幕間-新しい夜明け
全ての戦いが決着して、しばらく後の事だ。
「……」
我道征矢に殴り飛ばされたエリファは、今だに強く痛む顔も気にせず空を見上げていた。
ざらめの星空だ。
エリファの黒瑪瑙の髪のような宇宙は、無数の星々が連なって黒い世界を照らしている。
「何処が、間違っていたのでしょうか」
エリファという女は自分が間違っているとは思っていなかった。
己の児戯ような行動こそが正しいと確信しており、実際どうにかなるような人生を送っていた。
世界は自分に傅く物だと、そう学んでいた。
だから、このような惨敗は生まれて初めての事で。
普通の人間であれば誰もが何度も抱えるであろうその感情の名前を導き出すのに、無限回の回り道を要求されていた。
「胸の奥に棘のような物が刺さった気分。
それが暴れ回っているような気分。
心臓の中を液体で満たして、水袋のように揺らされている気分」
それは、『悔しい』というありきたりな感情。
たったそれだけの感情が、エリファには導き出せない。
常勝の超越者は、辛酸を舐め続けた常人の視界にまで目線を下げる方法を知らない。
しかし初めての感情に理由を名付けるのは叶わずとも、"不愉快"という感覚はこれ以上なく理解出来ていた。
未知を求めていた筈なのに、既知に退屈していた筈なのに。
なんだこの感情は?知らない、要らない、と____。
「何処を間違え、どう処理し、どうすれば……」
分からない。分からない。
どうすればこの不快感は消えて無くなる?
激情と言うほどでは無い。
いつまでも燻り続け堆積していく汚泥のような不快感に、思わず胸を捌いて中身を掻きむしりたくなる。
自らの胸を握りつぶさんとする力で胸骨を締め付けていると……エリファの視界が唐突に暗くなった。
「手を貸しますか?女王」
「……何の用ですか?ゼヴ」
黒スーツの男。エリファに付き従っていた男、ゼヴ。
彼は倒れ込んだエリファの顔を覗き込んでいた。
見下している訳ではない。現に、差し伸べられた手がそこにはあった。
「もうとっくに、何処かへ消えたと思いましたけど」
「そうしようとは、少し考えたのですがね」
現に、敗北したエリファを助けに革新派の構成員は、ゼヴを除いて一人も来ていない。
最強であるが故の旗印。
絶対であるが故に許された自由と傲慢と異常性。
完成されていたからこそ付き従った配下。
それらは、たった二人の少年少女に打ち倒されたのを機に、当然の帰結としてあっさり空中分解し消えてしまった。
甘い汁を吸う為の木を選ぶ権利ぐらいは、虫にもあるという話だ。
「まだ貴女の事を信じてみようと思いまして」
「あら、お利口ねゼヴ。貴方はやはり私の忠犬なのね」
「いえ、忠犬とは程遠いですが……そうですね……」
例えば、と間を置き、ゼヴは吐き出す。
それまで彼女へ抱いていた感情、その全てを。
「まぁ正直、上司として見るなら最悪の類ですね」
「……は?」
怒りでは無い。呆気に取られたからこそ出た言葉だった。
端正な顔立ちで口を開きっぱなしにする間抜け面を晒すエリファを気にせず、ゼヴの言葉は続く。
「自分勝手に横暴を働く。人の話は聞かない。
そのくせ自分の話を人に聞かせる努力もしない。
進めていた話を投げ出して、自分の都合でのみ生きている。
強くて見た目が整っているだけ。何処まで行ってもそれだけの存在」
「ぜ、ゼヴ?」
「人の復讐心など、聞いた上で構いやしない。
約束を蔑ろにされた回数は両手の指では数えられませんね。
いやはや、思い返せば思い返すほど『なんなんだこの人間は』という感じで……」
以降もつらつらと文句が洪水の様に流れる。
絶対的存在故に誰もが発言する事を恐怖で二の足を踏んでいた事実を、遠慮無しに並べ立てる。
「ですが、まぁ」
たっぷり一分は言葉を放ち続けただろうか。
ようやくそこで一呼吸が置かれて。
「貴女は強いのですから。"天才"なのですから。
今から中身さえなんとかすれば、まだ実用に足ると判断したまでです」
それは、『今からお前を利用してやるぞ』という宣誓そのもので。
