第9話「そっち側の匂い」
森の奥は、暗かった。
昼のはずなのに、光がほとんど届かない。
ガイは、止まらず歩いていた。
足音だけが、やけに響く。
「……静かすぎるだろ」
誰に言うでもなく、呟く。
返事はない。
でも――
「気づいてるくせに」
声がした。
ガイの足が、止まる。
振り向かない。
「……出てこいよ」
「いるんだろ」
沈黙。
そして、ゆっくりと。
木々の間から、“それ”は現れた。
人の形をしている。
でも、人間じゃない。
影が、にじんでいる。
顔は見えるのに、はっきり認識できない。
「へぇ」
そいつは、笑った。
「壊れなかったか」
ガイが、眉をひそめる。
「……なんだ、お前」
そいつは、答えない。
ただ、近づいてくる。
一歩。
そのたびに、空気が重くなる。
「いい匂いがする」
鼻を鳴らすように言う。
「同じだ」
「俺たちと」
ガイの目が、わずかに細くなる。
「……は?」
そいつは、ガイの周りをゆっくり歩く。
観察するように。
「抑えてるな」
「でも、もう無理だろ?」
ガイの拳が、わずかに震える。
「うるせぇよ」
そいつが、笑う。
「さっき、出ただろ」
「“あっち側”が」
その言葉で、
ガイの中の何かが、ざわつく。
ミナの顔。
“怖い”と言われた瞬間。
「……黙れ」
低い声。
「事実だろ?」
「お前、人間のままじゃいられない」
沈黙。
否定したい。
でも――
否定できない。
そいつが、手を伸ばす。
「来いよ」
「楽になるぞ」
「抑えなくていい」
「怖がられなくていい」
ガイの呼吸が、乱れる。
「……楽、ねぇ」
笑う。
でも、その笑いは歪んでいる。
「ふざけんなよ」
一歩、踏み出す。
「俺は――」
言葉が、止まる。
“何なのか”が、わからない。
人間か?
違うのか?
「ほらな」
そいつが、ささやく。
「居場所、ねぇだろ?」
その一言が、
決定打だった。
ガイの目が、完全に揺れる。
「……っ」
奥で、何かが弾ける。
黒い気配が、にじみ出る。
止まらない。
「いいねぇ」
そいつが、嬉しそうに言う。
「やっと出てきた」
「そっちだ」
「それがお前だ」
ガイの視界が、暗くなる。
でも、不思議と――
“楽”だった。
押さえなくていい。
苦しくない。
「……ああ」
ぽつりと、こぼれる。
「これなら」
顔を上げる。
「怖くねぇな」
その瞬間。
黒い気配が、爆発的に膨れ上がる。
ドォン!!
地面が割れる。
木々が揺れる。
ガイの姿が、変わる。
目が、完全に“向こう側”になる。
「はは」
低い笑い。
「いいじゃねぇか」
そいつが、満足そうに頷く。
「ようこそ」
「こっち側へ」
その言葉に――
ガイは、何も返さなかった。
ただ、笑っていた。
人間の顔で。
人間じゃない目で。




