CASE 05:SAVE THE CAT
建物の裏手に回ると、1本の木があった。中ほどの高さで枝分かれしている。
すでに何人かが、その木を見上げて立ち止まっていた。小声で言葉を交わしながら、時折、上を指差している。
建物の窓越しに、様子を窺っている住民もいた。
そして――
「ニャアーーーー!」
鳴き声が、はっきりと聞こえた。
枝の上。丸まった黒猫が、身を低くして動けずにいる。ジョージは、何も言わずに木を見上げた。さっきの“違和感”が、形を持った瞬間だった。
「な?」
トミーが顎で上を示す。
「さっきから、あそこでずっとだ。降りられねぇみたいでよ」
「消防は?」
「呼ぶほどでもねぇだろ? ……でも放っとくのもなぁ」
トミーは手にしたコーヒーを一口飲んだ。
その口調は、解決を求めているというより、ただ状況を共有しているだけに近い。
ジョージは、無言でゴミ袋を下ろした。それだけで、ヴィンセントは察した。
「行くのか?」
「……ブーストを」
「おぅ」
ヴィンセントは木の元まで歩いて行き、無言で腰を落とした。両手を組み、足場を作る。
ジョージは助走をつけ、ためらいなくその手のひらに踏み込んだ。
合図も確認も要らない。身体が、その形を知っていた。
ヴィンセントが膝を伸ばし、組んだ両手でジョージの体重を真上へと放り出す。
下からの爆発的な推進力は殺さない。
ジョージは空中で右足をヴィンセントの肩に一瞬だけ預け、さらに高く蹴り上がった。
兵士時代、何度もやった動きだ。
ジョージはそのまま木に取りついた。動きは速く、無駄がない。
重心は常に内側。樹皮の柔らかい部分を避け、硬い感触だけを拾っていく。
下から、「おぉ!」と感嘆の声がいくつか漏れた。
ジョージは気にしない。視線は上だけを追っていた。
猫の少し下で、動きを止める。枝は細いが、まだ耐える。体重を預けすぎない位置だ。
猫が威嚇した。背中を丸め、毛を逆立てる。爪が枝を掻き、乾いた音が響く。
距離を取るように、じりじりと後ずさる。
「……大丈夫だ」
ジョージは、ゆっくりと手を伸ばす。急げば、飛ぶ。躊躇すれば、落ちる。
ジョージは一瞬、距離を測った。次の瞬間、ためらいを捨てる。
――掴んだ。
乱暴に見える動きだった。だが、それ以上躊躇すれば、猫が暴れて落ちる。
猫は激しく暴れた。前脚が振り回され、爪が走る。
「っ……」
額に鋭い痛みが走る。血が、視界の端を赤く染めた。バランスが、わずかに崩れる。足裏が、枝を外した。
「ジョージ!」
ヴィンセントの声が下から響いた。身体が落ちる。
その途中、太い枝が視界を横切った。次の瞬間、左頬に強烈な衝撃が叩き込まれる。
息が抜ける。胸の奥で、鈍く、ひゅぅと空洞のような音が鳴った。それでも身体は止まらない。
最後に、重力がすべてを持っていった。
周囲から、どよめきが起こった。続いて、悲鳴。
その音が形になるより先に、ヴィンセントは動いていた。視線を向けることもなく、一歩踏み出す。腕が上がり、身体が位置を取る。
ジョージの身体が、強くぶつかった。ヴィンセントはその重さを正面から受け止めなかった。
膝を折り、体重ごと沈み込み、足をわずかに滑らせて衝撃を逃がす。片腕を背に回し、もう一方で身体を固定する。ジョージの身体は、地面に打ちつけられなかった。
一瞬、辺りは静かになった。誰も動かない。次の瞬間、猫が腕の中から跳ね出た。
着地は完璧だった。毛を逆立て、無傷のまま、ジョージを睨みつける。
短く鋭く威嚇すると、走っていった。
人の足の間をすり抜け、路肩の車の影へ。最初からそこにいなかったかのように、姿を消した。
一瞬の静寂。それから、歓声が弾けた。
拍手。安堵の笑い声。彼らを称える声。
誰かが猫の無事を話している。
だがその音は、ヴィンセントには届いていなかった。
視界が、切り替わる。
――砂。
――土煙。
――叫び声。
――担架が足りなかった夜。
転落した兵士を、何人も見てきた。
助かった者も、助からなかった者も。
違いは、いつも一つだった。
落ちたあと、動かしたかどうか。
ヴィンセントは、ジョージを離さなかった。
抱えているように見えるが、違う。
背中に回した腕は、支えるため。
肩から首にかけた手は、固定のため。
戦場で、何度も繰り返した形だった。
余計な声は出さない。名前も呼ばない。
「……意識は」
低く、短い問い。
「ある」
返事は即座。呂律も正常。
それだけで、頭の中のチェックが一段落する。
ヴィンセントは顔を近づけ、胸の上下を感じ取る。
呼吸は浅くない。
咳もない。
額の血が、視界に入る。派手だが、量は知れている。
問題はそこじゃない。
左頬。強打。首。
ヴィンセントの指が、確認箇所をなぞる。
わずかに位置を変えた。
顎が不用意に動かないよう、力を分散させる。
これは優しさじゃない。判断だ。
「動くな」
命令でも、叱責でもない。確認。
ジョージは、何も言わずに従う。
その光景を、周囲は見ていた。
大柄な男が、小柄な男を抱き留めている。
額に血が流れているのに、拭こうともしない。
顔を見て、周囲を完全に遮断している。異様なほど、静かだった。
「救急車、呼んだ方が……」
誰かが、恐る恐る口を挟む。
ヴィンセントは、視線を上げなかった。
「今は要らねぇ」
即答だった。迷いがない。
「首を打ってる可能性がある。立たせるな」
それだけ言って、口を閉じる。
その短さが、かえって際立った。
救助隊の対応ではない。
戦場で身についた、軍人の手順だった。
感情は排除。
必要最低限。
端的かつ、合理的。
それが、周囲の勘違いを決定的なものにした。
離れない腕。
近すぎる距離。
見つめ合う二人。
他人を寄せ付けない空気。
誰かが、小声で言う。
「……やっぱり、あの2人……」
「普通、あんな抱き方しないわよね」
誰も笑わない。誰も否定しない。
納得の色だけが、静かに広がっていく。
ヴィンセントは気にしない。
ジョージの呼吸が、安定している。
それだけで、判断は終わっていた。
ドロレスの噂話が、否定される理由を失った瞬間だった。




