第五十七話 ゲルトの異変
村医者ヒューゴーの前で、サーラは顔を曇らせていた。ヒューゴーも、難しい顔をさせて、口を引き結んでいる。
「……君はゲルトのことを、まだ想っているのかね」
「…………恋人としての未練はないよ。だってゲルトだって……本当にあたしを好きだったかなんて、もう分からないから。でも、やっぱり心配なんだと思う……」
ぽつぽつと呟きながら、サーラは窓の外を見た。この診療所から少し離れて、粗末な小屋が見える。小屋の前で男が一人――未だに記憶をなくしたままのゲルトが、ぼんやりと椅子に座って空を眺めていた。
「最近はずっとあんな感じ?」
「ああ。この前までは記憶を無くしたとはいえ、……村の者にも愛想よく、自立した生活を送っていたのだがね」
「あたしはあの家に近づかなかったけど……アッチさんたちにもニコニコしてたって」
その様子を見てひどく驚いたと、アッチは言っていた。記憶を無くしてすっかり変わってしまったゲルトを、皆そうなって良かったと言葉には出さないが、その声色には滲み出ていた。
「春になってからだ。ああやってぼんやりとする時間が増えている。私が訪ねにきて、声をかけても反応が鈍い。肩を揺すってやればやっと、びっくりしながらこっちを見てくるんだ。『どうしたのですか、お医者様』……とね」
ヒューゴーの手にはゲルトの診療録があった。そこに視線を落とす彼をちらりと見て、サーラは口を開いた。
「どうしてそうなったの?」
「……分からん。頭の中を覗き見る事なぞ出来んからな……これがいっときのものなのか、それともこのままなのかすら……理由も、何もわからんのだ」
「……アレクシア様なら、治せるかな」
ぽつりと呟いたサーラに、ヒューゴーは静かに顔をあげた。若い娘は鬱々とした顔で、窓の外を眺め続けている。その視線の先にいる〝元〟恋人は、微動だにしない。
「ふむ……望みはある。あの方の祝福の力は……我々の技術では計り知れんからな。だが……」
「そうしたら、ゲルトの記憶……戻っちゃうね」
サーラの声はどこか恐れを含んでいた。ヒューゴーも静かに頷き、診療録を机に置いた。
「……こんなに村が平和になったのに、あいつの記憶が戻ったら……」
「サーラ、私はね、お前が望むのならば――」
「だめ。アレクシア様には言わないで……あたし、村がこのままでいてほしい」
きっぱりと告げるサーラの顔は、強ばっていた。ヒューゴーはこの村娘の意思を、気の毒に思った。しかし、それが正しいとも思っていた。だからこそ、こうして葛藤している村娘が心配なのだ。
「……いつでも言いなさい。私は、君の考えを尊重するよ」
「ありがとう、ヒューゴーさん」
サーラは笑って、椅子から立ち上がった。じゃあね、と部屋を辞する彼女を見送り、ヒューゴーも席を立つ。窓から外を見れば、ゲルトは小屋に戻ったのか、姿は見えなかった。
屋敷へと戻る途中、サーラはフェリクスと鉢合わせした。彼の部下たち――サーラやアレクシアは依然、彼らの事を騎士団と呼んでいる――も、伴っている。彼らの装備には所々、泥や血がついていた。一瞬、怪我でもしたのかとサーラは慄いたが、どうやら全て返り血のようである。
「サーラ殿、どうも……ああ、お見苦しい姿を見せて申し訳ない。今し方、魔獣の駆除をしてきたところです」
「ううん、大丈夫。お疲れ様、フェリクス……ヒューゴーさんのところに行くの?」
「ええ、何人か怪我を負ったので、治療をお願いしようと」
「フェリクス様、ちゃんと医者様に見てもらいますんで、ここまででいいですよ!」
「あ、ああ……?」
「では失礼します!」
「……?」
にこにこと笑いながらサーラが来た道――診療所の道を行く兵士たちを見送りながら、サーラは首を傾げる。フェリクスも目を丸くし、部下の言葉の真意を測りかねているようであった。しかしすぐに困ったようにサーラを見やった。
