第8話
「やめなアデリン! 何てことするんだ!」
ベッキーが強い口調で制止するが、私にのしかかり首元にかけた手に力を込めるアデリンは私を睨み下ろすばかりだ。
「みんな困る必要なんてないじゃない。だって薬の呪いを解く方法はかつての末姫様の頃と変わらないんだから」
言下アデリンが空いている方の手の指先を動かす。応じて、海から水球が浮かび上がってきた。
揺らめく水の向こうに留められているのは、輪郭だけは嫌にはっきりしている透明の刀身のナイフだ。水、で出来ているのかもしれない。
アデリンがそれに手を伸ばすと、水球は音を立てて割れ、中のナイフは彼女の手の中に納められる。逆手に握られたナイフの切っ先は、私に向けられていた。
「ノーマが自分であんたを殺さないと意味ないから、今は手足を動けなくするだけで済ませてあげるわ。――可哀想ね。眠りの魔法が効けば痛みが少なくて済んだのに」
見開いた視界の端で、ジョディたちが岩礁を降りるべく前傾姿勢になる。そんな彼女たちより先に、アデリンが掲げたナイフは私に向かって振り下ろされた。
――けど、私はその手首を掴んでナイフを止める。元々腕力はない方らしいので至極簡単だったのだが、アデリンはぎょっとした。
それでもすぐに正気に戻って、私を睨みながらナイフを両手で持ち直す。そのまま全体重をかけてくるが、やっぱり命の危機は感じない。いや、いつもならもう少し「やばい」とか思うかもしれない。
そうならないのは、アデリンが言った言葉を上手く理解出来ていないから。
「え、あの、ごめん、確認していい?」
「な・に・よ……っ!」
余裕綽々に見える私と、ぎりぎりと震えるほどに力を込めてくるアデリンの差がよほど意外だったのか、他の人魚たちはその場でぽかんと動きを止めているようだ。そんな彼女たちにも、今は視線を向けられない。だって確認せずにいられない。
「あの、ノーマさんが好きな人って……私? 他の男の人じゃなくて? うちの兄弟とかも赤髪だけど」
確信していたけれど、改めて事実だと突き付けられた"彼女"――ノーマさんの名前。
でも今の私はそれ以上に、今問いかけた内容に衝撃を受けている。
だって、思い出してみたアデリンの最初から今にかけての言葉と行動を総合すると、そうなってしまう。もし兄弟たちがライバルなら全力でぶん殴りたい気分だが、一応選択肢として挙げてみる。
けれど、私を睨み続けるアデリンは「あんたよ!」と喧嘩腰に答えてくれた。
「さっきあんたがノーマの名前を口にした時っ、今も! ノーマの魔力が帯びてる! 人魚の魔法をあんたが使えるわけないんだから、ノーマがわざわざそうしたってことよ! だからあんたを殺すの!!」
肯定はとても嬉しいのだが、名前だ魔力だ人魚の魔法だと言われても、理屈が全く分からない。もっと詳しく教えてよと言いかけると、すぐ近くで水が跳ねる音がする。
そうかと思えば、私の上にいたアデリンが飛び込んできた影に突き飛ばされて岩礁に放り出された。鈍く擦れる音に、怪我でもしたんじゃないかと思わず上半身を起こしそちらに視線をやる。
だけど、倒れる彼女を目に入れた途端に、遮るように濡れた腕に頭を抱えられた。
「アデリン姉さん! エレンちゃんに何てことしてるのよ!」
私の頭の上で怒鳴ったのは初めて聞く、けれど人魚姉妹たちとよく似た女性の声。ぎゅうぅぅ、と抱きしめる力は強く、この細腕によるものととても思えない。
少し痛いし苦しいけれど、耳に当たる胸の奥から聞こえる早鐘が、本気で心配してくれていたことを伝えてきてくれて離れがたい。
でもそろそろ確認しないとね。私は抱きしめる腕を軽く叩く。私を抱きしめてくれていた人は、はっとして慌てて腕の力を緩めた。
「あっ、ごめんなさいエレンちゃん! 大丈夫? 姉さんたちに無理やり連れて来られたのよね? 怪我は? 痛いところはない?」
"彼女"はおろおろとしながら私の頭や顔、腕などに触れて怪我の有無を確認し始める。ああ、本当の本当に姉妹だったんだ。あなただったんだ。
初めて聞くその声に浸っていたい気持ちに耐えて、私は笑顔を"彼女"に返す。
「大丈夫です――ノーマさん」
濡れている以外何も変わらない、髪に、肌に、ワンピース。けれど大きな違いは確かにあった。水を含んで張り付くワンピースの裾から覗くのは、青い鱗の魚の尾。
ノーマさんも、紛れもない人魚だ。
私の回答にノーマさんはほっと胸を撫で下ろし、よかった、と本当に安心したみたいに呟いて今度は正面から私を抱きしめてくれる。
