第三十話 ヌッツロース領主のご帰還
山を下りた途端、村人の何人かと鉢合わせしてアレクシアは驚いた。やっと元に戻った川から水を汲もうとしているのだろうと、最初は思ったのだがどうもそうではないらしい。
皆、水桶を担いできていない。
「アレクシア様!」
一人の男が駆け寄り、アレクシアの手をとろうとした。デルマが一瞬身構えたのが見えたが、アレクシアはそっとそれを制し、彼の手に触れた。
「……井戸は、戻った?」
「はい! アレクシア様が戻してくれたんだろう? 皆、あんたの帰りを待ってるよ! 行こう、迎えに来たんだよ!」
「こんなにボロボロになって! お付きの人も傷だらけだ!」
「サーラちゃん、疲れただろう?」
「あたしは別に……殆ど二人がやったんだ」
俯くサーラの肩を、アレクシアがそっと触れる。サーラははっとした顔でアレクシアを見て、しかしすぐに気まずそうに顔を背けた。
「サーラも手伝ってくれたじゃない。あなたがドリアード様に本音を言ってくれたから、彼女は答えてくれたのよ」
「…………そんなの……」
「とにかく村にお帰りくださいよ! さあ、さあ!」
興奮した村人たちにせっつかれ、三人は帰路を行く。川を流れるせせらぎの音、ひんやり涼しい空気を背に、アレクシアも足早になった。
村に来て初めて、活気を感じた。
洗濯物がはためいて、陽光を一身に受け止めている。家の壁を汲んだ水で洗っている者もいる。
井戸の広場へ向かう。人々が集まり、井戸の水汲みを待つ間おしゃべりをしているようだった。その周りでは子どもたちが走り回り、それを見守る老人たちもいた。
(私が頑張ってよかったって思えるのは、こういう時――少し、忘れていたかも)
賑わう井戸広場を眺め、アレクシアは呆然としていた。背負っていた重いものを下ろした。そんな気分だ。
アレクシア様だ! 誰かが声を上げる。皆、井戸から水を汲むのを放り出して、帰ってきた女領主に駆け寄ってきた。
「アレクシア様、おかえりなさい!」
「よくご無事で……!」
「デルマ様、包帯をお持ちします!」
「サーラちゃんもおかえり、よく頑張ったね!」
皆口々に、三人の娘を労い、褒め称える。アレクシアははにかみ、デルマも少し驚いたように目を見開いている。
「アレクシア殿」
しゃがれた声にそちらを見れば、若者に連れられて、村長ウッツがやってきた。アレクシアを見つめるその瞳は、微かな懐かしみと悔恨が滲んでいる。アレクシアは彼に歩み寄り、腰の曲がった老爺の前に、跪いた。
「ウッツ様、領主としての務めを果たし、アレクシアは帰ってきました」
「…………しかと、この衰えた目でも、貴女の働きをこのウッツは拝見いたしました。どうか、我らが無礼をお許しくだされ。そしてこれからも、この村の領主として、皆を導いてくださらぬか。貴女の祖、デュランのように……いや、貴女も最早、立派なデュランの娘です。ヌッツロース領主、アレクシア・デュラン殿」
「アレクシア・デュラン……」
レイデンの姓を剥奪され、王都を追放された時には思いもしなかった。再び家名を拝することになろうとは。
「私、……そんな……」
「あなたの祖母も、デュラン家でございました。遠い昔のことです……もしかすると、あの人の導きかもしれませんな」
「やはりおばあさまを知っていらっしゃったのですね、ウッツ様」
「幼馴染みです。……私たちが幼い頃に、別れてしまいましたが……あなたが紋章のことを言った時、驚きましたぞ」
ウッツの目は遠い。そうでしたか、とアレクシアは頷き、胸に手を当てた。
「今改めて、謹んで拝命いたします、どうか皆さん、私にお力添えを」
ヌッツロース領主、アレクシア様ばんざい! 調子の良い誰かが叫ぶ。万歳! 村の救世主アレクシア様、万歳! 子どもたちが真似をして、大人達が笑った。――ヌッツロースに、喜びが戻ったのだ。
「…………あ……」
歓喜にわく村人たちをぼんやりと眺めていたサーラが、こちらにやってくるいくつかの人影を認めて声を上げた。先だって歩くのは、怒りに顔を歪ませた、ゲルトだった。
