『届かぬ春、名前を呼ばれた秋〜後編〜』
ある晴れた朝、私は伊茶さまのための水を汲むため、井戸に向かった。本当は別の侍女が当番だが、今日は体調を悪くしているので、代わりに私がすることになったのだ。井戸に行けば、そばの縁側に誰かが腰掛けていた。誰なのかが分かり、私は思わず、髪に乱れがないか確認した。髪を撫で付けて、耳に掛けた。
「あの……」
「ああ、あなたは」
水様だった。嬉しい、私のことを覚えてくれていたんだ。水様は私に気付くと、腰を上げて丁寧に朝の挨拶をしてくれた。私も笑顔で応えた。どうして水様がここにいるのかは分からないが、朝一番に水様に会えるなんて、今日はなんて良い日なのだろうと思った。
「あのーー」
「あ」
何か話題をと思って声を掛けようとすれば、水様は私の肩越しに誰かを見つけたようだった。そして、私に向けた微笑みよりも嬉しそうに笑った。
「桜音殿、おはようございます」
「おはようございます。あら、あなたは伊茶様の」
振り向けば、そこにいたのは桜音様だった。桜音様は朝急いでいたのか、右側が少し跳ねたままだった。私は音様にも挨拶をした。
「お、おはようございます」
「おはようございます」
桜音様は笑顔で私に返してくれた。水様は、私と桜音様の様子を見たあと、井戸に近寄って颯爽と水汲みを始めた。
「ちょっと水さま、勝手に始めないでください……」
「え?いつものことでしょう」
‘いつものこと’。そうか、水様は、桜音様を待っていたのか。水様が、千姫様の侍女方と上手くいっていないのではと勝手に思っていたのは、私の傲慢だったのだ。
私がそう思っているのをよそに、桜音様が私に声を掛けた。
「いつもの当番の方は?」
伊茶さまの侍女のことだ。
「あ……はい。今日は体調が悪くて、私が代わりに」
「そうだったんですね。水さま、もうひと汲みしてください」
「分かりました」
桜音様が言うと、水様は当たり前のように私の分も水を汲んでくれた。侍女が水様に何かお願いする場面など見たことがない。もしそんな人がいれば、きっと自慢し合っていると思う。桜音様の態度はとても自然で、水様も何も違和感もなくそれに反応している。
「さすが水さまですね、ありがとうございます」
「でしょう?桜音殿は、水を汲み上げるときに肩が上がりすぎなんです」
「まあ、酷い言いようですね」
「肩が上がると、変なところに力が入ってしまうんですよ」
「はあ、物知りですねえ」
それを見ていて、とても悲しくなった。どう聞き取っても、桜音様の発言はお世辞なのに、水様は勝ち誇ったような顔で桜音様を見る。そして、水様の指摘に桜音様は笑いながら応えながらも、桶を持とうとしていた。桜音様を揶揄うくせに、水様はそれを「私が持ちますから」と手を伸ばした。だが、桜音様はそれに首を振って断った。
この二人、私の存在を忘れていないだろうか、と叫びたくなった。
「水さま、慣れていないと思いますし、伊茶様のところまで運んであげてください」
二人に対して、暗い気持ちがどんどん生まれてくる。それなのに、桜音様は水様に指示をした。それも、私のために。
桜音様の言い分に、水様はすぐに反応せず、少し整理をしているように見えた。納得した水様は、すぐに笑顔になった。
「……そうですね。桜音殿、それ、落としては駄目ですよ」
「私は大丈夫ですったら」
「では、またあとで」
なんだか悔しくなった私は、声を荒げてしまった。
「いいえ、大丈夫です。それに、朝から伊茶さまのお部屋に水様が現れたら、伊茶さまが驚かれてしまいます」
私のことなのに、二人ばかりで話を進めないで欲しかった。
水様は私の気持ちなんか知るはずもなく、首を傾げて私を見る。
「重いですから、途中まで手伝います」
「大丈夫ですっ!」
両手の拳をギュッと握って大きな声で言った。水様がせっかく親切心で言ってくれているのに、私はムキになってしまった。私の態度に驚いたのは水様だけでなく、桜音様も黙ってしまった。気まずい雰囲気が流れた。
「……申し訳ありません。私は大丈夫なので、桜音様のお手伝いをしてください」
頑張って、笑顔で水様に言った。水様は申し訳なさそうに「そうですか」と言った。
