第七十四話 大聖女と悪魔
アレクシアは立っているだけで精一杯だった。
目の前の巨大な聖女像から目を逸らすことができない。
『ようこそ、私の大聖堂――いえ、大聖域へ』
エリーズの声が響き渡るたびに、彼女の両隣に立つ柱が淡く輝く。この大祭壇全体は、彼女のためにある。アレクシアの本能は警鐘を鳴らしていた。
「大聖域……?」
エリーズの言葉がひっかかり、ようやくアレクシアが言葉を発する。聖女像は慈愛の笑みを湛えたままだったが、しかし目の前の者を睥睨しているようにも見えた。
『そうです。私はこの王都を大聖域として、祝福いたしました。アレクシアさん、ご覧になったでしょう、この地の、民衆たちの新しい姿を――』
「石像のこと? あれはあなたがやったのですか?」
『そう。私が、大聖女たる私が、王都全てに祝福を!』
エリーズの声は誇らしげだった。それに応えるように、大聖堂の模様に光の粒が走る。
『大聖域となったこの地は、この世で最も豊かで、安全な地。全てが私に祝福され、正常に存在できる……唯一の地!』
「なんてこと……あなたはあれが、人があんな状態になることが正しいと……?」
『これは大神アクリ様のご意志――不完全な肉体と精神を、祝福によって修復し、完全な姿にする……それが私、大聖女エリーズの使命! 王都は大聖域として永久に栄え、そしてまた民はここで終わらぬ幸福を享受し、大神アクリ様に祈りを捧げるのです! それがこの地のあるべき姿なのです』
陶酔。そんな調子の声だった。アレクシアは口元をひきつらせ、自分のうちから微かな怒りが湧き起こってくるのを感じた。この娘は何を言っているの? それは紛うこと無い、嫌悪だった。
『いずれ私は、王国の全てに祝福を授けます。いつまでも傷つかない肉体、役割を全うする幸福――そうです、これほどの幸せはありません、アレクシアさん!』
「…………」
沈黙が大祭壇に落ちる。アレクシアの息は浅く、目の前の聖女像を見つめるだけだった。エリーズは、それを不信がったようだった。
『ああ、恐れているのですね、私を。無理もありません。私はあなたを悪魔憑きと言ったのだから……あなたを罰するのではないかと、そう恐れているのですね?』
エリーズはくすくすと笑った。アレクシアにはそう見えた。
『安心してください。私はもうあなたを傷つけるつもりはないのです。むしろ……』
アレクシアはふと、彼女の足元から呻き声のようなものが聞こえてきたことに気がついた。男の呻き声……ひどく、苦しんでいるようなそれに、おそるおそる視線を向ける。
『あれは不幸な誤解だったと、ずっとお詫びしたかったのです。アレクシアさん、あなたは悪魔憑きなんかじゃなかった……悪魔憑きだったのは――』
「え……」
エリーズの傷一つない真っ白な素足、それを支える台座に不自然な起伏があることに気がついた。いや、これは台座ではない――それは、地に伏せた男の像だった。
二つの捻れた角が額から伸び、鋭い爪を持つ手は地面を掻いている。聖女に踏まれた悪魔像……その顔は見間違えるはずがない、この国の王太子にして、アレクシアの元婚約者、ヨナーシュそのものだった。
「ヨナーシュさま……!」
虚空を見上げる彼の顔には苦悶がありありと浮かんでいる。台座と一体化した彼の背を、エリーズの右足が踏みつけているのだ。まるで彼を屈服させているかのように。
『ア、アレクシア……? アレクシア……ッ』
ヨナーシュの声がアレクシアを呼ぶ。それも苦痛に塗れている。
『そう、真の悪魔憑きはヨナーシュ様だったのです。彼は妬みの心を持った故に、悪魔に取り憑かれた。そしてあなたをおとしいれ……そしてついには、悪魔そのものとなってしまった。なんて哀れな御方……』
『タスケテクレ……! オレハ悪魔ナドデハ――アァアアアア!』
ヨナーシュの叫喚が響き渡る。聖女像は姿勢を微動だにしない。しかし、アレクシアは確かに感じ取っていた。今、この瞬間も彼女は彼を踏みにじり、罰し続けているのだと。
『ヨナーシュ様、あなたは私の神託を歪め、アレクシアさんを処刑しようとし、更には悪政をもって王都の民たちを苦しめました。この所業、まさに悪魔というに相応しいではないですか』
『アァ……ウウウ……オレハ……チガウ……オレハ……オマエノ……!』
『ええ、あなたはこう言うでしょう。私、大聖女エリーズの大神託に従っただけだ、と。いいえ、あなたは間違ったのです。妬みに心を蝕まれ、大神託を歪めて実行したのです。私の大神託が間違っていたのではなく、あなたが間違ったのです』
『ソンナ……チガウ……オマエガ……!』
エリーズは笑みを深めたように見えた。口元に笑みを深め、足元の哀れな悪魔をじっと見据えた。アレクシアにはそう見えた。
『でも安心してください。私はヨナーシュ様を見捨てるつもりなど、ありません。私はあなたの婚約者なのですから! 救いの手はどのような者にも差し伸べられます。こうして、大聖女である私に永遠に屈服する悪として祝福しましょう。そうすることで、彼は永遠の罰を受ける悪として、世界の礎に、大聖女の祝福の証明になれるのです』
『イ、イヤダ……! オレハ悪クナイ、オレガ間違ウハズガナイ……! アレクシア、オレヲタスケロッ、デキルダロウ! オマエナラ、出来ルダロウ!』
ヨナーシュの叫びに、アレクシアは一歩よろめいた。
歪な二つの像――世界に祝福を与えながら足元の悪魔を踏みにじる大聖女、その背に大聖女の足を受けながら、苦悶の表情を浮かべる悪魔像。これが普通の彫刻ならば、民衆はその神聖な姿に、大神の加護を見ただろう。
『悪魔よ、アレクシアさんを惑わすのはやめなさい。……罪深きあなたを祝福します』
『アアアアアアアアアア――!』
ヨナーシュ――悪魔の叫びはぷつりと途切れた。そしてエリーズは、改めてアレクシアを〝見た〟。
『さて、アレクシアさん。私はあなたにお願いがあるのです』
彼女の声は微かな興奮と喜びを孕んでいた。今までの話はただの些事。そう言いたげでもあった。
『アレクシアさん、あなたは素晴らしい力を持ち、今まで民衆を導いてきた……そう、お願いというのは……この私、大聖女エリーズを助けていただきたいのです』
聖女像の瞳に射貫かれる。その眼差しは、アレクシアを救うべきものとして見つめるものだった。
――警戒。
黙していたケファリの声。アレクシアはぐっと息を呑み、聖女像を見据えた。
『ずっと永久に……この大聖域のために、世界のために。私を支える柱となってくださいませんか?』
エリーズの囁きは、無邪気で、どこか恍惚めいていた。まるで、遊びに誘う子どものように。
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