第三十二話 来訪者
ヌッツロースの夏は過ごしやすかった。山と川が近くにあるからだろう。
「これでやってみましょう」
アレクシアの声は明るい。村の畑を把握するための農業地図を書斎机の脇に丸めた。次に出したのは村の地図だ。広げ、さてどうするか――と、扉がノックされた。
「失礼致します、アレクシア様」
「どうぞ、サーラ」
静かに扉が開かれる。いつものようにエプロンドレスを着たサーラが立っていた。髪を引っ詰めてシニヨンにし、澄ました顔で一礼をする。すっかり板についてきたわね、と笑みを浮かべながらアレクシアは入るように促した。
「お茶をお持ちしました」
「ふふ、ありがとう」
「今から村へ買い出しに行こうと思うんですが、何か必要なものは?」
サーラに問われ、暫く考える。食糧の管理はデルマとサーラに任せているので特に言わなくてもいい。自分が欲しいのは……。
「そうね……いつものことだけど情報がほしいわ。皆が何に困っているのか、何をしたいのか……」
「お任せ下さいよ」
サーラが悪戯っぽく笑みを向け、ではいってまいりますと辞する。それと入れ替わるように、デルマがやって来た。
「お呼びですか?」
「ええ、農業地図が完成したからウッツ様に渡してほしくて」
アレクシアがハーブティーに口をつけつつ、書斎机に置いたそれをデルマに渡す。広げてそれを眺めだしたデルマをちらりと見て、口を開いた。
「放置されていた畑の割り振りを見直したわ。これで作付けの量は増えるはず。曖昧になっていた境界も改めて引き直した。……出来るだけ公平にね」
「問題ないかと」
「私も説明に赴くべきだと思うけど……」
「一度ウッツ様にお任せしましょう」
デルマの提案に頷く。よろしくね、と付け足しながら村の地図に目を落とした。
「かなりの空き家があるわ……村に住む人の数も、例の暴走事件の年からずっと減り続けている。……なんとかしたいわね」
「ええ、その為には人を呼ばなければいけません。ゆえに、商人を呼び込むべきかと」
「……商人……」
デルマの言葉はもっともだった。商人が来れば、村の特産品を買い付けてくれる。上手くいけば良い村だという噂も流してもらえる。純粋に、村の外との繋がりが出来る。今のところメリットは大きい。――大きいのだが。
「そのためには、ヌッツロースに誇れるものが必要よ……ここに来る理由を作らなきゃいけない」
「一朝一夕では成せません。焦らないことです」
そうね、と頷く。そしてふと気づき、アレクシアは顔を上げた。
「ゲルトはどう?」
「……相変わらずです。自分が誰なのかも思い出せていません」
「そう……」
首を振るデルマにため息を吐く。井戸に水が戻った数日後の朝、井戸のそばで伸びていたのだ。発見された時、手には小瓶――調べてみると強力な毒であった――が握られていた。井戸に毒を流そうとした咎で今は村の端、古い小屋に収監されている。……自分の記憶を失った状態で。
「強く頭を打ったからってお医者様は言っていたけど、戻るのかしら」
「個人的な感情を言うなら、戻らない方が平和かと。本来ならば井戸に毒など、処刑でもおかしくありませんから」
「……どうして彼は毒を持っていたのかしら。しかも、このあたりで生息していないはずの毒蜘蛛由来の……」
収監直後、デルマはゲルトの様子を見にいった。そこにいたのはにこにこと人の良い笑みを浮かべ、自分がどうしてここにいるのかも分からないといった様子の男だった。ああ、美しいお嬢さん。こんにちは。そう挨拶するゲルトにデルマが閉口したのは言うまでもない。
……全ては文字通り、闇の中である。彼の記憶が戻らない限りは。
軽く頭を振って、思考を切り替える。今は村の立て直しに専念したい。
「それで、デルマ。この前言っていた件なのだけど……」
アレクシアが話題を帰れば、デルマも地図を覗き込んだ。夏の終わりの昼下がり、窓から差し込む陽光は目映い。
◆
「ああ、サーラちゃん! ちょうどいいところに来たじゃないか!」
今朝狩ったばかりの鹿肉を買い付けたところで、サーラは呼び止められた。振り向けば籠いっぱいの白ナスを抱えた知り合いが立っている。
「おはよ、ソッチおじさん。……それどうしたの?」
「うちで作ったナスが見たこともないぐらいに育っちまってな。元々アレクシア様が言っていたやりかたで育ててたんだが、効果てきめんだよ! あんまりに豊作だから余っちまったんだ。腐らせるともったいないだろ?」
アレクシア様に食べさせてやってくれ。そう言いながら手渡された籠に入った白ナスを見やる。つやつやと艶やかで、むっちりと丸い。あの痩せた土から育っていたものとは、大違いだった。
「……すごい。きっとアレクシア様、喜ぶよ!」
「そうだろうよ! ……でもまだまだ余ってるんだ。どうしたもんか……」
「へえ! いい野菜だな、余ってんなら酢漬けにすれば?」
楽しそうな声は聞き覚えがないものだった。二人がはたとそちらを見れば、馬を連れた見知らぬ若者が興味深そうに籠の中の白ナスを覗き込んでいる。それを一つ手に取り、空にかざしまじまじと見つめ、目を輝かせた。
「こりゃ一級品だ! ヌッツロースはどうしようもなく荒れた村って聞いてたんだけど、嘘だったのか? それとも、行ったやつの目が節穴だったのか?」
ぶつぶつと呟きながら金色の目を細める若者を、サーラは凝視する。金色の目に、肩まで届く三つ編みは黒い。――ヤトルカ人だ。
「あ、あんた誰だ?」
ソッチが上擦った声でヤトルカ人の若者に訊ねる。おっと、と白ナスを元に戻し、軽く手を上げた。
「ああ、ごめんごめん。怪しい奴じゃない。……ただの行商人ってやつさ。……そこの君、立派な服を着てるね? ここの領主の子? ちょっと、お話聞かせてちょうだいよ」
あまりに軽い調子に、二人は呆気に取られた。サーラちゃん、と気遣うソッチの声に曖昧に頷きつつ、しかしサーラはそうだけど、と肯定すれば、若者はにっこりと笑った。
「オレ、ツチラト。今後ともごひいきに!」
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