「ゲルトさん」
若者の一人が彼を呼ぶ。ただならぬ雰囲気を漂わせる彼を、自然と避けるように人々は道を空けた。
「……ゲルト」
サーラが声を震わせる。デルマはアレクシアの前に一歩進み出、彼がこれ以上近寄らないように牽制した。するとゲルトは、いまいましげにデルマを睨み付け、そしてゆっくり息を吐いた後、村人たちを見渡した。
「お前らは騙されている!」
開口一番叫ぶゲルトに、ウッツは眉根を寄せて彼を睨んだ。
「口を慎め、ゲルト」
「いいや、黙ってたまるか! おい、どうして皆、井戸の水が戻ったからって簡単にこの女を信じちまうんだ!」
ゲルトの指がアレクシアを指す。アレクシアは、怒れる男を真っ直ぐに見据えていた。
「だ、だってゲルト! 井戸の水だぜ! 何年も涸れていた井戸が、アレクシア様のおかげで戻ったんだ! もう、意地をはるのは――」
「それがおかしいって言ってるんだ! 何故分からねえ、皆、井戸の水を飲んで馬鹿になっちまったのか? アレクシア! お前、井戸に何か混ぜたな!? 悪魔憑きめ、この水も悪魔に頼み込んで戻したんだろ! オレは、オレは騙されねえぞ!」
「…………いいえ、その水は正真正銘、山の水源……泉のあるじである水精ナーガ様の許可を得て流れている水です。けして悪魔の水ではありません!」
「口ではどうとでも言えるさ! そのナーガってのが、悪魔じゃねえ証拠を出せ!」
「ゲルト、口を慎め!」
ウッツの怒声に、ゲルトは身体を跳ねさせた。あの、いつも弱々しく、諦観のままに村を治めていた老爺の声が怒りに満ちていることに驚き、一歩後ずさる。
「だ、だってウッツさんよ、そのナーガっていうのはどうして何年も――」
「ナーガ様は再びこの村に水を与えてくださった山の水精、侮辱をするならこの村から出て行け!」
ゲルトは一線を越えた。誰しもがそう思った。ゲルトに付き添っていた若者も、顔を見合わせる。そして気まずそうに、ゲルトから一歩、引いた。
「……は、……お前ら、……おかしいって思わねえのか……?」
「いやだって、アレクシア様はさ、オレたちの為に動いてくれたじゃねえか。こんなに傷だらけになって……」
「……そうだよ。でもゲルトは……オレたちはなんにもしなかった。水が戻ったのに、この子を悪魔憑きだなんて……」
「だから水が戻ったのがおかしいんだって、どう考えても悪魔の仕業――」
「アレクシア様は悪魔憑きなんかじゃない!」
声を上げたのはサーラだった。その声に皆、いっせいにサーラを見たので、少女はびくりと肩を震わせ、息を呑んだ。彼女がいることに気がついて、ゲルトは再び、顔を怒りに染めた。
「サーラ、お前何を――」
「アレクシア様は悪魔の力なんか借りてない! ナーガ様やドリアード様と話し合って、ドリアード様の頼み事で山奥に行って、ボロボロになりながら約束を守った……だから、ナーガ様もドリアード様も、この人を信頼して水を戻したんだ! アレクシア様が悪魔憑きじゃないのは、あたしが証人だ!」
「サーラ……」
叫ぶサーラに、村人たちは顔を見合わせた。ゲルトは顔を引きつらせ、一歩、彼女へと近寄れば、サーラは身を竦ませ、俯いた。
「お前が言ったんだろ! 王都の人間がアレクシアを悪魔憑きだって呼んでいたと! お前は、お前は嘘を吐いたのか!? なあ、違うだろ!?」
「…………あ、あたし、読んだ。王太子からの手紙……アレクシア様の書斎に黙って忍び込んで、読んだ! 手紙には悪魔憑きって書いてた……でも、でも……あたし、そんなの嘘っぱちだと思う! だって、あたしが知ってるアレクシア様は、悪魔憑きなんかじゃない! ゲルトみたいに殴らないし、ちゃんと仕事をしたら褒めてくれる! デルマだって、野蛮なヤトルカ人なんて嘘! デルマは、デルマはちょっと怖いけど、あたしが怪我したら、手当をしてくれる……! 王太子の手紙に書いてたことなんて、嘘っぱちだ! あたしだって……あたしだって、そんな嘘を信じちゃった……アレクシア様に、デルマに……ひどいこと、言ったのに、ゲルトに、手紙のことを言っちゃったのに……」
