第三十一話 帰ってきた日常
「受理したわ」
契約書にしたためられた、書き慣れていない名前を嬉しそうに眺めながら、アレクシアはサーラに告げた。緊張した面持ちで書斎机の前に立ち竦んでいたサーラは、その言葉にほっと、息を吐いた。
「ありがとう、アレクシア様……その、仕事が忙しいのに一緒に読んでくれて……」
「あら、メードとの雇用契約は最優先事項よ?」
くすくすとアレクシアが笑い、揶揄う。しかし流石に疲れたと感じ、少し休憩しましょうと告げればサーラは頷いた。
「あ、じゃあ、あたしお茶淹れてくるね……」
「ええ、お願いね」
ぱたぱたと部屋を出て行ったサーラを見送り、アレクシアはそっと息を吐く。
「…………」
窓の外を眺める。穏やかな陽光が降り注いで、緑を輝かせていた。
書斎から眺めることが出来る庭に植えたヴェルヴェールの種。帰ったあとにすぐに植えて、井戸から汲んだ水を撒いた途端に芽吹き、白い花を咲かせた時には笑ってしまった。あの可愛らしい木の精の悪戯が、アレクシアの心を和ませている。
井戸が蘇って数日。
帰ってきた直後は疲れ果て、仕事をする気にもならなかった。デルマは怪我が思ったよりもひどく、また無茶をしたとアレクシアは彼女に怒りそうになったがその原因が自分にもあることを思い出し、やめた。
とにかく家のことを張り切るサーラに任せて、休養をとった。村人たちも心配して、見舞いだと芋や果物を持ってきたが、丁重に断った。
休養は昨日までだ。今日からまた、ヌッツロースの為に働く日々が始まる。
(井戸が蘇ったからといって、一日二日で荒れた村は戻らない……むしろ、ここからよ)
考えることは山ほどある。生活のための基盤、農業、工業……そして、商業。ゼロからじゃない、マイナスからだ。もっと、難しいものになる。
(……大丈夫)
それでもアレクシアは前を向くことにしていた。。井戸の水を蘇らせたのだ。きっと村も、もっとよく出来る。そう思うことにしていた。
「アレクシア様」
ノックの音と共に入ってきたのは、デルマだった。まだ腕や脚に包帯を巻いていたが、その動きに鈍さはない。いつものように背筋を伸ばして、立ち振る舞いは侍女として完璧だ。
「どうだった?」
「……率直に申し上げれば、荒れています。あの子がいなくなって、世話をする者がいないからか家の中は荒れ放題です。村人たちにもあまりいい顔をされていないのも、彼にとってはつらいでしょうね」
「……そう……」
「酒場に入り浸っていますが、店主の堪忍袋の緒が切れるのも時間の問題でしょう」
デルマが語っているのはゲルトのことだ。村人の一人として、彼が心配でアレクシアがデルマに様子を見にいかせたのだった。案の定、立ち直れていないらしい。
「なんとかしたいわ……」
「いけません。彼の問題です。……あなたが手を差し伸べても、きっと彼は気づけない」
「…………」
「お待たせ!」
サーラがティーセットを持ってきて、二人は口を噤んだ。その姿を見て、あ、とサーラが目を見開いた。
「デルマも休憩する?」
「……ああ、そうしよう。しかしサーラ、ここに入るときは〝失礼致します〟と――」
「デルマのぶんのカップも持ってくるよ!」
ティーセットをデルマに押しつけて、サーラが足早に去る。その姿にため息を吐きながらも、デルマは笑った。
「仕方ない子」
「……いいメードを雇えたわ」
アレクシアが微笑めば、デルマも頷く。手にしていた契約書を書斎机の引き出しにしまい、アレクシアはぐっと伸びをした。
◆
月までオレを笑ってやがる。
ゲルトは夜闇の中、千鳥足で歩いていた。空を見上げれば細くなりつつある月が、浮かんでいる。
「くそっ、くそっ……あの女のせいだ、あの悪魔憑きがオレを……この村を騙しやがった……なんでみんな分からねえ……」
ついにゲルトは酒場を追い出された。もうツケの払いも要らないから二度と来るな。酒場の主人に首根っこを掴まれ、叩き出されたのだ。
そこにいた誰もが、ゲルトに近寄りもせず、助けもしなかった。ただ面倒なものをみるかのように、冷ややかな眼差しでちらと見て、それきりだった。
家には帰りたくない。
片付いていないからだ。服も、皿も、何もかも片付いていない。サーラが帰ってこないせいだ。仕方ないから、見かけた女にやらせようと声をかけた。すると彼女は嫌な顔をさせて、近寄んないで、と――くそっ、口答えしやがって、女のくせに――。
「なんでだよ! なんでオレが悪いことになるんだ! オレは村を思って……」
喚きながら、あてもなく歩く。開けていた窓がぱたん、と閉まる音が聞こえてきて、ゲルトは呻いた。
「悪魔憑きのことを知っているのですか?」
不意に声を掛けられ、ゲルトは飛び上がるほど驚いた。おそるおそるそちらを見れば、外套を纏った人間が立っている。みるからに怪しい。
「んだあ、お前……」
「……ああ、申し訳ありません。私は尊き御方の命により、この村の様子を見に来たのです。悪魔憑きの女が追放されたこの村が、毒されていないか……」
「あんだって!? あんた、王都の人か!」
「……」
「いいところに来た! あんたの力が必要なんだ……」
ゲルトは声を落とし、周囲を見渡した。夜にほっつき歩いている人間などいない。王都から来たという人間を広場の入り口へと案内し、ゲルトは中央の井戸を指さした。
「あの井戸! 数日前まで涸れていたんだ……でもよ、あの女が悪魔の力を使って、水を満たしちまった……何年も涸れていた井戸がだぜ? きっとよくないものに違いねえ……なあ、あんたどう思う?」
「……なるほど、それは……ゆゆしき事態ですね」
「オレは皆に言ったんだ。こいつは信用しちゃならねえって……でもよ、この村の奴らは皆バカだ。水が蘇ったぐらいですんなりあのあばずれを信用しやがった……オレだけだ。オレだけが、正気だ……! なあ、アンタ、オレを助けてくれよ……」
王都から来たという人間は、暫く黙って佇んでいた。ゲルトの痩けた顔を、じっと見つめ、そして頷いた。いいでしょう、と。
「あなたの言い分が正しいことを証明する、よい方法があります」
懐から取り出したのは、小さな小瓶だった。不思議な輝きを持つ液体が満たされている。それを受け取り、ゲルトはにんまりと笑った。
「ああ! そういうのが欲しかったんだ!」
「……私はあの御方にこのことを報告せねば。……上手くやるのですよ」
「もちろん! 今からやるさ、お前はとっととその偉いさんのとこに行ってくれ!」
ゲルトはもはや、その小瓶しか見ていなかった。彼がそそくさと立ち去ったのも、気づいていないだろう。
(これで……これでオレは村の英雄だ! 悪魔憑きの女から村を救った勇者だ!)
