第五十三話 デルマ、かく語りき
――五つの頃に、私はこの王国にやってきた。
幼い頃より見聞を広め、立派な大人になるためだと父と母からは言い聞かされた。
王都の北地区に住む貴族に預けられ、侍女としての作法、教養を一通り教えられた。王立学園にも通い始めて、そこで出会ったのが、ツチラトだった。
「彼と出会わなければ、私はヤトルカ人としての誇りを失っていたかもしれない……本当の兄よりも、兄のように接してくれた人だ」
「誇り……?」
「ツチラトからは、……護身術を教わった。それから生きるための知恵。自分たちが弱いまま生きることを良しとしない、ヤトルカ人としての生き方だ」
「だからデルマはあんなに強いんだね!」
人々の、私たちへの眼差しは今よりずっと冷たかった。私のように王都へと送られたヤトルカ人は何人かいたが互いに手を取り合うことさえ、快く思われなかった。
せいぜい、幼い娘がいくつか上の少年に懐くぐらいなら見逃される――その程度だ。貴族の庇護はあったが、その頃の私は孤独だった。
ツチラトは、大人になればきっと、この状況を変えよう、私たちが私たちの誇りを取り戻すんだ。そう言って励ましてくれた。
それだけを支えに、私はこの王国で学べることは学び、剣も作法も誰にも劣らぬよう磨き続けた。
そして十五の時。
私は王命により、レイデン侯爵家の令嬢、アレクシア・レイデンの侍女として仕えることになった。
『アレクシア・レイデンと申します。これからよろしくおねがいしますね』
灰青色の豊かな髪、深い緑色の目。すらりとして華奢な身体。私に向けられた完璧な微笑み。
『デルマ、と申します。レイデン侯爵家に仕えること、光栄の至りです。なんなりとお申し付けください』
『ふふ、なんだか嬉しい』
『……は?』
彼女は笑った。
学園であなたを何度か見かけたことがあるから、こうして言葉を交わせることが嬉しい、と。……私は、その時少々不服だった。
彼女に仕えることになったのは、彼女の希望だったのではないか。
彼女――アレクシア・レイデンの気まぐれで、私は彼女に仕えることになったのではないか、と。
「デルマは、最初はアレクシア様が嫌いだったの?」
「どうだろうな。……環境は人の眼を曇らせる。長年積もったものは、簡単に拭い去れない」
「でも今は、あんなに大好きなのにね」
「……そうだな」
彼女だって貴族だ。信用するに値しない。
ただ足元を掬われないように、完璧に振る舞わなければならない。私はそう覚悟した。
美しい所作も、有り余る知識も、あの微笑みも、泥濘のような貴族社会を生き抜くための仮面。その裏で何を考えているのかなんて、考えても悍ましいだけ。
私は本気でそう思っていた。
彼女が細やかに私を気にかけているのも、罠としか思えなかった。
だが、それは私が眼を曇らせていたからに過ぎなかった。
暫く仕えて、私は彼女の置かれている状況を理解した。
侯爵令嬢、王太子の婚約者、大聖女の素質――祝福の力を持つ娘。
アレクシア・レイデンの背にはどれほどの重圧がのしかかっていたのだろう。
彼女の両親は、彼女に完璧を求めた。もっと、もっと完璧になれ。周囲も、彼女に大聖女となるべきだと期待していた。私から見ても、彼女はその声に、完璧に応えていた。
だが美しい玉も、磨きすぎればすり減ってしまう。
周囲が彼女自身を見ていないことは、明白だった。
彼女はそれでも微笑みを絶やさなかった。人に対しての慈しみを、無くさなかった。
私がそんな彼女に幾ばくかの哀れみを抱いたのに、時間は掛からなかった。私を侍女として縛り付ける彼女だって、自由ではなかったのだ。
いつの日だったか――。
貴族令嬢たちのお茶会が催された。下は男爵家、上は王妃。王都に住まう令嬢のほぼ全てが一堂に会するものだった。和やかながらもどこか張り詰めた空気が漂うそこでも彼女は完璧に振る舞った。王太子婚約者として傲慢に振る舞うわけでもなく、どのような者にも分け隔て無く接していた。
私は彼女に付き従っていたが、ある令嬢が何か失態を犯してしまったようだった。アレクシアの席からは遠くだったが、そこからでも分かるような騒ぎだったように思う。ただほんの短い騒ぎだったので、お茶会の空気はすぐに戻り、そのままつつがなく終わった。
帰路、私とアレクシアは中庭を歩いていた。
『……誰かが泣いているわ』
はたと足を止め、アレクシアは周囲を見渡した。すると庭の隅に置かれたベンチで、令嬢が一人泣いていた。あの子、あの時の……アレクシアはぽつりと呟き、彼女へと歩み寄った。懐からハンカチを差し出し、そっと慰める。令嬢は子爵の娘で、犯した失態を気に病み、泣いているようであった。
『完璧じゃないといけないのに……今日は王妃様もいらっしゃったのに……なのに、あたし……』
子爵令嬢はそう呟き、さめざめと泣いた。泣きじゃくる声を聞くに、彼女の家は苦しい立場らしい。何か解決の糸口を見つけようとして、逆に失敗してしまったのだろうか。父や母に申し訳ないと言い続ける彼女の肩に、アレクシアはそっと触れた。
『大丈夫よ……そんなの、誰にだって失敗はあるわ……』
アレクシアは彼女の背を撫でつつ、励ました。俯いたままだった子爵令嬢がはっと顔を上げた。アレクシア様も失敗しますか? そう聞けば、アレクシアは一つ頷いて笑った。
『たくさん。……だからあなたの気持ちが分かるの、完璧じゃないといけないって……私は侯爵家の娘で、ヨナーシュ様の婚約者だから……皆、私たちに期待する。完璧でないといけない、って』
『アレクシア様……私……』
『つらいけど、誰にも言えない……私も、あなたと同じ……』
子爵令嬢はぼろぼろと涙をこぼし、頷いていた。大丈夫よ、私はあなたの味方でありたい。アレクシアはそっと、彼女に囁いて、励ましていた。しばらく経てば、子爵令嬢は落ち着いたのか、アレクシアに礼を言って、去って行った。
『……きっと立ち直ってくれるわよね』
ほっと息を吐いて、アレクシアは去って行く彼女を眺めながら呟いた。傍で黙したままでいた私は、思わず訊いた。
『アレクシア様、今のは貴女の本音ですか』
彼女は小さく目を見開き、しかしそっと細め、私に笑みを向けた。
『ええ……でも皆そうよ、ここでは、そうするしかないから』
貴女もでしょう。アレクシアの言葉に、私は何も言わなかった。帰りましょう、馬車が待っているわ。そう告げた彼女の表情に、私は偽りを感じなかった。強い人だ、そう思った。
だが、数日後、私はアレクシアについての嫌な噂を耳にした。
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