「それでは……失礼します」
私はそう言ってその場を後にした。遠くから振り向けば、水様が桶を持ってあげていた。
「水さま、私が持ちます」
「頑なですね、私のほうが力強いのに。あと、髪跳ねてますよ」
「えっ」
私の気持ちを知ってか知らずかは分からないが、桜音様は水様を非難しているのが聞こえた。水様は、私の気持ちなんか分かるはずない。まさか、いち侍女が想いを募らせているなど想像できるわけがない。だって、水様は私の名前すら覚えてない。桜音様の名前はあんなに親しく呼んで、優しく接しているのに。
私と桜音様は、いったい何が違ったんだろう。もう、夢を見るのはやめようと思った。
それから、大坂城で水様を見つけても、私は避けた。不可抗力ですれ違っても、笑って挨拶ができなかった。でも、やっぱり水様の話題には聞き耳を立ててしまうし、遠目で見かけたときは、やっぱり格好良いなあと思った。
運が良いことに、水様と桜音様が二人並んでいるところを見かけることはなかった。それに、見かけないほうが良い。隣に桜音様がいたらもっと辛い。
きっと水様は私のことなどどうも思っていない。だから、私は仕事に没頭した。
それから暫く経ち、衣替えの季節がやってきた。私はまたも大荷物を運ぶはめになった。皆で手分けしているし、他の姫の侍女たちも忙しくしているだろう。私は、前が見えないくらいの着物を積み上げていた。少し無理をし過ぎたかもしれない。もしこれで、局様や、茶々様や甲斐姫様になんかにぶつかったりしたら、と冷や汗をかいていた。
「それはさすがに持ちすぎではありませんか。手伝います」
聞き覚えのある心地の良い声が目の前から聞こえた。だが、荷物が多すぎて前が見えない。言葉が切れたあと、手元はすぐに軽くなっていた。半分以上を、水がヒョイっと持ってくれた。申し訳なく思い、水様の申し出を断ろうとした。
「い、いけません、さすがにこの量は」
「いいえ、私のほうが力がありますし……前、見えてなかったでしょう」
「う……」
図星を突かれて言い返せない。せっかく想い人の前なのに、両手が塞がれて髪の乱れを直すこともできない。
二人で廊下を歩く。水様は、やっぱり私の歩幅に合わせて歩いてくれる。驚いたことに、思ったより冷静でいられる自分がいた。
「あの……千姫様も衣替え作業をされているのでは?」
「千姫様のは終わりましたよ。多分今、茶菓子を用意していると思います」
「参加されないんですか?」
「私はお菓子を頂く立場ではないので。それに、今戻ったら、千姫さまに無理やり食べさせられるんです」
「はあ……水様も、色々大変なのですね」
「はい。しかも、桜音殿が用意した茶菓子だと、絶対食べないと千姫さまが怒るんです」
水様が苦笑いしながら「桜音殿が選んだお菓子にハズレはないんですけど」と付け加える。別の侍女が選ぶと、ハズレのときがあるんだなと思った。言葉だけ受け取れば愚痴にも聞こえるのに、どこか楽しそうだった。やっぱり、水様は桜音様と仲が良くて、どこか特別なのかな、と想像がついた。
水様が再び伊茶さまの部屋に現れ、またも盛り上がった。そして、やっぱり伊茶さまが茶菓子で水様を釣ろうとした。
「すみません、千姫さまたちがくださると思うので、私はこれで失礼します」
‘千姫さまたち’と言う水様の表情がとても優しかった。なんだかんだ言って、水様は千姫様や、桜音様のところが心地が良いのだろう。それに今日の茶菓子は桜音様が用意したものだから、本当は食べたいのではないだろうか。なんだか、水様を早く帰してあげたくなり、話を切り上げるため、改めてお礼を言った。私の名前なんて、覚えていないのだろうけど。
「あの、お手伝いありがとうございました。引き留めてすみません。どうぞ戻ってください」
「ありがとうございます。それでは」
水様は今日一番の笑顔で、私に言葉を続けた。まあ、その笑顔は、千姫様や桜音様のところへ戻れる嬉しさだからなのだろうけど。
「梅殿」
梅殿、と呼ばれた。なんだ、私の名前、知ってたんだ。
きっと次に水様とすれ違ったときは笑える気がする。
この秋、秘めていた片思いは叶うことはなかったけれど、少し報われた気がした。




