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『私しかいないでしょう?〜雨と異変、崩れた忍び〜』

 桜音おとは、大坂城の千姫の部屋で雨音を聞いていた。昨日から雲行きが怪しかったが、先ほど突然強い雨が降り出した。梅雨が嫌いなわけではないが、今は不安が押し寄せた。すいが四半刻(30分)前に呼び出され、そばにいないせいだった。


「桜音、大丈夫ですよ」


 桜音の気持ちを読んだのか、千姫が励ましてくれる。いけないいけない、本来、その役目は自分なのだから。


「そうですよね、申し訳ありません」

「大丈夫だって桜音ちゃん。水様だったら、変な人がいてもすぐにやっつけてくれるよ」


 姫君たちが生活をする大坂城の本丸御殿の庭に不審者がいるとの緊急連絡があり、見回りのために水が駆り出されていた。水は絶対に外に出ないようにと千姫たちに伝えると、すぐに行ってしまった。今、千姫の部屋の前には、長刀の装備をした侍女が控えている。


「……雨、止みそうにないですね」

「ええ……」


 水が戻ってきたのは、入浴の時間が終わってしばらくしてからだった。


「千姫さま、水、です。……戻りました」

「水、ご苦労さまでした。顔を見せなさい」

「……失礼します」


 部屋の外から水の声が聞こえる。雨音のせいか、水の声が小さく感じた。襖がそっと開き、水が顔を覗かせた。朝と着物が変わっており、髪は濡れていた。


「水、どうしたのですか、その髪。桜音、お千代、手拭いを」

「はい」


 千姫が立ち上がる。三人の行動に、水は「大丈夫です」と間髪入れずに言う。やっぱり、少し声に張りがない気がする。


「雨に濡れただけです。一通り吹き上げましたし、もう少しで護衛も交代ですから」


 水は千姫を安心させるように笑顔を崩さない。「手拭いもあります」と年季の入った自分の物を見せてきた。千姫は水に近寄った。


「水、今日はもう休みなさい。風呂場を使って結構ですから、体を温めるように」

「お心遣いありがとうございます。ですが、いけません。身は清めたので大丈夫です。最後まで護衛をさせてください」

「……そう?でも、無理をしては駄目よ」

「はい」


 千姫が率先して水を気遣うので、桜音はそれを見守るしかなかった。外がすっかり暗いせいなのか、水の顔色が良くないようにも見えた。気のせいだろうか。



 翌朝、雨は止んでいたがどんより曇り空だ。雨の匂いも残っており、またいつ降り出してもおかしくなさそうである。桜音は井戸で水を待っていたが、姿を現さない。昨日は疲れていたようだから、ゆっくりしているのだろうか。桜音は、水汲みをして朝の仕事に取り掛かった。


 やはり、また雨が降ってきた。昨日ほどの勢いはないが、シトシトという雨の音を聞きながら、桜音はお千代と食事を持って千姫の部屋に向かった。


 水は夜の護衛と交代し、待機していた。二人に気がつくと、いつもの爽やかな笑顔で挨拶をしてくれる。


「おはようございます」

「水様、おはようございます」

「……」


 なんだか、水の声が掠れているような気がする。それに、桜音は水の服装に違和感を覚えた。この季節、水は羽織を着ないし、今日はいつもより首巻きをしっかり巻いている。桜音は、食事をお千代に頼んで先に部屋に入ってもらった。


「桜音殿、今朝の水汲みは申し訳ーー」

「水さま、体調悪いのではないですか?」

「いえ、そんなことは……寒暖差が激しいですから、着ておこうと思って」


 水の頬が少し赤いように見える。何か言い訳をしているが、休んでもらったほうがいいのではないだろうか。


「寒いんですか?」

「少しだけ。でも大丈夫ですよ。桜音殿は早く中に入ってください。風邪を引いてしまいます」


 どっちが……と言いたいところだったが、水に何を言っても聞いてくれない気がした。桜音は「何かあったら言ってください」と伝えたが、「大丈夫です」と笑顔で貫かれたので、返す言葉がなかった。


「そう言えば、昨日の不審者の件、どうなったんですかね」


 お千代が千姫に話を降った。大坂城に侵入者など、桜音が知る限りない。厨房では、「徳川家が何か差し金をしているのでは」という声も上がっていた。


「まだ分かっていないそうです。見回りが強化されて、もう少ししたら水もここを離れるみたい」

「そうですか……」


 水は大丈夫なのだろうか。千姫は昨日の時点で水の様子がおかしいと思っていたようだから、今朝も声掛けをしているとは予想がつく。水が仕事をすると言っているのだから、千姫もそれを受け入れたのか。


「早く解決してほしいわね……」


 千姫は、ぼそりと呟いた。お千代が「本当にそうですね」と相槌を打つ。


「千姫さま、では、行ってまいります」

「気を付けて行くのですよ」

「はい」


 水は襖の外から声を掛けるだけで、顔は見せてくれなかった。雨は、まだ止んでいなかった。


 千姫の別の侍女が、不審者騒動のことを知らせにきた。どうやら、秀頼の側室の子・国松の遊びが原因で、側近が侵入者のふりをさせられたということだった。思ったより大事になってしまい、2日間も振り回される羽目になったらしかった。桜音たちは胸を撫で下ろした。


 その後、桜音が直接水の顔を見たのは、一日の仕事を終わらせたあとだった。いつもなら、桜音が声を掛ける前にこちらに気付いてくれるのに、今日はそうではない。


「水さま?」

「……ああ、桜音殿、お疲れ様です」

「水さま……早く休んだほうがいいです」

「千姫さまと同じことを仰るんですね」


 水は笑って冗談を言う。絶対に、無理をしている。千姫には適当に言い訳したに違いない。


「部屋まで送ります」

「……はい」


 水は掠れた声で言ってくれる。桜音は渋々頷いて、水と一緒に歩き出した。気のせいだろうか、水の動きがいつもより鈍い。いつも話しながらゆったり歩いているのだが、水は時折荒い呼吸をしていた。話し掛けようにも、そんなことはできなかった。


 部屋に着くと、いつも通り、水は桜音が襖を閉めるまで帰ろうとしない。見上げれば、朦朧とした瞳がこちらを見つめていた。


「桜音殿……おやすみなさい」

「ええ……おやすみなさい……」


 襖を閉める気にならず、そのままでいると水が首を傾げてきた。


「……どうしました?」

「いえ……水さま、早く戻ってください」

「桜音殿が襖を閉めたら行きますよ」

「……じゃあ、おやすみなさい、水さま……」


 水は弱々しく笑うので、桜音は襖を閉めるふりをした。姿が見えなくなるまで見送ろう。でも、隠れて見ようものなら、水は気が付くだろうか。桜音は襖を閉めきれずにいた。こっそり間から顔だけ出して覗いてみれば、少し歩いた先で、水がふらつき、壁に手をついていた。


 やっぱり……!

 

 桜音は襖を全開する。

 

 その瞬間、バタンーーという音が響いた。

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