しん、と静寂が落ちた。サーラの浅い息づかいだけが、聞こえてくる。ぐす、と鼻を鳴らすサーラにデルマは手を、その肩に乗せた。
「サーラ! おい、お前はオレを裏切るのか!? んなことねえよな? ……お前は、お前は何しても駄目で、オレがいねえと生きていけないだろ! この女にちょっと優しくされたからって、長年面倒を見てやったオレを、裏切るってのかよ!」
「…………面倒を見てたのはサーラでしょ? あんた、毎日飲み歩いていただけじゃない」
ぽつりと、女の声がした。誰かは分からないが、ひどく蔑んだ声だった。
「黙れ! オレの家のことに口出しすんじゃねえ!」
「でも、あの家ってサーラの家だよな。死んだ両親の」
「…………お前らまで、何言って……そうだ、お前らだって、オレがいなきゃ、なんにも決められ――」
「あたし、もうあの家には帰らない」
サーラの声ははっきりとしていた。もう後戻りは出来ないと覚悟を決めた声だった。
「サーラ?」
「あ、アレクシア様……あたし、許されるとは思っていません。だって、言いつけを破って書斎に入っちゃったから、手紙を読んじゃったから……どんな罰でも受けるつもり。で、でもね、アレクシア様がいいよって言ってくれるなら……あたし、アレクシア様のメードでいたい。勉強もして、あんたが誇れるメードでいたい。……でも、駄目なら、それでいい」
サーラの申し出に、アレクシアはそっと息を吐いた。悩むことなんて何もない。答えは決まっている。
「それなら、契約書にサインしなきゃね」
「サーラ! てめえ、……てめえ!」
ゲルトが口角泡を飛ばしながら、もう限界だとサーラへと掴みかかろうとする。周囲はどよめき、悲鳴が上がり、サーラはぎゅっと目を瞑った。
「――……」
「私の部下に何をする」
彼の手首を掴んだのはデルマだった。その声は低く、怒りに満ちていた。みしり、と骨が軋む痛みと金色の目に見据えられた恐怖に、ゲルトがヒュ、と息を呑む。冷ややかな表情のまま、デルマは彼の腕を払う。その拍子に、ゲルトはもんどりうった。
「デルマ……」
デルマが小さなため息を吐き、アレクシアに視線を向ける。
「サーラの処罰に関しては、私にお任せくださいませんか、アレクシア様」
「ええ、勿論よ。……あなたの部下だもの」
「申し訳ございません、私の監督不行き届きです。……それで」
ちら、とデルマが尻餅をついたままのゲルトを睨む。
「いつまでそこにいる?」
「……ッ、……!」
よろよろとゲルトが立ち上がり、周囲を見渡した。皆、己を何か恐ろしいもののような、それでいてどうしようもないものを見るような目で見てくる。なんでだ、なんで分からねえ。そんな声が出かかって、しかしゲルトは何も言えなかった。一歩、二歩と後ずさる。
「もうやめろよ!」
誰かが叫ぶ。ゲルトはそちらに勢いよく振り向き、村人たちに縋るような眼差しを向けた。しかし、村人たちが己に向ける視線がどれも冷ややかで同調するようなものではない事に気づき、さっと血の気が引く。二日前までは己の味方だったのに、今はもう、アレクシアに対する疑念を彼らは持っていないのだ。
(……そんなこと認められるか!)
「なんでだよ、……おまえら、おかしいだろ……ッ。サーラ……おい、お前は……」
「…………」
サーラは唇を引き結び、ゲルトを見つめていた。その眼差しの強さに、ついにゲルトは耐えきれなくなったのか、呻き、ついにはよろめくように去っていった。
「ゲルト……」
去りゆく恋人――だった男の背中に、サーラはぽつりと呟く。しかしゆっくりと首を振り、アレクシアを見上げた。
「これでよかったんだよね」
「……ええ、あとは……彼自身の問題よ」
「…………うん」
アレクシアの言葉に、サーラは曖昧に頷いた。そして笑みをつくり、彼女を見上げれば小さく首を傾げた。
「帰ろう、アレクシア様。……あたしたちの家にね」
第三十話をお読みいただきありがとうございます:)
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