第六十二話 分かれ道の選択
アレクシアとサーラが眠りについたあと、デルマは人知れず屋敷を抜け出した。
夜も更けた村はほとんど灯りがついておらず、遠くの入り口で当番の者たちが見張りについている以外は、静かなものだった。
足音ひとつたてず、まるで影のようにデルマは大通りを抜けて、ある建物に入った。商館――元は、カンティン商会の行商人たちのためにあてがわれたそこの扉を静かに開ければ、ツチラトがソファに座っていた。
「よう、デルマ」
「……何か、御用ですか?」
妙に改まった口調で問うデルマに、ツチラトは笑みを深めた。座りな、と向かいのソファを指し示せばデルマは無言でそこに座す。
どうやらこの建物に滞在しているのは、ツチラトだけらしい。彼は暖炉で湧かした湯をティーポットに注ぎ、紅茶を淹れた。
「こうして二人で話すのは……オレがここに初めてきた時以来だな」
世間話のような口ぶりだったが、デルマの顔は強ばっていた。差し出されたティーカップにも手を付けず、じっとツチラトを見つめている。
ツチラトは自分のティーカップに口を付け、そして切り出した。
「……王都に住んだ皆は、ほとんどが無事に脱出した」
「そう……。脱出しなかった者も、いるのだな」
ツチラトの言葉を聞いたデルマは、緊張がやや解けたのか、いつもの口調に戻っていた。それを見てツチラトは頷いたが、目を伏せ、王都に残ったヤトルカ人の事を思った。
「王都の人間と結ばれた奴らが殆どだ。……自分だけ逃げることはできない、家族を置いていけない。私の家はここだ……ってね。そんな奴らを無理やりに連れ出すなんて、出来ねえよ、オレは」
ツチラトの声色は、どこか諦観の念があった。
残ると決めた以上は何も言うまい。……どこか突き放すようにも聞こえた。
「それで、脱出出来た皆はどこに?」
「ヤトルカへ。もうこの国に留まる理由がないからな。王都がああなった以上、この国は――」
「……御上の方々も許可を?」
そう問うデルマに、ツチラトは静かに頷いた。
ゆっくりと身を乗り出し、目の前の妹弟子を見つめる。
「ああ。帝も、大老師たちも、許可を下した。ヤトルカはこの国からようやく、離れられる」
「…………そうか」
頷くデルマの顔には、安堵があった。それと同時に、何かを恐れているような気配もあった。ツチラトは暫く黙り、そんなデルマの顔を見つめて、口を開いた。
「お前はどうする、デルマ」
「……私は」
「数年かけて、オレ達は動いてきた。アレクシアに仕えるようになったのも、計画の一環だ。王家に近しい人間に仕えることで、内部からヤトルカへの支配を崩す。そういう計画だった。……だが、もうそれも必要無くなってしまった」
「ああ、そうだ……そういう計画だった」
「だがもう、あんたはアレクシアに仕える理由がなくなった。オレと一緒に、ヤトルカへと向かってもいいんだ。君の父や母、兄妹のもとへ帰ることができる」
「…………」
「……ヤトルカ王国第三王女、デルマ・ラジェ・ツユリに、お戻りいただけますよ」
しん、と二人の間に沈黙が落ちた。暖炉の火が、軽く爆ぜる音だけが耳に届く。
デルマは目を伏せ、膝の上で手を握りしめていた。ツチラトは彼女を見据え、答えを待っている。
「ヤトルカに、帰れる……」
「……ええ、そうです。きっと臣民も待っている。この国から解放された、貴女の帰還をね」
「私は……」
デルマは言葉を詰まらせ、たまらずソファから立ち上がった。何かから逃れるような足取りで、窓際へと向かい。呆然と外を眺める。ツチラトはその様子を眺めながら、紅茶を飲んだ。
「……オレはね、デルマ様」
先に言葉を発したのはツチラトだった。窓の外を眺めたまま、デルマは肩をぴくりと跳ねさせ、しかし黙ったままだ。
「どんな選択をしても、止めません。もうあんたは充分、働いてきたんだから」
「…………私、……」
ツチラトがきっぱりと言い放ち、デルマは息を呑んだ。そして暫く黙していたが、やがて彼女はソファへと座る同胞へと、向き直った。
「私は、帰らない」
「……理由をお伺いしても?」
「私は、アレクシア様の侍女だからだ。ツチラト。ラスカース王国へ人質として送られた、ヤトルカの第三王女……デルマ・ラジェ・ツユリではない。あの御方の侍女、デルマだ」
デルマの声は静かで、しかし確かだった。ツチラトはそっと目を細め、小さなため息を吐いた。
「本気ですね」
「ああ、もう帰らない。裏切り者と謗られてもいい。……私はアレクシア様にお仕えすると決めたんだ。戻らないことに、悔いは……ない」
「……分かったよ、デルマ」
ツチラトの口調が戻る。その様子に安堵しつつも、デルマは唇を噛んだ。
「すまない。あなたには……ずっと世話になったというのに」
「こうなるのは薄々分かってた。あんたは優しいから、あのお嬢ちゃんを放っておけない」
そうだろ? とツチラトが悪戯っぽく笑う。つられてデルマも笑い、そうだ、と頷いた。
「それにさ……ちょっと考えたんだよ、オレは」
ツチラトがソファから立ち上がり、デルマの隣に立つ。真っ暗な外を見つめ、ややあって口を開いた。
「もしかしたら、ヌッツロースなら……いい取引を続けられるんじゃないか、ってね。そのためには、縁があってこしたことはない。そうだろ、デルマ?」
「……あなたはすっかり、商人が板についたな」
「諜報よりもこっちが性分にあってるって、ね」
ツチラトが肩を竦め、デルマがくすくすと笑う。ぱち、と暖炉の火は爆ぜ、室内を暖めていた。
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