第5話 「殴れない相手」
“それ”は、そこに立っていた。
形はある。
だが固定されていない。
人にも見えるし、影にも見える。
見る角度によって、意味が変わる。
「再定義を開始する」
声は一つではなかった。
複数の“解釈”が同時に重なっている。
少女が一歩前に出る。
「やめて」
その声には初めて“恐怖”が混じっていた。
「その対象は――」
「規格外」
言葉が重なって潰される。
ガイは首をかしげた。
「さっきから何言ってんだ?」
“定義者”が動く。
いや、“動いたことになる”。
その瞬間、ガイの足元が消えた。
「……お?」
落ちるはずだった。
だが落ちない。
“落ちるという現象そのもの”が定義されなかった。
少女が叫ぶ。
「ガイ! それは攻撃じゃない!」
「は?」
「“あなたがどういう存在かを書き換えてる”!」
次の瞬間。
ガイの腕が“薄くなった”。
消えたわけじゃない。
“存在の優先度”が下げられた。
「……なんか軽いな」
定義者の声が響く。
「対象:非戦闘体に再分類」
空間が歪む。
ガイの身体が変わる。
筋肉の意味が消える。
力という概念が外される。
「戦う理由、削除」
少女の顔が青ざめる。
「だめ……!」
ガイが、止まった。
拳を握らない。
構えない。
ただ立っている。
そしてぽつりと呟く。
「……あれ?」
「オレ、なんで殴ろうとしてたんだっけ」
沈黙。
少女が震える声で言う。
「ガイ……!」
定義者は続ける。
「脅威、消失」
「処理完了」
空間が安定し始める。
そのときだった。
――ぐぅ。
音。
ガイの腹が鳴った。
世界が、わずかにズレた。
「……腹、減った」
その一言だけが、消えなかった。
定義者が止まる。
「……例外検出」
ガイがゆっくり顔を上げる。
「なんでオレ、殴ろうとしてたか思い出した」
一歩、踏み出す。
「邪魔されたからだ」
空間が軋む。
定義者が再び“書き換え”を試みる。
「欲求:削除」
だが――
消えない。
ガイの腹が、もう一度鳴る。
「無理だぞ、それ」
ガイは笑った。
「オレ、それで生きてるから」
その瞬間。
ガイの周囲の空間が“抜けた”。
何もしていない。
力も出していない。
ただ、“存在したまま”だった。
定義者が揺らぐ。
「論理矛盾」
「定義不能」
少女が息を呑む。
ガイは拳を握る。
「よくわかんねぇけどさ」
一歩。
「殴ればいいんだろ?」
踏み込む。
その瞬間。
“距離”という概念が消える。
拳が届く。
定義者の“外側”に。
音はなかった。
だが、“定義の一部”が剥がれた。
「……ッ!」
初めて、定義者が後退する。
空間が乱れる。
記録がバラける。
少女が呟く。
「当たった……?」
ガイは首をかしげる。
「わかんねぇ」
ただ一つ、確かなこと。
定義者の“形”が、崩れている。
「異常」
「干渉を確認」
「逆流が発生」
ガイがもう一歩踏み出そうとした瞬間――
空間が強制的に閉じた。
定義者の姿が消える。
静寂。
何もなくなる。
少女がその場に崩れた。
「……今のは……」
ガイは腕を見ている。
「殴れた、のか?」
少女は震えながら言う。
「違う」
「あなたは“殴った”んじゃない」
一拍。
「定義を、壊した」
風が戻る。
遠くで、何か巨大なものが動く気配。
それはもう、“こちらを認識している”。
ガイは笑った。
「じゃあ次は、もっと腹減ってるときにやるか」