"女王"と呼んでいた対象に対して、これ以上無く不敬な言葉であり。
目の前の男が、ともすればエリファの気まぐれ次第で命さえ落としうる状況にどうして自ら飛び込んだのか、やはりエリファには理解出来ず。
「……分かりました」
「大体、他の連中は貴女の事を間違っている。この女は現人神などでは無く、ただの破綻者だと……はい?」
「分かりませんが、分かりました」
「……何ですかそれは。要領を得ない発言ですね」
「何故ゼヴが私にそんな態度を向けて、しかしまだついて来るのか理解はできませんが、そこで思考停止せずに考えようと思ったまでです」
それは、明らかな"変化"だった。
「征矢さまに、言われたのです。『私を信じた人間の事と、本当に目指すべき道を改めて考え直せ』と」
「……ッチ。我道征矢、か」
人の心を理解出来なかった怪物が、初の敗北を経てやっと歩み寄るという考えを導き出せたという"変化"だった。
それを分かっているからこそ、ゼヴという男は不倶戴天の敵に舌打ちをしつつも、それ以上は行動に表さない。
「ねぇゼヴ」
「……なんですか」
ゼヴは我道征矢の話とはまた違う意味で顔を歪める。
たいていこういう言葉の入りをするエリファは、無茶な"お願い"をして来るものだと学習していたから。
「私たち、学び直しね」
だからゼヴは呆気に取られた。
エリファ・ルイ・コンスタンが、このように自分以外の誰かを眼中に入れた物言いをする事など、これまで一度たりとも無かったのだから。
「……破綻者が勝手に一人で学び直してください。俺は元から健常者ですよ」
「あら、口調が砕けましたね。距離が近くなったみたいで少し嬉しいです」
「……言ってろ」
顔を背けるゼヴを肴にしながら、エリファはようやく一人で立ち上がる。
頬はまだ痛む。その痛さを、エリファはやっと自覚してきた。
涙の流れない怪物だった筈なのに、人間らしく痛みによって涙だって少し流れる。
「(これは成長痛、なのかもしれませんね)」
つまるところ。
エリファ・ルイ・コンスタンとゼヴに必要だったものは、自分たちの下につく部下たちでも、より強力な絶対的な力でも無かった。
道を踏み外した時、強引に殴ってでも止めてくれる人間の存在だったのだ。
馬鹿げた思想と捻じ曲がった常識に、不器用でも喝を入れる存在だったのだ。
「アストラルの流れを理解して、この世界の全てを分かっていたと思ってましたのに、まだまだ私は無知なようで……今はそれが少し嬉しいのです」
「それが、なんすか」
「ゼヴ、こんな未熟者と一緒に、もっと沢山の"未知"を見つけにいきませんか?」
「……」
それは一種の愛の告白のようで……しかし、自分以外の誰かに変えられた価値観の女を迎え入れれのは、やはり男としては面白いものでは無く____。
「やっぱりやる気無くしました」
「えっ」
「俺は俺の道を行くんで、アンタはアンタの魔道を行ってください」
「えっ、ちょっと。ゼヴ?ゼヴ!?ずっと私の言う事を聞いていたのに、いつからそんなに聞き分けが悪くなったのですか?ゼヴ____!?」
自分に付き従っていた人間が目の前で悪態をついて離れて行く。
呼び止めても止まらない。
そんな事をされるのも、やはり、エリファにとって初めてで、まだ名前を出せていない『悔しい』が胸の中に積もっていって。
「刑務所にでも何でも行って自首してください。たまには面会ぐらい行ってやりますよ」
「わたくしだけに責任をなすりつけないでください!
貴方も共犯でしょうゼヴ!」
「うわ、次は責任のなすりつけ合い。やっぱアンタ最悪ですね」
それでも、自分の間違いを考え続けるだけの時よりは何十倍も軽い胸中がまだ不思議で。
享楽的に他者の零落を願っていた時よりも、ずっとずっと晴れやかで。
こうして、『人間』・エリファ・ルイ・コンスタンは、魔の道から人の道を開拓する事になる。
自分が知り得なかった、それまで知ろうともしなかった、まだ誰も答えを出せていない長い長い未開の道を。




