第五十話 ヌッツロースの聖女
溶け残った雪と土が混じり合い、泥となっている。それを踏みしめて行く足取りは重い。
どこかで赤ん坊が泣いている。誰かが舌打ちをして、呻いた。また近くからは動けなくなった老人を励ました声も聞こえてくる。それから荷車の車輪が、ぬかるみの中で進んでいく音、泥に膝をつき、呻く声。
男はがちがちと歯を鳴らしながら、歩いていた。いったいどこまで歩けばいいのだろうか、雪解けしたとはいえ、寒さはまだ残っていた。ろくな備えもせずに出発したのだ。凌ぐ術もなかった。
「……ねえ、あれ!」
誰かが叫び、俯き歩いていた皆がいっせいに示された方向を見た。影。馬に乗った集団が遠くに見えて、人々はざわめきだした。
「追っ手か……?」
「先回りをされたのか……?」
「いや、野盗なんじゃ……」
人々が口々に話せば、それはすぐさま、恐怖となって広まった。この群れは殆ど丸腰だった。僅かな家財すらも奪われるのかと、男は唇を噛んだ。絶望が、群れを包んだ。
「動くぞ……」
誰かが声を引きつらせたと同時、馬は動いた。まったく乱れなく、こちらへまっすぐに向かってくる。馬蹄の音が地鳴りのように響き、ひとかたまりになっていたものが恐怖にかられ崩れていく気配がする。
「アクリ様……!」
誰かが神に祈りを捧げた。それも無駄なことのように思えた。
ほどなくして、馬群の先頭が見えた。碧眼の若い男だ。品が良さそうで、野盗の類いではないとすぐに分かった。では王都からの追っ手だろうか。ぶつかる、と思った瞬間、馬群は人々の前でぴたりと止まった。
「お待ちください。ここからはヌッツロース領となります。あなた方はどちらから?」
馬の上で若者が静かに問いかけてきた。しかしその声色は、憐憫を含んだもので、本気で問い詰めようとしているようには聞こえなかった。
「お、オレたちは王都から逃げてきたんだ!」
「……王都から、ですか……」
どこかから上がった声に、若者は目を見開いた。彼は躊躇いなく馬から降り、一歩、進み出た。
「私はヌッツロースにて騎士団を務めています。しかし元は王都にいました。見たところ……あなた方はひどく疲れ果てているようだ。……よければ、村に立ち寄りませんか? 領主にも許しを得ていますので」
「…………ぬ、ヌッツロースって、あの……?」
「どういう所なんだ?」
「荒れ果てて、徴税官すら行かないって……それに……」
「なんでもいい! 休みたいんだ! もう限界だよ!」
群れはざわめいた。不安と安堵、二つの相反する感情が人々に活力を取り戻させた。その揺らぎを感じ取ったか、赤ん坊がいっそう、泣きわめいた。
「このままあても無いよりはマシだよ! 行こう!」
赤ん坊の母親が、いてもたってもいられず、叫んだ。
煙が立ち上り、鍋の中でぐつぐつとスープが煮えている。その匂いに、男が目尻がじんわりと濡れるのを感じた。手の中には器があり、温かなスープで満たされている。敷き詰められた藁に座り、皆それを貪っていた。
「おかわりあるからね! ゆっくり食べな!」
鍋の中身をかき回している村娘たちが、元気な声をあげている。疲れ切って座り込んでしまった人々の合間を忙しなく行き交っているのは男たちだ。帳簿を片手に、色々と聴き取っているようだった。
自分が加わった〝群れ〟は百人ぐらいだろうか。他にも同じように王都から逃げた群れがいくつかあると、道中で聞いた。彼らは別の村に辿り着いたのだろうか。そんなことを考えながら、男はスープを口にしていた。周囲を注意深く見る。
――荒れ果てて、徴税官すら来ない……この村が? ここにつれてきた集団――おそらく村の警備隊だろう、は王都の騎士団にも劣らない動きをしていたし、ここに来るまでに見た村は、どこよりも立派だった。今や、王都よりも暮らしやすいかもしれない。なにより、村人たちにはどこか余裕があった。男には、それが不思議でならなかった。
「具合が悪い奴がいたら言ってくれ!」
「この子を見てやってよ! 昨日から熱がひどいんだ!」
女が懇願し、村の医者と思しき中年が彼女に駆け寄る。しばらく診ていたようだが、表情は厳しい。付き従っていた若者に何かを言えば、若者は走り去っていった。
「…………まだ暖かくならないうちから出て行ったから……」
「だがもう……限界だったんだ……残った奴はどうなっているか……」
誰かがぼそぼそと言葉を交わすのを聞く。男にとって、もう王都は知ったことではない、とまで思えた。今ここにいて、命が助かっている。それだけで充分だった。
「アレクシア様!」
誰かが叫んで、男ははっと顔をあげた。具合の悪い子どもへと足早に歩み寄ってくる一人の娘。灰青色の髪を高く結わえている。
「あれが……領主……?」
女じゃないか、と誰かが呟いた。彼女は心配そうな顔で子どもを見つめ、そして裾が汚れるのも気にしていないのか、そこに跪いた。
「指定、治療、熱」
彼女が何かを唱えたと思えば、淡い光が彼女を包んだ。それはすぐに収まったが、次の瞬間には母親が奇跡だと喜びの声をあげ、子どもの身体を抱き上げるのが見えた。
「……あれは、祝福?」
その様子を見ていた誰かが言った。男は、聖女の祝福をみたことがない。しかし今見たものは確かに、奇跡のようだった。唱えるだけで熱を引かせ、子どもを元気にさせる力が祝福以外のなんであろうか。
「祝福だ……」
「はじめて見た……」
「ってことは、領主様は聖女なのか?」
「でもヌッツロースって、たしか……悪魔憑きの令嬢が……」
「……彼女が?」
「まさか、そうは見えないよ……」
「じゃあ、国教会が嘘を……?」
人々が顔を見合わせ、そして彼女――アレクシアと呼ばれた領主に眼差しを向ける。
「もう大丈夫です。……他には、いらっしゃいませんか?」
微笑み、立ち上がる彼女を人々は見上げた。聖女様、アレクシア様――おずおずと彼女を呼ぶ声が聞こえてくる。
「どうか、我々をお助けください」
縋るような声に、彼女は頷いた。大丈夫です、もう大丈夫ですから。
男もぼんやりとアレクシアを見上げた。――聖女という者は、彼女を指すのだろう。
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