いつもより体温は低いみたいだけど、これはこれで心地いい。抱きしめ返そうか迷っていると、横から金切り声が飛んできた。ノーマさんの名前を叫んだようだ。
私とノーマさんがそちらを向くと、姉妹たちに助け起こされたらしいアデリンが半ば涙が浮かんだ目でこちらを睨みつけている。ちょっとお姉、とスージーが困った顔で肩を掴むが、それはすぐに振り払われた。
「目を覚ましなさいノーマ! 今ならまだ間に合うから、そんな人間殺して、呪いを解くの。お家に帰るのよ。あなたが泡になるなんて姉さん嫌よ!」
岩礁を移動するために突っ張った腕には、先ほど擦ったのか大きな擦り傷が出来ており、血が滲んでいる。まずいんじゃ、と心配になるが、こちらに近付く内にその怪我はどんどん治っていった。
人魚の回復能力は高いと聞いていたが、これほどとは。場違いなことに驚いていると、ノーマさんはアデリンを睨みながらまた私を強く抱きしめる。まるで、大事なものを守るように。
妙に感動していると、ノーマさんはいつもの彼女らしくない厳しさで「嫌よ」と突っぱねた。以前「おしゃれなんてもうやめよう」と泣き言を言った私に「やだ」と突っぱねたことはあったが、それとは比較にならないくらい冷たく聞こえる。
「姉さんたちが心配してくれるのは嬉しいわ。本当にありがとう。でもアデリン姉さん、私の道を勝手に閉じようとしないで。私は自分で選んで魔女さんから薬を貰ったし、自分で選んで陸に残ってる。誰かのせいじゃない。私が選んだの。お願いだから分かって」
どうやらノーマさんは今回の騒動(を、知っているかは分からないが、少なくとも私のこと)は姉たち全員によるものではなく、アデリン単体の暴走だと判断しているらしい。
実際そうなのだろう。ジョディ、ベッキー、スージーは最初から私に対して友好的だったし、今もノーマさんとアデリンの喧嘩を心配そうに見守っていた。
「分からないわよ! ノーマこそ分かってるの? 泡になるのよ? 死んじゃうの。死体も残らないで。家族の元に帰れないし、誰の元にも残れないのよ? 本当に、分かってる? あなたが好きになったとか錯覚している人間だって、あなたが消えた理由なんて何も知らないままのうのうと生きてくのよ。忘れられてくの、何もなかったように」
憎々しげに指差されると、私が何かを答えるより先に、ノーマさんはアデリンを見据えながらまたぎゅっと私を抱きしめる。
「分かってるわ。分かってる。でも、私はどんな結果になっても誰かに責任を押し付ける気はないわ。だって私が選んだんだもの。そんなの、私の問題でしかない」
「ノーマ! あなたは目が眩んでるだけよ。外の世界に、初めて見る人間に。そんなの恋じゃないわ!」
「だからっ、姉さんが私のことを勝手に決めないで!」
お互いに全身を震わせるような大音声で怒鳴り合う二人は完全に平行線だ。言い合いがやむと今度は睨み合いになった。
「ねぇ、アデリン、ノーマも。ちょっと落ち着きなさいー?」
「そうだよ、お互いそんな頭ごなしに怒鳴り合ってたら通じる話も通じなくなっちゃう」
「ここ来る前から言ってるけど、アデリンお姉は人の恋路に首突っ込みすぎだし、ノーマは盲目過ぎ。お互いもうちょっとお互いの気持ち考えなって」
言葉の応酬が落ち着いたのを見計らい、ジョディたちがそれぞれに冷静になるように声をかける。
「妹の心配して何が悪いのよ」、と反駁するアデリンと違い、ノーマさんは無言のままだった。かと思うと、私の両肩に手を置き、どこか苦しげに笑いかけてくる。
「エレンちゃん、巻き込んでごめんなさい。とりあえず陸に帰りましょう?」
「え、でもまだ――」
「いいの。さあ」
首を振り、ノーマさんは先に海に入った。アデリンが背後でまた怒鳴っているので思わずそちらを向くと、彼女は姉妹たちに両腕とお腹を抱えるように抑えられている。
「面倒だからとりあえず今は帰っちゃって。じゃあねエレン、またね」
姉の腹を抱き締めたままスージーが手を振ってきた。後ろ髪を引かれながら、アデリンの殺さんばかりの視線を浴びながら、私はノーマさんが海から伸ばしてくれていた手を取る。
「っ、どうせ、その子に応えられないくせに! 何かを犠牲にする勇気もないくせに! 愛を示すことなんて、出来ないくせにっ!!」
海に飛び込む直前背中から聞こえてきた血を吐くような叫びが、私の胸をぎりっと締め付けた。




