第二話 悪魔憑きの侯爵令嬢
やってきたのは二人だ。一人はよく知った顔の男、もう一人は少女。
彼女は自分と同じぐらいの年頃だろうか。アレクシアがぼんやりと考えながら眺めていると、男――アレクシアの婚約者であるヨナーシュ王太子が恭しく少女をエスコートしながら王座に歩いて行く。
少女はどうやら聖女のようであった。衆人を前に緊張しているのか、その表情は微かに強ばっていたがヨナーシュが何やら囁くと、そっと顔を赤らめたのをアレクシアははっきりと見た。
「国王陛下、貴方の息子、ヨナーシュが参りました」
ヨナーシュは礼服をきちんと身につけている。寝坊というわけではないらしい。
いっそ堂々とした振る舞いは自分が失態を犯しているなんて微塵も感じてはいないようだった。
少女もヨナーシュに倣い、ぺこりとお辞儀をする。貴族的な一礼とはほど遠い。
「ヨナーシュ、どうしてアレクシアを伴って来なかったのです。彼女はあなたの婚約者でしょう。今日のこの場がどういったものなのか、貴方は知っているはずですよ」
最初に口を開いたのは王妃だった。その声色は確かに、息子の振る舞いを咎めている。しかしヨナーシュは王妃の言葉に顔を上げたかと思えば、僅かに顔をしかめ、軽く下唇を噛んだ。
母親の叱責が面倒だ――そう言いたげである。
それもすぐに取り繕い、ヨナーシュは居住まいを正した。
「母上のお言葉もごもっともです。しかし、私には確固とした理由があります。それを事前に貴方にお伝えできなかったのは、私も心苦しかった。それでも今まで黙っていたことを、その理由をお伝えすればここにいる皆様全員が理解していただけると信じています。……さあ、エリーズ。皆に挨拶をするんだ。大丈夫、私がついているよ」
ヨナーシュに促され、エリーズと呼ばれた少女が頷く。
あどけなさの残る顔が、大聖堂に会する人々を見渡した。席に着く間もなく立ち尽くしていたアレクシアと目が合った瞬間、少女は僅かに尻込みしたようだが、ヨナーシュの手が背に添えられれば、意を決したのか口を開いた。
「わ、私が、今日から国教会の大聖女になるエリーズ……エリーズ・マルクリーです! よろしくお願いします!」
瞬く間に大聖堂はざわめいた。貴族たちは困惑し、じっと、大聖女を自称する彼女を見据える。令嬢たちは扇の下で口を動かすのに忙しく、声量を抑える気遣いも頭にないようだった。
国教会の重鎮たちはというと、一言二言を交わしたあと、むっつりと黙ってしまった。
国王も王座から身を乗り出し、王妃と反対側に座していた大司教に何かを訊いている。大司教は小さく頷き、そっと何かを呟けば国王は複雑そうな顔をさせ、言葉を探しているようだった。
「ヨナーシュ様」
静かな混乱から皆を引き戻したのは、アレクシアの声であった。凜とした声が大聖堂にひとつ響けば、うってかわって皆静かになった。ヨナーシュは声の主、己の婚約者のほうを見たかと思えば、きっと睨みつけてくる。憎しみに近い眼差しに、胸が痛みながらもアレクシアは一歩、進み出た。
「それは理由になっておりません。なにゆえ王太子であるヨナーシュ様が直々に、まだ叙任の儀も済ませていない……その御方を伴って――」
「黙れ、悪魔め!」
ヨナーシュの怒鳴り声に、アレクシアは言葉を失った。一瞬、それがどういった意味を持つ言葉なのか理解に遅れ、あくま、と無意識に呟く。
呆然とする彼女を前にヨナーシュはいよいよ、顔を真っ赤にしながらアレクシアを指さし、叫んだ。
「アレクシア・レイデン!」
「…………ヨナーシュさ、ま?」
「悪魔と契約した大罪、このオレが見過ごすと思ったのか! 神託に従い、貴様との婚約破棄を宣言する!」
