第三話 追放
窓から差す春の陽光に、アレクシアはそっと目を細め嘆息した。
「櫛を忘れたわ」
大聖堂のドレッサーに置きっぱなしにしてしまった真珠貝の櫛。あれは王妃フレドリカに、誕生日に贈られたものだった。
もしこんなことが起きなければ、ヨナーシュとの仲が芳しくなくとも、あの二人は理解者であってくれたと今でも思う。
その二人――国を統べる王家でも神託には逆らえないのだ。
どだい、たかが侯爵令嬢があの状況を打開出来る可能性なんてなかった。そう考えるとまだ追放で済んだことは……僥倖だろう。
そっと胸元、小さな護符が揺れていた位置を無意識に触れる。いつの日かヨナーシュに語った祖母の形見がこんな形で壊されるなんて――。アレクシアの顔には疲労と憂鬱の影が落ちている。
「旦那様と奥方様を説得出来ず……申し訳ございません」
追放先へと向かう馬車の中、アレクシアとデルマは向かい合って座っていた。
デルマは沈痛な面持ちでアレクシアに詫び、俯いている。艶やかな黒髪がデルマ自身の顔に影を落とし、伏せられた瞳は憂いを帯びていた。
「いいえ、あなたはよくやってくれたわ、デルマ。あまり自分を責めないで」
アレクシアの言葉は本心だった。
あの出来事ののち、文字通り追われるようにアレクシアが王宮に持ち込んでいた私物を夜じゅう纏めている間、デルマはレイデン家に直談判をしにいったのだ。
娘であるアレクシアを保護するべきだ。レイデン家として王家に抗議するべきだと。
対してアレクシアの両親の反応は冷淡そのものだった。
デルマに〝永い暇〟を出し、彼女たちを一歩たりとも家に入れるなどという愚行はすまいと、扉を閉じきってしまった。
唯一、アレクシアの幼い妹クラリスだけは、姉を信じていた。
閉めきられた扉の前で途方に暮れるデルマを、二階の窓から呼びつけたのだ。元主人に見つからないよう、デルマはその窓に近い大木を一息にのぼり、伸びる枝からクラリスの私室へと渡った。
「お姉さま、死んだの?」
「……、誰がそのようなことを」
「お父様とお母様。悪魔に呪い殺されてしまったって……そんなの、嘘だよ」
「……ええ、それは偽りです。クラリス様。しかしもう会うことはきっと叶わないでしょう。あなたの胸の内にだけ、アレクシア様は生きていると留めてください。そして、あの御方の魂が清らかであることも」
デルマの言葉にクラリスははっとした顔をさせた。唇を噛み、姉と同じ目の色を潤ませながら、ひとつ頷いた。
「あたしに出来ること、ある?」
「…………ツチラトのことを覚えていますか?」
「たまに来る物売りさん! デルマと同じ、ヤトルカから来た人でしょ?」
「そうです。彼に次に会えれば……私たちのことをお伝えください。それで充分です」
クラリスはこくりと頷いた。彼もおそらく、レイデン家には出入り禁止になるであろう。クラリスが彼と接触できる確率は低いが、それでもゼロではない。
「では、クラリス様。お元気で。……アレクシア様からの伝言です。どうか健やかに、正しく生きられますよう」
「うん、きっとそうするよ。お姉さまも、デルマも元気でね……」
見つからないうちに、とデルマが促せば、クラリスは少し躊躇いながらも、窓を閉めた。軽く頭を下げ、レイデン家の敷地から去る。明朝、この王都から出なければならない。――どうしても時間が足りなかった。
◆
「お父様もお母様も、なんの責めも向けられなければいいけど……」
そう零すアレクシアに自分を見捨てた親のことなど心配しなくてもよいのでは、とデルマは思ったがその優しさが、アレクシアの美徳であると知っている。
デルマは心底、悔しかった。
自分のあるじはこれほどまでに優しく、己が身を省みず国に尽くしてきたというのに、あの訳の分からない女と彼女がのたまう神託に従うまま、彼女を切り捨てた。
――理解に苦しむ。
それほど神託とやらは立派なのか、今までの事実が見えなくなるほど。口にはしなかったが、デルマの顔には飲み込めぬ怒りが浮かんでいて、それを見るなりアレクシアは、微かに苦笑した。
「どうか怒りを静めて、デルマ。あなたが私のために怒りに溺れているのはつらいわ」
「……アレクシア様、あなたは腹立たしくないのですか? あなたは、……今までの働きを否定されたのですよ。もっと怒るべきだと思います。あなたの父上にも、母上にも、王太子にも――王家へも、そうする権利はあるはずです」
デルマの訴えに、アレクシアは曖昧に頷いた。
「どちらかといえば、悲しいの。どうして、っていう気持ちもあるわ。……でも、でもね、デルマ。それで皆の憂いが断てるならばいいと、そう思いたいの。それならまだ意味があると思えるから。――それに、本音を言うとね、少しだけ荷が下りた気分。王宮に入ってからずっと政務に追われていたし、色んなことがあったから。…………だから、これでいいのよ」
アレクシアの声色は、デルマよりも自分に言い聞かせているようだった。握りしめた手が微かに震えているのを見てデルマは嘆息した。彼女も、本当は怖いのだ。
追放先の村は荒れ果てた土地だとヨナーシュが言っていた。
あれは支度に追われるアレクシアをわざわざ訪ねて、嘲笑ったのだ。この女が早晩、惨めに生涯を終えるだろうという確信を持って、アレクシアの精神を追い立てにきたのだ。
――どうせ追放されるなら、あれの横っ面を張り飛ばしてやれば良かった。
それももう過ぎたことだが。
「アレクシア様」
デルマはアレクシアの手に触れた。少し躊躇いながら、手の甲に己の手のひらを重ねた。
「デルマ?」
「この先、どんなことが待ち受けようとも、私はあなたのお側にいます。貴方を罰した神ではなく、あなたに誓います」
アレクシアを見つめるデルマの眼差しは真っ直ぐだった。切れ長の目を向けながら、はっきりと言い切る侍女の声色に、アレクシアの耳に熱が灯った。こんな誓いを立てられたのは、生まれて初めてかもしれない。だから……気恥ずかしいのだ。
「デルマったら、まるでおとぎ話の騎士様のようね」
照れ隠しにくすくすと笑えば、デルマも羞恥が襲ったのかふいとそっぽを向いた。離れぬその手をとり、握る。暖かい。ほんの少し、心が和らいだ気がする。
「おい、村が見えたぞ」
御者の荒っぽい声が飛んでくる。窓から顔を出せば、一面荒涼の地だった。遠くに家々が見える。色の無さがひどく寂しげに見えて、アレクシアは軽く唇を噛んだ。
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