第七十八話 覚悟
真っ白な床に赤黒い血が点々と続く。
その先には、身体にいくつもの傷をつくった娘が駆けていた。大聖堂の穢れなき美しさには一瞥もくれず、ただその金色の目は最奥を目指して。
(お願い、間に合って!)
祈りながら駆けた先、廊下の終わりが見えた。自分のあるじはそこにいる。きっとこの王都を救おうと戦っている。――自分を置いて。
デルマにはそれが許せなかった。ここへと辿り着く前夜にも言っていたのに。それよりも前から、ずっと言い続けていたのに、彼女はそれを拒んだ。私が勝手に決めたことなのに。
あの人は自己犠牲が好きなのに、他人にそれを許さない。
そんなの私は許さない。私の決めたことを、蔑ろにするなんて許さない。
足元をよろめかせなながら、デルマは廊下を出た。
本来、大祭壇があるはずの場所に、いくつかの瓦礫が転がっているのが目に入り、そこへと歩み寄る。ふたつの瓦礫の山と壁と床を静かに走る光の粒が娘を迎え入れた。
そこには誰もいなかった。大聖女と宣っていた女も、婚約者を罵り追放した男も、己の主人も。
それでもデルマは確信していた。彼女はここにいる。どこかに隠れているのか、それとも――。
「…………」
最奥に辿り着き、デルマは言葉を失った。そこにあったものを目にした瞬間、彼女の身は冷たい絶望に包まれたのだった。
視線の先には、輝くように白い床に美しい浮き彫りが刻まれている。円形の縁の中に巨大な紋章が刻まれていて、そしてその中央には、女の姿があった。
祈りの手を組み、穏やかに目を伏せ、そこに刻まれている。まるで生きているように精微な浮き彫りは、この聖なる地に相応しく思える。
だが……彼女を見間違えるはずがない。
「……アレクシア、様……?」
デルマは震える声で、浮き彫りに呼びかけた。白く穢れのない石は何も返さない。とうとう、デルマは膝から崩れ落ち、呆然とそれを見下ろした。
間に合わなかったのか、私は。
「いや……アレクシア様、どうして……!」
何故彼女がこんな形になったのか、分からない。今まで王都の中で見て来たあの石像たちのようになってしまったのか、エリーズがそうしたのか、何も理解出来ない。
ただ理解出来るのは、間に合わなかったこと、全てを喪ったこと。
痛む足を引きずり、彼女に近づく。血が浮き彫りを穢したが、デルマには些細なことだった。震える手で、彼女の頬に触れる。冷たい石の感触。艶やかな灰青の髪も白い石に変わり、あの穏やかな緑の目も、色を失っている。
白い頬にぼた、と雫が落ちる。視界が歪み、デルマは言葉にならない呻きを上げた。
――検知。個体名デルマ。
「……!」
周囲の柱が淡く明滅する。デルマははっと顔をあげ、周囲を見渡した。しかし、誰もいない。自分と、アレクシア以外は誰も。
――交信要請。個体名デルマ。
「お前は誰だ!?」
――この地の基幹たる者。
「……まさか……お前がアレクシア様を……?」
――肯定。しかし相互同意は取得済み。個体名デルマが推測する事態は誤認。
「相互同意……?」
――要約。大神アクリとその聖女エリーズにより、王都の全てが石像と化した。目的は万物素の強制搾取。ここに辿り着いたアレクシアはアクリ及びエリーズと交戦。彼女は万物素の泥になったものの、破壊に成功。同時に露出した万物素の貯蔵槽が暴走しつつあるのを確認。基幹はアレクシアに貯蔵槽の封印装置への再構成を要請。……アレクシアは承諾。
「ふざけるな! アレクシア様がそんなことを望むはずがない……!」
――否定。虚偽はない。
「嘘だ! 嘘……そんなこと……信じられるものか……!」
声を震わせ、デルマは再び、目の前のアレクシアだったものを見つめた。なんの憂いもない穏やかな表情。全てを受け入れた――そんな感情さえ抱きそうになる。
「頼む、戻して……アレクシア様を……元に……」
声は暫く、沈黙を守った。デルマの掠れた、乞い願う声だけが空気を微かに震わせている。
――提案。
光の明滅と共に声が響く。
――個体名デルマ。貴個体は論理的判断能力及び精神安定性に優れた個体である。故に適性と判断。要請、当該施設の管理。
「は……?」
――要約。この大聖堂を管理してほしい。あなたのアレクシアに対する忠誠心を評価する。あなたがここを管理すれば、アレクシアは永遠になる。この提案はあなたにとって益であると確信している。
「……つまり、私にここに留まり……この状態のアレクシア様の世話をしろと……?」
――肯定。……仮にあなたが拒否をしても問題は無い。もう一点。あなたの生命活動は、まもなく停止する。許容範囲を超えた出血。基幹の提案に承諾をすれば、即時の対応を実施する。
思わず、デルマは己の腹を撫でた。騎士から受けた斧の一撃が、彼女の腹を裂いたのだ。その傷を負ったまま、ここまでやってきた。……基幹とやらの言葉は真実だ。おそらく、もうもたない。
――即刻の決断を要請。
「……断る」
デルマの声に、基幹は一瞬沈黙した。
――理解不能。あなたは死ぬのか。
「ああ……そうだろうな。その前に……!」
デルマは震える手で、アレクシアの手――祈りの為に組んだ手を掴んだ。彼女を見据え、今、自分がやろうとしていることに、デルマはひゅ、と息を呑んだ。
もしかすると、己は世界を滅ぼしてしまうのかもしれない。
この癪に障る声に従えば、自分は死なずにすむし、物言わぬアレクシアを見守りながら永遠の時を過ごせるのかもしれない。……それは、ある意味幸せなのかもしれない。
だが、そんなことは許せない。
だから、こうするしか思い浮かばない。
やると決めたら、あとは自分の覚悟だけ。
彼女の手を掴み、真っ白な石の身体を引き上げようと力を込める。 罅が入る音を耳にして、デルマは歯を食いしばった。
――警告。封印装置への破壊行為を中止せよ。
「あなたの言うことなんて聞かない! 私が命を仰ぐのは――」
何かが砕けていく。――まだ、間に合う。それがどんな結果になろうとも、もう止められなかった。
「私の主人、アレクシア様だ!」
細やかな石の欠片が、アレクシアの背からぱらぱらと落ちていく。その身体を抱き寄せながら、デルマは痛みに耐えた。彼女の足元には血だまりが出来、それが、浮き彫りの紋様に沿うように流れていく。
――……基幹と個体名アレクシアとの接続、不安定。空間内の万物素、活性化。
「お前たちなんかに、この人は渡さない!」
物言わぬ主人の身体を掻き抱き、デルマは叫ぶ。
震える手が冷たく、無機質になった髪に触れた。……柔らかな花弁が指先で揺れ、落ちていく。
白いヴェルヴェーヌの花。
血に染まった浮き彫りに落ちて、赤く染まっていく。刹那、それは輝きを放ち、デルマとアレクシアを包んだ。
――不確定要素。推測不可。
「……デルマ?」
微かな声に、デルマは目を見開く。緑の目とかち合い、唇が動く。
その名を呼んだ。だが、声にならない。
柔らかな腕が、デルマの背をそっと抱き寄せた。
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