第五十五話 薫風吹く村
天井に吊るされたナゲキハスが、温かな湯を雨のように降らせている。
それがアレクシアの灰青色の艶やかな髪と、白い肌を濡らした。鼻歌交じりに身を浄め、ヌッツロースの女領主はつかの間の湯浴みを楽しんでいた。
「お身体を」
湯浴みの間から出れば、デルマが待ち受けていた。
彼女はアレクシアの濡れたままの身体を柔らかな浴布で包み、丁寧に拭いていく。その役目は長年、デルマだけが任せられていた。
主人の身体が冷えないように、しっかりと肌と髪の水気をとっていく。侍女の恭しい手つきを浴布越しに感じながら、アレクシアは今日のことを考えていた。
「今日は朝から村を見て……そう、新しく開墾した畑。ちゃんと作物が育っているか見なきゃ」
「朝食を召し上がってからです」
分かってるわ、とほんの少し拗ねたような声に、デルマが笑う。手早く、だがしっかりと乾かした髪に香油をつけはじめれば、アレクシアはあら、と小さく首を傾げた。
「新しい香油ね?」
「ええ、ドリアード様から賜ったヴェルヴェーヌ……その種から育ったものから作ったそうです。うちの庭では育てきれないほど種がとれて、村の者に分けてやったこと……覚えていますか?」
「ええ、勿論よ」
「春先に撒いたそれが、かなり育ちました。今や畑一面です……なので、ハーブティーや香油にしようと村の者が考えているようで……アレクシア様に試作品をと、今朝がた」
すん、とアレクシアが鼻を鳴らす。柑橘に似た爽やかさと、柔らかで優しい香り。今からの季節にぴったりだろう。アレクシアはすっかり気に入ったようだった。
それだけではない、ヴェルヴェーヌの香油は、アレクシアの灰青色の髪をいっそう輝かせた。指通りよくなったそれにデルマは満足げに頷けば、畳まれた新しい下着を籠から取り出し、アレクシアに差し出した。
朝食を終え、アレクシアは村に出た。彼女を見かけた人々は口々に挨拶をし、最近の出来事や困りごとを彼女に語った。アレクシアは彼らの言葉にひとつひとつ耳を傾け、持っていた手帳に書き留める。それがヌッツロース領主、アレクシア・デュランの日課だった。
「香油! どうでしたか?」
「今日デルマがつけてくれたの、凄く気に入ったわ……! あの、もし商品にならなくても、個人的に注文してもいいかしら……?」
「あんたがこんなに気に入ってくれるなら、人気商品間違いなしですよ! 心配には及びませんって!」
朗らかに笑いながら答える村人――ソッチに、アレクシアも思わずくすくすと笑う。それを見ていた他の村人も丁度いいとアレクシアに、畑や、家畜のことで相談があると声をかけてきた。――と、そこへ。
「せ、聖女様……!」
「聖女さまだ……我々の救い主さま……!」
アレクシアを見かけ、聖女様だと声をあげたのは、春に流れ着いてきた王都からの人々だった。放浪の末にこの村に辿り着いた彼らも、今ではその手に鍬を持ち、この村の生活に慣れ始めているのだが、彼らはアレクシアを頑なに聖女と呼ぶのだ。
「……こんにちは、暮らしは如何ですか?」
「ああ……聖女様……私たちのような者どもに声をかけてくださる……あなたのおかげで、我々は新しい土地を得て、暮らすことができています……!」
「聖女様……ありがとうございます、どうか我々の罪を、貴女を追放した王都に住んでいた我々をお許しください……!」
「いいえ、あなた方は罪など犯していません。私は王都にも怒っていないわ……だから、あなた達にはこれからもこの村の住民として、健やかに暮らしてほしいのです。私はそれで充分ですから」
アレクシアは、一人の震える手をとり、己の手のひらをそっと重ねた。すると彼はびくりと肩を震わせ、涙で頬を濡らした。そのまま呆然と頷き、去って行った。
「……王都の人ってのは、大げさですなぁ」
「皆、それだけ苦しんだのよ……きっと時間が解決してくれるわ」
彼らの背を見送りながら、ソッチはやれやれといった様子で肩を竦めた。アレクシアは複雑そうな顔で答え、それから微かに息を吐いた。
――王都から流れ着いた人々は、己を聖女だという。
それが、アレクシアには複雑だった。
手のひらを返されたことが、ではない。アレクシアは、自分を聖女だとは思っていなかった。祝福の力を取り戻したあとも、それは変わっていない。ただヌッツロースを預かる領主。それだけが己の立場だ。……崇められるような人間じゃない。
村人たちと別れ、村を散策する。道中、サーラと出くわした。そういえば今日はお休みだったわね、と思い出す。サーラは一冊の本を腕に抱え、小さな籠を下げていた。
「お出かけ?」
「う、うん、えっと……鍛錬場!」
「? 鍛錬場?」
騎士団の鍛錬場にどうして、と言いたげなアレクシアに、サーラは少しはにかんで答える。
「フェリクスに騎士物語の事を教えてもらうって約束したんだ! この前、あいつが屋敷に来たときに……」
「ふふ、良い休日ね」
「夜には帰るよ!」
「ゆっくりでいいのよ? ……フェリクス様によろしくお伝えしてね」
じゃあね、と元気よく走って行くサーラを見送る。彼女も随分と明るくなった。人見知りだったなんて、信じられないくらいだ。
――平和ね。
春の陽気も手伝ってか、良い気分だ。新しい畑も確認したが、問題はない。流れ着く人々の数も、落ち着いてきた。あとは時間だ。新しい住民も少しずつ慣れて――。
「アレクシア様」
「? どうしたの、デルマ」
「お客様がお目見えです」
デルマの顔は少し強ばっていた。ただならぬこと……アレクシアは察して、デルマに歩み寄った。
「誰?」
「……サンクラモー地方の行政官、ナザリオ様です」
デルマが告げた名前に、アレクシアは目を見開いた。すぐに戻るわ、と頷き、足早に来た道を戻った。
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