15
その日は朝から厄日だった。
寝坊してネジには嫌味を言われるし、パンは焦がすし、スープはガイに当たってひっくり返った。
服は汚れるし、余計な掃除は増えるのに、仕事は減らない。
ガイは『まー、そういう事もあるって』と背中を叩いてくれたけど、ネジは『もったいねぇ!』と焦がしたパンを見て口をへの字に曲げていた。
イライラして、エプロンを机に叩きつけて、玄関のドアに手をかけた。
途端に、また床板の罠を踏み抜いたらしい。
玄関から入れば頭の後に当たっただろうに、玄関から出るつもりだったから顔面にボールが当たった。
鼻が潰れたら慰謝料請求してやる。
なのにネジからは『帰りに牛乳買って来て』
心配するでも謝るでもない、この不遜な態度。
ジロリとネジを睨みつけ、盛大に舌打ちすると、あたしは玄関から外に飛び出していた。
パン屋の2軒先に、牛乳は売っている。
牧場で自家卸している牛乳を2本、それからおまけにチーズも貰った。
この街は人との距離が近くて、私は魔術師だというのに、特に警戒もされていない。
まぁ、ネジ達母娘が住んでいて、単純に慣れているのもあると思う。
あたしが住んでいる場所とは全然違うんだな、と最初びっくりした。
あたしが住んでいる所は、もっと互いに非干渉的だ。
仲間の魔術師は普通の人間を役に立たない存在だと信じているし、態度にも出す。それが当たり前だと思っていたから、あたしもそうだった。
ネジに言われるまで、そしてこの魔力封じの腕輪をつけられるまで、あたしはその態度がどういう意味と未来を作るのか、全く考えていなかった。
魔力がなければ役立たず。その事を身に染みて理解した。
そして、あたしが今まで役立たずだと思っていた人達がそうではない事を漸く理解できた。
パンの焼ける匂いが漂ってきて、少しだけ息が上がる。
彼は、パン屋で働いている。
背が高くて、優しそうな雰囲気の人だった。
名前はカート。年は24歳。
このパン屋の息子で、この午前中からお昼までの時間はカートが売り子をしている。
初めてパンを買った際に、お金を渡す時にハンカチを落としたと、お店の外まで追いかけてきてくれた。
その時、私は民家の側を歩いていた。
民家では水を掛け合って遊ぶ子供達がいて、大変長閑な景色だった。
その声が、『あっ!』と悲鳴じみた声を出す。
少年の持っていたバケツが何故か上から降ってきた。
中には水が入っていて、これは濡れると覚悟した。
なのに、あたしは濡れなかった。
追いかけてきたカートがあたしを抱き締めるようにして庇ってくれたから。
男の人に、そんな風に庇われたことも、抱き締められた事もなかった。
初めての経験は、ドキドキとトキメキを運んできた。
あたしの代わりに濡れたカートは、水を払いながらも、『濡れてなくて良かった』と笑っていた。
その懐っこい笑顔と、自分を庇ってくれた逞しさに、胸がときめいた。
そして、あたしはカートへ、淡い恋心を抱いている。
伝えるつもりはなくて、それは本当に、顔が見れたらいいくらいの、淡い淡い初恋だ。
「こんにちは」
「いらっしゃい!ユリちゃん、今パン焼けた所だよ!」
「そうなの?」
カートは奥のパンを指差す。
「胡麻入りの堅パンだね。サンドイッチにオススメだよ」
「…じゃあそれにするわ」
サンドイッチ、作るの楽だし。
焼き立ては美味しいもの。
決してカートに言われたからじゃない、はず。
「はーい。ちょっと待っててね」
カートはにこやかに笑ってオススメした堅パンを包んでくれる。
代金と引き換えにパンを渡す時に、ほんのちょっと手が触れて、恥ずかしかった。
「あ、これオマケ」
カートはいつも少しのオマケをくれる。
今日は小さなクッキーが入った袋だった。
皆が貰っているのかもしれないけれど、そのちょっとしたオマケは、特別扱いされているようで悪い気はしない。
にっこり笑って手を振って、あたしは店を後にした。
忘れ物はしていないから、当たり前だけど、カートは追いかけてはこなかった。
本当に、厄日だと思う。
なんでこの男がここにいるのか。
あたしの前に立つのは、仕立てのいい服を着た、気取った男だ。
ネジやシフトと同じ、20歳。
あたしの大嫌いな、親が勝手に決めた婚約者。
「何しに来たの?」
にこりともせず、真顔で問う。
形式上の婚約者、ロウはニヤニヤと笑っている。
「ご挨拶じゃないか。帰ってこない婚約者を心配して迎えにきてやったのに」
「頼んでないわ」
恩着せがましい態度に、物凄くイラッとする。
ロウはあたしを見て鼻で笑った。
「まさか、白魔女の小間使いになってるなんて。お父上とお母上が知ったら血相変えて飛び込んでくるんじゃないか?」
「用件はなに?」
「別に。ああ、でも、一度ご両親に顔を見せた方がいいんじゃない?勝手に出て行って心配してるよ。俺が一緒に謝ってあげるから」
ぐっ、とロウは急に腕を掴んでくる。
その逃がす気のない力の入りように、ゾッとする。
「離してよ!」
腕を振り払うと、ロウはさっきまでのニヤニヤ笑いをやめて、冷ややかにあたしを睨んできた。
「生意気な。お前みたいな可愛げのない女、僕じゃなきゃ嫁の貰い手がないんだぞ」
「うるさいわね!あたし、あんた大っ嫌いよ!」
「この…!」
カッとしたロウが手を振り上げる。
昔からそうだった。
短気ですぐに手が出る男なのだ。
でも外面だけは良くて、両親に言ったら何故かあたしが窘められた。
だから、今までは大人しくしている方がいいと思っていた。
大嫌いだけど、金はある。
両親はそのお金にも魅力を感じているだろう。あたしの家はどちらかといえば裕福な方だけど、お金があるに越したことはないし、娘にもお金の苦労がない生活をさせてあげたいと思っているのだ。
いつもなら魔力でロウの手を弾き返すのに。
魔力封じの腕輪を嵌めた今、それはできない。
ギュッと目を瞑る。
衝撃は落ちてこなくて、代わりに今朝も聞いた声が降ってきた。
「うわ。あぶねー!」
ガイはあたしを後ろから抱き締めるようにして引き寄せて、腕の中にすっぽりと収めてしまう。
「ちょっと。女の子に手なんか上げるもんじゃないでしょー?」
「な、なんだ、誰…」
「何でも誰でもいいよ。ねぇ、騎士団呼ばれたい?」
言い方は優しげなのに、声が怒ってる。
低い声は威圧的で、普段の様子とは全然違う。
「なっ…僕は魔術師だぞ!?」
「あっそ。魔術師なら女の子に手ぇ上げていいとでも思ってんの?」
ガイの正論にロウがぐっと言葉に詰まる。
それを冷ややかに見つめてガイはあたしごと体の向きを変える。
「ほら。帰るぞ。大魔王が牛乳が来ないってキレてんだよ」
「え…あ…うん」
背中を押されて動き出す。
ロウの様子を伺おうと振り向こうとしたあたしをガイが止めた。
「振り向くなよ。大丈夫だから早く行こ」
「でも」
「そうやって振り向くからつけ上がるんだよ」
ピシャリと言われて、ぐうの音も出なかった。
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