誰も彼も息が出来よう筈もない、といった静けさが大聖堂を満たす。
それは永遠のようで、一瞬だった。
「悪魔と契約した?」
「アレクシア様が?」
「しかし彼女は去年まで大聖女候補だった御方だぞ!」
「どういうことだ」
「ヨナーシュ殿下とエリーズ様は何かを掴んでいるのか? そうでなければ――」
巣を崩された虫のように、人々はざわついた。
令嬢たちはアレクシアを好奇の目で見やり、貴族たちは王を見る。
「ヨナーシュ!」
そうしてついに王が立ち上がった。息子を呼び、彼を睥睨した。毅然とした態度を見せつつも、この混乱を引き起こした息子をどうするのか、迷っているようである。
「アレクシア・レイデン侯爵令嬢が悪魔と契約したという確かな証左はあるのか?」
「はい、父上。神託です。大聖女エリーズが神託を受けたのです。エリーズ、もう一度、オレに聞かせてくれた神託を皆に伝えてくれないか?」
エリーズに乞うヨナーシュの声は、妙に優しく甘ったるい。まるで子どもに言い聞かせるようだ。一瞬別の誰かが、それこそ悪魔がヨナーシュの喉を奪ってしまったのではないかと思ってしまうほどに……アレクシアは、ヨナーシュのそんな声を聞いたことがない。
「アレクシア様」
デルマが声を震わせ、背中に手を添えてきた。もしかすると自分で立っていられないと思われたのだろうか。大丈夫、と返そうとしたが、喉が掠れた。
ヨナーシュに促され、エリーズが頷く。胸の前で手を組み、祈りの構えをとる。ゆっくりと目を瞑れば、やがてその柔らかい唇から〝神託〟が発せられた。
「神はお伝えになられました。悪魔がその魔の手を王太子ヨナーシュ様に伸ばしつつあると」
「それがアレクシアだというのか?」
「はい、父上。これが大聖女エリーズが私に告げた神託です!」
「そんなもの言いがかりです!」
たまらず、デルマが叫んだ。だめ、と制止しようとしたが、彼女は遮るように言葉を続けた。
「アレクシア様がどれほどあなたの政務を引き受けてきたか、知らない筈がないでしょう! それによりこの国がどのような恩恵を受けてきたのか、皆様も承知でしょう! それを、彼女が悪魔と契約したと? そのような誹り、アレクシア様の従者として見過ごせません!」
「口を慎めヤトルカ人!」
ヨナーシュが吐き捨てれば、デルマの顔が引きつった。明らかな侮蔑に、怒りと恥辱がない交ぜになった感情を彼女は隠そうとしなかったが、それでも彼女は握りしめた拳を王太子に振り上げない理性を保っていた。
そしてデルマ、とアレクシアがもう一度呼べばすぐに、感情を押し込め、口を閉じてなおアレクシアの傍らに侍ったのだった。
「そうだ……この女が常人では捌ききれない量の仕事を、顔色一つ変えずにこなしていたのはまさに悪魔の力を借りていた証拠だ! そうだろう、アレクシア! お前はオレの仕事を奪い、こんなことは片手間でできると嘲笑っていたわけだ……毒婦め……」
ぶつぶつと忌ま忌ましげに呟くヨナーシュを前に、アレクシアの顔からは血の気が失せていた。彼は正気なのか? 何故そんな考えに至った? どこで私は彼への接し方を間違えた? 思考が堂々巡り、しかし一つだけ、確かな確信があった。
「…………私は、悪魔と契約したことはございません。全て、未熟ながらも私の裁量により政務を行っていたと――誓って、宣言いたします」
「あ、アレクシア様、どうか罪をお認めになってください! 神は全てを見通されております! ……あなたが政務の重責に堪えかねて悪魔と契約するに至った苦しみ、私は痛いほど理解できます、だから、どうか罪を償ってください!」