鼓動を高鳴らせ、井戸の前に立つ。水が満たされた井戸のそばには、不思議なことに、いつの間にか細い木が生えていた。それもきっと悪魔の木に違いない。だがこれで全部、村は元に戻る。
きゅ、と小瓶の蓋に指を掛ける。これで元通り……。
「我が泉の水に何をするつもりだ、人間よ」
「は?」
井戸の水面がたぷん、と揺れる。雨、と思い見上げたが、空には雨雲ひとつない。
「な、に……」
「その手に持つものはなんだ!」
声が響く。その主は明らかに怒っているようだった。
「誰だ! どこに……!」
ざぱん、と井戸が揺れ、ゲルトに影が落ちた。大蛇。人一人を丸呑みしそうなほど大きな大蛇――の尾をもった人間だった。その精悍な顔は怒りに満ちている。
「ば、ばけもの……」
「我を愚弄するか、人間! 井戸を害する貴様は何者だ!」
「お、オレはゲルトってんだ! さてはお前、アレクシアの手下だな! あの女がオレが井戸を元に戻せないようにお前を……」
「ゲルトだと!?」
蛇男はいよいよ怒声を大にした。不思議なことに、それはゲルト以外には聞こえていないらしい。誰も、広場にやってこない。
「お前があのゲルトか! あの村娘を泣かせた、ゲルトか!」
「はあ? な、なんのことだよ……」
呻くゲルトの腕を、蔓が捕らえた。驚きそちらを見れば、美しい少女が怒りの表情を浮かべ、ゲルトを睨み付けている。
「なるほど、己が過ちを認めず、己が正しさを作るために、アレクシアが命を賭けて蘇らせた井戸を……なんと救えぬ奴め! 村の要たるこの井戸を害するならば、泉のあるじとして許さん!」
蛇男――ナーガの声と共に、井戸から水が溢れる。それは蛇のようにうねり、ゲルトの足元を濡らした。
「ヒッ……」
今にも自分を縊り殺さんばかりの、大蛇の殺気にゲルトは声を引き攣らせた。酔いが覚め、恐怖に後ずされば――足がもつれた。元々酒で覚束なかった足だ。地面が濡れたことも手伝った。
「あっ」
ずるっ、とひっくり返る。鈍い音がして、ゲルトは大の字に倒れたまま、気を失ってしまった。
その様子に精霊二人は呆れた顔で、ゲルトを見下ろして黙りこくる。ややあって少女――ドリアードがナーガをじろりと見やった。ナーガは気まずそうに頭を掻き、尾を揺らした。
「……」
「すまん、つい……いや、もうこのまま放っておこう、ドリアードよ。……あとは村の者がなんとかするだろうさ。まったく……どうしようもない奴だよ、こいつは」
二人の精霊はすぐに消えた。静かに水を揺らす井戸と、美しい花を咲かせる木蔓、そして小瓶を握りしめたまま伸びたゲルトだけを、細い月は照らしていた。
◆
王都、商業地区カンティン商会本部――。
「よう、ツチラト! 行商に行くのか?」
受付の男が通りすがりの若者に声をかける。黒い三つ編みを揺らし、ツチラトと呼ばれた若者は金色の目を細めた。
「ああ、お得意さんともう取引出来なくなっちまったもんで……販路を広げようかなって!」
「そうか、ここ最近は王都も金回りが悪いからな………色んなとこに唾つけることは悪いことじゃねえ」
「だから暫くうちの店を空ける!ああ、でも店番はいるからさ、頼むよ、おやっさん!」
カランカランと鈴を鳴らして、建物を出る。王都は相変わらず賑やかで、店通りの往来も絶えない。背の荷物を担ぎ直し、澄み渡る青空を見上げた。
「さぁて、お嬢さんが言っていたヌッツロースとやらに、行ってみましょうかね!」
若者の声は、明るい。
第三十一話をお読みいただきありがとうございます、第一章完結です:)
次回は新章となります、よろしくお願いします!