「しかし、淑女の前でこのような姿はいけませんね」
「別にいいよ。フェリクスたちが毎日魔獣の駆除を頑張ってるって、知ってるし……」
フェリクスの言葉にサーラが笑う。ここ最近は毎日のように畑の近くに魔獣が出ている。彼らは畑が荒らされないよう、農夫たちが襲われないように朝から晩まで働いているのだ。おかげで、村の平穏は保たれている。
「サーラ殿」
「え、何?」
フェリクスが僅かに声を落として自分を呼んだのに気づき、サーラは彼を見上げた。その端正な顔、青い目には微かに、不安げな色が混じっている。
「なに、どうしたのさ」
「……サーラ殿は、何か気がかりでもあるのではないですか?」
「え……」
「お顔を見た時から、何か思い詰めていらっしゃると見えて……」
いきなり何さ、と言いかけ、サーラは黙した。彼は何も知らないはずなのに、まるで己の不安を見透かすような物言いをする。鎧の音をさせ、フェリクスはゆっくりとサーラの前に膝をついた。
サーラはひどく驚いて、一歩後ずさりをしかけた。騎士が、しかも騎士団の長である彼が、自分に膝をついた! ――ただの村娘の、自分に。
「心配です」
「……あ、あたし……その、別に……」
「ええ、このフェリクス、貴方が抱えているものを無理やりに聞き出すような真似はいたしません。だが、私はこの村の騎士として貴方を守りたいと思っていることだけは、伝えておかねばと」
「…………」
「どういうわけか、今、強く思ったのです」
フェリクスの眼差しも、声も真っ直ぐだった。それが捻くれていると自覚しているサーラの頭を混乱させるには、充分だった。鼓動がうるさく、息が詰まる。
彼は善意で、騎士として当然の振る舞い――何も知らない田舎娘の自分には分からないが、そういったものを向けてくれているというのに。
「……だ、大丈夫……あたし、……その……フェリクスが心配しなくても、……ちょっとしたことだから……」
しどろもどろに答えるサーラからフェリクスは目を離さない。いよいよ耐えきれず、もう行かなきゃ、それじゃあねと駆け出し去って行く。
一度躓きかけたサーラを見てああ、と小さな声をあげ、フェリクスは眉尻を下げた。
「困らせてしまったな……」
頬を掻き、気を取り直して診療所へ向かう。ふとその向こう側、粗末な小屋が目に入る。あそこには、ある罪を犯した者が住んでいるらしい。フェリクスの知ることは、それだけだった。
◆
窓から注ぐ細い月明かりが、部屋を照らしていた。
「アア……しゅつ、りょく……けん、ち……きょーりょくな、いじょ……」
蝋燭の火もつけず、男――ゲルトは椅子に座り頭を抱えていた。その目はぐるりと回り、奥歯をがちがちと鳴らしている。
「たんま、つ……不安定……代替――なし、……きんきゅう、そち……」
ぼそぼそと呟く言葉の意味を、ゲルト自身は分かっていない。ただ己の頭の中で声が響いている。その言葉が口から溢れている。ゲルトが呟くたびに思考がレードルでぐちゃぐちゃと混ぜられているような感覚になり、その苦痛に呻いた。
「誰だ……オレは……」
一瞬、ゲルトの声色が低く……昔の彼に戻ったかのようなものになった。しかしすぐに濁った声を上げて、ゲルトは身体を捩らせ、頭を振った。
「ぎ……たいさく、早急な、対策……現状のさいぜん、さく……たんまつに、指示……」
小屋に叫び声が響く。
しかしそれを聞いたものはいない。この小屋は一番近くの診療所からも少し離れている。ここを通り掛かる者は誰もいない。ましてや夜だ。――誰が、井戸に毒を入れた罪人の家に好んで行こうとするだろうか?
「指示、入力、設定」
ゲルトの身体が、硬直する。ひくん、ひくんと軽く震え、その顔はぼんやりとしていた。
「排除」
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