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『なんでも言うことを聞く日〜最悪な事態〜』

「あっ、すいさま、手を強く握っては駄目と言ったでしょう」


 バレてしまったかーー。桜音おとが水の歩き方がまた男らしくなっているのに気が付いた。体の横で拳を握って歩く方がしっくりくるのに。


 先ほど、桜音から丁寧に指を伸ばし、右手を下にして体の前で手を揃えて歩きなさいと言われた。そして今、桜音はサッと水に駆け寄って、手を握って姿勢を直してくる。


 ……近いなぁ。


 普段、桜音は自分から距離は詰めてくることは少ない。いつもこちらから揶揄いに近寄ったりするのに、今の桜音は水に遠慮なく触れてくる。今、桜音は下を向いて水の手元をにぎにぎしているが、このまま上に向いてくれた桜音はきっとびっくりしてひっくり返るんじゃないかな、などと思った。


「聞いてます?」

「っ!」


 桜音がこちらを向いてきた。思わず、固まってしまった。桜音は、完全に侍女状態なのか。突然の至近距離に水が驚いてしまった。


「水さま?」

「ふふっ……、水ったら」

「水様ー、桜音ちゃんに見惚れちゃダメじゃないですかぁ。桜音ちゃんは、仕事中なんですよ?」

「そうよ水。あなたも侍女として自覚を持ちなさい」


 自覚を持てと言われても。自分は、千姫とお千代を怒らすようか何かをしてしまったのかと問いただしたくもなる。桜音を見てみれば、楽しそうに笑っている。


「……何がおかしいんです」

「いいえ、水さまが可愛らしくて」

「……」


 水のことを可愛いと思うなど、桜音の美的感覚はどこかおかしいのではないだろうか。言い返してやろうかと思ったが黙っておいた。



 千姫が一度外に出たいと言うので、仕方なく本丸から出ていくことにする。二の丸に続く橋のかかる庭に行くことになったが、なんだか嫌な予感がした。


 何人かとすれ違ったが、どうやら自分が水だとはバレていないらしい。だいたいの人にジロジロと見られ、「どなた?」「新しい侍女?」などと聞こえてくる。その反応を見て、千姫は一人クスクスと笑い、満足そうである。


 そもそも、茶髪の女は自分しかいないのを皆忘れているのか。


 突然、桜音が耳打ちをしてきた。


「千姫さまが楽しんでいらっしゃいますし、今日は我慢ですよ?」

「……分かってます」


 そして「ふふふ」と笑う。楽しんでいるのはあなたもだと言いたい。



「まあ。お義母さま、ごきげんよう」

「千姫か。ここへ出てくるとは珍しいな」

「はい。今日は天気も良いので散歩です」


 うわあ、最悪だ。


 水は心の中で嘆いた。本丸から二の丸にやって来る茶々たちだ。茶々の横には、乳母の常高院、それから上級侍女たちも一緒である。絶対に気付かれたくない。水は少し視線を落とした。


「なんじゃ千姫、その娘は」

「ふふっ、ええ、新しい侍女なんです。うふふ」

「ほおう、随分麗しい雰囲気じゃのう」


 大坂城にいる女たちの感覚はおかしいのではないだろうか。茶々が怪しく笑いながら近付いてくくる。そして千姫は楽しげに笑っている。千姫の言動が茶々に似てきたな、と水は思った。茶々が目の前に来ても、水はその場で下を見続けた。頭を下げているのだから仕方ない。が、逃げ出したい気分だ。


 茶々が水の顎に扇を掛けた。そしてクイッと上を向かせる。茶々はマジマジと水の顔を見ると、おかしそうに笑い声をあげた。


「ほほほっ、これはこれは、面白いのう。お前、随分と綺麗な顔をしておるな、どこかで見た顔だが。薄化粧でこれか。お前、名はなんじゃ」

「え、ええと、あのう……」


 楽しそうなのは茶々と千姫だけ。茶々の下の者たちは「茶々さま、いかがされたのでしょう」「あの娘が気になるみたい」と口々に言う。桜音とお千代は苦笑いで千姫に耳打ちしていた。


「さすがにちょっと、可哀想でありませんかっ?」


 お千代が可哀想とは言っているが、絶対思っていない。


「そう?可愛いと思うわ」

「助けなくて良いんですか?」


 さすが桜音、良いことを言う。だが笑いを堪えられていないのは見て分かる。早く助けてーー。


「良いのよ、可愛いじゃない」

「ふふ……そうですか」


 そうですかじゃないーー。水は唾を飲み込んだ。茶々は「ん?」と笑いながら見てくる。絶対に気付いている。そこに、ドスの効いた女の声が響いた。


「なんだその美女は!」


 ああ、また面倒くさそうなのが来たーーこちらに歩いてくるのは長身の女だ。


「甲斐姫か。何をしておるのじゃ」

「散歩だ。しかし茶々殿、新しい侍女を苛めるなど……ん?お前、水か!?」


 甲斐姫が大声で言うと、千姫はニコニコと笑っている。茶々は「ほほほ」と笑い、茶々と甲斐姫の侍女たちは歓声を上げ出した。


「なんだ水、その格好は!よく見ないと気付かないぞ!」

「は、はい……あのう」


 なんだと言われたとて、希望して着ているわけではない、とは言えない。どう説明した良いのは分からず、水は千姫をチラリと見た。甲斐姫が水を上から下までジロジロを見てくるし、茶々も着物や髪を弄ってくる。


「目の保養のために、水に着せたんです。どうです?とっても似合いますでしょう?」


 千姫が二人の大御所の会話に参戦してくる。茶々は「良いことをしたのう」と言い、甲斐姫は「ずっとこれで良いのではないか」とまで呟いている。良いわけないだろう。


「強く美しい侍女か。水は気も利くから、妾の侍女になって貰いたいものじゃ。どうじゃ水、今日から妾のものにならんか」

「茶々殿、それなら先に、私のところで侍女の修行をさせよう。だから今日から私のものだ」

「甲斐姫、お待ちになってください。水は私のところのものです」


 「水は自分のものだ」と口々に言う姫たち。水は正直この遊びに疲れた。ちらりと桜音を見てみれば、拳を握ってプルプルと震えている。何を怒っているのだろう。


 姫たちはまだ、水が誰のものかと言い合いをしていると、桜音が声を上げた。


「すっ水さまは私のーー」

「なんじゃ?」

「ん?私の、続きはなんだ」

「ふふっ」


 皆の視線が桜音に集まる。桜音は恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にして下を向いてしまった。そして、小さな声で呟く。


「……失礼しました」


 桜音が黙ると、茶々と甲斐姫がまた話に夢中になりだした。「変なやつじゃな」「疲れているのだろう」などと言われている。つい面白くなり、水は「くくっ」と笑いを漏らしてしまった。


「なんじゃ水」

「いいえ、失礼しました」


 あのまま桜音が自爆してくれれば、話の矛先が自分ではなくなったのにな、と水は思った。


「さて茶々殿、私の部屋でゆっくりしようではないか」

「そうじゃな。千姫、お主も来い。その新しい侍女も連れてな」

「はい、お義母さま!」


 ああ、本当に、最悪な一日になろうとしているーー。

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