第二十七話 琥珀の中
視界は濁った飴色に覆われていた。纏わり付くそれから逃れようとして手を動かしてみたが、暖かく粘ついたものが自分を捕らえて離さない。息は出来るが苦しい。己を捕らえた糸は、少しずつ、繭のように大きさを増しているようだった。
まるで、樹液に捕らえられた虫がゆっくりと、時間をかけて、琥珀になっていくように。
「――……」
アレクシアは琥珀の中、動けないまま、未だ意識だけはあった。今、デルマはどうなっているのか、自分がどうなってしまうのか、分からない。息は浅く、指先は震える。
怖い。
どうなっているのか分からない。動けない。狭い。出られない。
出して。
か細い声も、自分しか聞こえない。腕も脚も、もう動かなかった。
助けて。
恐怖で思考がかき乱される。
――アレクシアは、記憶を呼び起こされていた。
乗馬鞭に手を打たれ、痛みにアレクシアは息を呑んだ。零れそうになる涙を見せないように俯き、ごめんなさい、と小さな声を震わせれば、父が大きなため息を吐く音が聞こえた。
「何故このような事も出来んのだ!」
苛立ち混じりの声に叱責され、アレクシアは小さな身を竦ませ、そろりと視線を彷徨わせた。乗馬鞭を片手に、怒りで顔を染めながら見下ろしてくる父。
それを冷ややかに、それでいてどこか面白そうに眺める、臨月の母。
興味がないのか、無表情で立つ先生。
皆、アレクシアを見つめているが、その眼差しはアレクシアにとって、苦痛だった。
震える声で、許しを請う。
「ごめんなさい、おとうさま、もういちどやります」
「もういい、何度やっても同じだ! 来い!」
腕を掴まれ引っ張られる。アレクシアははっとした顔をさせ、父を見た。こちらを一瞥すらせずに、父は腕を引き、アレクシアを部屋から引きずり出した。
――あそこはいや!
父が自分をどこに連れて行くかを悟り、アレクシアは一瞬、抵抗しようと力を込めた。しかしすぐに、父の手は強く、アレクシアの腕を握り咎める。
「ごめんなさい! つぎはじょうずにします! だから、あそこにはつれていかないで!」
「黙れ! お前に拒否する権利などない!」
「ごめんなさい、おとうさま、ゆるして、ゆるしてください!」
泣き叫びながら、懇願する。しかし父はやはり、こちらを見なかった。長い廊下を抜け、裏庭へ出る。もう日が暮れて、あたりは真っ暗だった。
「おばあさま……!」
恐怖に思わず、祖母の名を呼んだ。父の怒声と共に、地面に引き倒される。ヒュン、と乗馬鞭が風を切る音と共に背中や肩に痛みが走り、アレクシアは泣きじゃくった。すぐに身体を持ち上げられ、しばらく運ばれたかと思えば、暗がりに放り込まれた。
「一晩そこで過ごせ! お前に何が足りないのか、しっかりと考えなさい!」
「いや! いかないで、とじこめないで、おとうさま! アレクシアはちゃんとやりますから……!」
アレクシアが声をあげ、叫ぶ。嫌な音を立てて、小さな鉄の扉が閉じれば、少女の身を闇が包んだ。
暗い。せまい。
「おとうさま、いかないで……!」
「うるさい!」
鉄の扉を叩きながらアレクシアが泣き叫べば、ガン、と外から扉を叩かれ、恐怖に口を閉ざした。
もはや息が掠れる音しかしない。もう使われていない古い焼却窯。アレクシアが失敗すれば、いつも両親はそこに彼女を閉じ込めた。一晩ならまだいい。彼らの機嫌が悪いときは、一日、二日、彼女をここに放り込む。
もう使われていないとはいえ、幼い少女を恐怖させるには充分な場所だった。
もし、誰かが間違って火を入れたら?
もし、皆が私のことを忘れて、ずっとここに閉じ込められたら?
「――……たすけて、だれか」
小さなアレクシアは呟いた。誰でもいい。でも誰も来ない。
わたしができなかったから、おとうさまはおこった。わたしがだめだったから。
もっとがんばらなきゃ。しっぱいしないように。だれもおこらないように。
そうしないと、いつかきっとすてられちゃう。
こんどは、ほんとうの、ごみ焼き窯に。
「ごめんなさい、すてないで、アレクシアをすてないで……」
――神託に従い、貴様との婚約破棄を宣言する!
結局。
捨てられてしまったわ。
アレクシアは朦朧とした意識で、ぽつりと呟いた。
最早助けを呼ぶ気力もなかった。琥珀色に満たされながら、微睡みに身を預ける。温かさがどこか心地よい。
「――……シア!」
私を呼ぶ声が聞こえる。扉が叩かれてる音もする。ああ、朝だ。また頑張らなきゃ。
でも、とても眠たい。いっそ、このまま――。
強い衝撃が伝わり、アレクシアはのろりと目を開く。
目の前の視界がひび割れた。そこから光が差し込んできて、眩しい。
「アレクシア!」
デルマが、泣きそうな顔でこちらを見ている。腕も身体も傷だらけで、血が流れていて、アレクシアは息を呑んだ。
「今助けますから!」
「デ……ルマ……?」
何度も琥珀が砕ける音を聞きながら、アレクシアはぼんやりとデルマの姿を見ていた。彼女の背後ではあの大蜘蛛がひっくり返っている。あんなにも大きな蜘蛛を狩ったのに、それに見向きもせず、デルマは必死の形相で、目の前の琥珀を山刀で砕いていた。
「…………わたし……大蜘蛛の琥珀に……」
「大丈夫です、もうすぐ……」
デルマの言葉とともに足に衝撃が伝わり、アレクシアはそちらを見た。己の足元からきらきらと琥珀の欠片が砕けて、落ちている。自分の足を拘束した蜘蛛も、砕けていた。
助かったのだ。デルマに助けられた。それだけを理解したまま、呆然としているアレクシアの身体をデルマが無言で起こし、そのまま、抱き寄せられた。
「デルマ、私……」
罪悪感で胸が締め付けられ、言葉を詰まらせればデルマはそっと目を伏せ、頭を下げた。
「……ごめんなさい……あなたを危険な目に遭わせてしまった」
「違うの……デルマ。あなたは、悪くないの……」
低い声で己を責めるデルマに、アレクシアが小さく首を振る。だが、最早言葉にすることも出来ずに、ただ口を閉ざし、デルマの背中を撫でるしかなかった。
(私が、祝福を使えていたら……もっと、役に立てていたら……)
デルマの肩に、額を押しつける。アレクシア様、とデルマが呼ぶ声に、大丈夫、と小さく応えた。
琥珀から助け出されたのに、まだ息がしづらい。ゆっくりと呼吸を整えようとして、アレクシアは身体を震わせ、デルマは黙したまま、その身体を抱いていた。
砕けた琥珀たちが、二人のまわりで冷たく、静かに輝いている。
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