舞い降りた。
冷たい。冬の日の朝のようだ。
指先に止まった蝶の翅が、かすかに身体を震わせた。その瞬間、俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
冷たいはずの氷の蝶。なのに、そこからは俺の涙を拭ってくれた、温かい彼女の指先と同じものを感じる。それは言葉ではなかった。けれど痛いほど伝わるこの気持ちは何だろうか。
「私はここにいる」と。
「諦めてなどいない」と。
視界は震え、左手はしわが出来るほど胸を掴んでいる。黒く染まった世界には、またあの日のような青い光が差し込んでくれた。
(ああ、そうか)
これは、彼女が綴った、名前のない手紙なのだ。揺れ動くする蝶から伝わるものは、彼女の魔力だ。
「アンネ……君は今も戦っているんだね」
かすんだ視界の輪郭がはっきりと見えてくる。硝子の世界に色がついていく。
——パリン
役割を終えた青い蝶が、俺の指先で繊細な音を立てて砕け散っていく。俺はサラサラと消える粉のその一粒まで、手の中に閉じ込めた。
残ったのは冷気と、確かに消えない灯火。
アンネリーゼは生きている。
世界を変える神様が俺を必要としている。
俺は身体に、未練があるかのように纏わり付くシーツを跳ね除け、重たい扉のドアノブに手を乗せた。いざ捻ると、思っていたよりずっと軽く開いてしまう。
扉の前に置かれた、金属食器の冷え切った食事。きっと残飯か何かの詰め合わせだろう。俺は震える手でその皿を引き寄せて泥のようなスープを、貴族の所作で丁寧に、一口無理やり胃に流し込んだ。
吐き気がするほど冷淡な、けれど生きるために必要な味がする。
「待っててね、アンネ」
掌にはもう、砕けた蝶の欠片すら残っていない。それでも、彼女が残した冷たさだけが、火傷のように俺の指先に焼き付いている。
君が言葉を捨ててまで、俺に命を繋げと言うのなら。
この目は、二度と絶望に伏せるために閉じたりはしない。
透明な硝子の世界は、ゆっくりと色を取り戻していく。
たとえこの先、どれほど冷たい夜が続こうとも。赤い瞳が貴方のために燃え続ける限り、傍で足元を照らす灯火であり続けよう。