アレクシアに懇願するエリーズは瞳を潤ませている。彼女が悪魔と契約したことに、なんの疑いも持っていないようだった。アレクシアは彼女の言葉に、もはや呆気にとられながら立ち竦んでいたが、ふと我に返り、静まりかえった大聖堂に視線を巡らせた。
皆黙っている。
黙って、恐ろしいものを見るような目で、はたまたこの一連の事件を、奇妙な余興であるような目で、アレクシアを眺めていた。
王と王妃、二人と目が合う。王は目をそらし居心地が悪そうにし、王妃は目を伏せていた。
「たしかに、あの量の仕事を一人でこなすなんておかしいよな……」
誰かは分からないが、呟いた。
それがきっかけだった。確かに、と同意する声が一つ二つ、上がり始めた。
「つまり、あの女は悪魔と契約して不正をしたってこと?」
「本当に大丈夫なのか? 財の横流しの可能性は……」
「そんなこといたしません! 必要ならば帳簿を……!」
「それもどうせごまかしてるのだろう!?」
「彼女が休んでいるところをみたことがない。人間か?」
「どうする?」
「まだ確たる証拠が……」
「しかし神託は絶対……」
「そう、神託は国の根幹だ……疑いなど……」
「ではアレクシアは逮捕……」
貴族たちがこちらを見ている。その奥では民衆が目を輝かせている。
(ああ、もう――)
思わず、一歩後ずさった。
デルマが呻いて、何か悪態をついている。アレクシアには分からない言葉だった。息がうまく出来ない。何か反論を、と頭の中で〝私〟が叫んでいる。
でも、何も、喉が渇ききって、何も。
「もう一つ、彼女が隠す確たる証拠がある!」
ヨナーシュがアレクシアにつかつかと歩み寄る。止めようとしたデルマが、彼の護衛兵に抑えられた。アレクシアは彼が己の身体に手を伸ばすのをただされるがままにしか出来なかった。
彼の手は彼女が身につけていた、彼女の祖母の形見――竜骨で出来た護符を無造作に掴み、奪い取った。
「――……ッ、ヨナーシュ様、それだけは!」
我に返ったアレクシアが叫ぶのを、ヨナーシュはせせら笑った。
やはりか、という確信に満ちた顔で古いそれを高々と掲げ、周囲を見渡した。
「これだ。これが、証拠だ。彼女は祖母の形見だと言った……しかし私はこのような紋章をみたことがない! 王立図書館の中の書物にも、いっさい記されていない! これはきっと悪魔の紋章に違いない……これこそ、アレクシア・レイデンが悪魔と交わった動かぬ証拠である!」
「違います! 決してそのような――」
アレクシアが止める余地はなかった。ヨナーシュが勝ち誇った顔で剣を抜いたのだ。
奪った護符を床へと落とし、剣の切っ先を突き立てれば、それは容易く砕けた。
アレクシアの顔からは血の気が失せ、耐えきれずその場に崩れ落ちた。目を見開き、大聖堂の床の上で粉々になった祖母の形見を凝視し、力なく呟いた。
「おばあさま……」
――静かなものだった。誰も声を発さず、護符を砕ければ何が起こるかを見守っていた。
しかし彼らの期待に反して、護符から悪魔が飛び出してくるということはない。神や精霊のたぐいも、現れる気配はなかった。
静寂を破ったのはヨナーシュだった。
「……この者を悪魔の誘惑から守ってやれなかったのは、痛恨の極みだ。だからせめて……私自身の手で慈悲のある罰を下そうと思う」
(悪魔と契約した咎で、処刑? 犯してもいない、罪で?)
ようやく導き出した結論に目眩がする。
今から処刑台に? それが償い? それが私がやってきたことへの、報い?
「レイデン家侯爵令嬢アレクシア。悪魔と契約したことへの罰として、火――」
「王都からの追放を命じる」
国王の声が響く。そこにいた全ての者が、彼に眼差しを注いだ。
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