第二十六話 大蜘蛛
大蜘蛛は既にこちらを認めているようである。
己の縄張りに飛び込んできた娘二人を侵入者と見なしたか、それとも自ずから飛び込んできた獲物と捉えているのかは分からないがとにかく、その場で長く鋭い脚先を神経質に動かしていた。複数ある金色の目はきょろきょろと動いて、せわしない。
「さっきの蜘蛛の親かしら……」
「おそらくは。下腹部がほとんど琥珀化している……」
(精霊石の影響かしら……生物の身体を組み替えてしまうほどに強いなんて……)
身を乗り出してよく観察しようとするアレクシアを手で制し、デルマは山刀を前に構える。
「こいつを狩らないことには、オレアード様の形見を取り返せませんよ」
「……そうね。まずはそれが優先――」
アレクシアの言葉が終わらないうちに、大蜘蛛は身を起こした。その巨体に見合わぬ素早さで、天井へと移動する。
そのまま垂れ下がる糸をたぐりよせれば、その先、巻き付く糸から逃れようと藻掻く立派な牡鹿を器用に捕らえ、悠々とその身に牙を突き立て、生きたままその中身を吸い上げていく。
「……」
「……」
二人の目の前に、萎れた皮だけになった牡鹿が落ちてくる。アレクシアが顔を引きつらせ、再び大蜘蛛を見るも、どの目にも感情は見られない。
「下がっていてください。アレクシア様」
「私に出来ること、ある?」
「……もし、私が危なくなっても助けようとしないでください」
デルマが言い残し、地を蹴る。広場の中央に躍りでれば、天井に張り付いたままの大蜘蛛はきろりとその目を動かした。
(まずは落とさないと、届かないな。……牽制で糸を揺らしてみるか?)
大蜘蛛から目をそらさないまま、デルマは小さな投げナイフのいくつかを引き抜き、それを投げつける。狙いを違わずに放たれたものは、やはり前肢に叩き落とされた。ぎしり、と糸が揺れ、デルマははっと目を見開く。
張り巡らされた糸が共鳴するように震え、結晶が擦れ合うような奇妙な音を出すと同時――いくつもの琥珀の刃が天井から降り注ぐ。
「デルマ!」
「ちっ……」
外套を翻し、身を守る。軍用である筈のそれは容易く切り裂かれ、デルマの太腿や腕に浅い傷を作っていく。地面に刺さった琥珀は鋭く光り、獲物の身を裂けなかったことを悔しがっているようだった。
「何か、手立てを見つけなきゃ……!」
いてもたってもいられないとアレクシアが身を乗り出すが、自分が行っても足手まといになるだけだ。せめて、以前のように祝福の力が使えたなら……悔しさに拳を握りながら、大蜘蛛を見据える。せめてあの蜘蛛に関して分かることがあれば――。
大蜘蛛が器用に、一本の足を動かしている。その脚先は琥珀化もしておらず、しかし本来の脚でもなかった。それが糸を撫でるように動く。するとそこから、細い糸が雫のように落ちていく。
「デルマ、それに触れては駄目!」
「!」
糸の雫が地面に落ちた直後は、ぶよぶよと柔らかいようだった。しかしそれがあの牡鹿の皮に触れれば瞬く間に凝固し、鋭い刃をもつ結晶として牡鹿を取り込んでいく。デルマを追い詰めるように、それは次々に落ちてきて、地面を覆っていった。
(楽しんでいるな……?)
降り注ぐ糸を避けながら、デルマはちらと大蜘蛛を見た。その場から全く動かず、脚だけを動かして逃げ惑う獲物を甚振っている。口元を歪め、デルマは思わず悪態をついた。
アレクシアは焦り始めていた。大蜘蛛を倒すどころではない、あの地面に広がる罠をどうにかしなければ、いずれデルマは捕らえられる。
(琥珀で出来た糸だから、普通の蜘蛛の糸よりも硬いはず。でも大蜘蛛は脚で撫でるだけで柔らかく、粘着力の強い糸に変えている……)
そう、脚で撫でるだけで。
糸を撫でる大蜘蛛の脚の動きを見る。素早く、一定だ。撫でたところが、一瞬、赤く光って――。
「熱で赤く……?」
大蜘蛛の下腹部は琥珀化している。無論、そこにある吐糸管も、影響を受けているだろう。その結果が琥珀の性質を持つ糸だとして。
「琥珀は衝撃にも、熱にも弱い……刃を作り出す時には衝撃を加え、罠を作り出す時には脚で摩擦熱を作り出して、糸を柔らかくしている?」
仮説だ。でももしかすると。
「デルマ、火はない!?」
「燃やすんですか!? 流石に墓所を燃やすわけには……」
「熱でもいいわ! 琥珀を溶かす程度の!」
アレクシアの言葉にデルマは懐をまさぐった。小さな石英が指先に触れ、それを取り出す。
「南に座す、焔を言祝ぐ者よ、我に力を与えたもう!」
デルマが石英を山刀の刃に滑らせる。火花を散らしながら黒い刀身が赤熱し、熱を持つ。襲い来る糸を薙げば、光の粒となってそれは霧散した。
「やったわ!」
「……なるほど」
デルマが目を細める。赤熱する山刀をくるりと回し、傍に落ちた罠へと刃を押しつければ瞬く間にそれは蒸発していく。
「アレクシア様、あの巣は同じような素材で出来ていますよね!?」
「ええ、きっとそうよ! だからあの巣を――」
大蜘蛛の金色の目がいっせいにアレクシアへと向けられる。まずい、とデルマがアレクシアに向かって駆け寄ろうとしたが、遅かった。大蜘蛛が巣をつたい、アレクシアの頭上へと移動する。
「あ……」
「逃げて!」
デルマの悲鳴に近い叫びを聞きながら、アレクシアは目の前の大蜘蛛を呆然と眺めた。一歩、後ずさろうとすれば足に痛みが走る。弾かれるように足元を見れば、琥珀の蜘蛛が数体、アレクシアの足にがっしりと縋り付いていた。
「……――」
ひゅ、と喉が鳴る。糸を擦る音が頭上で響くのを聞いて、アレクシアはのろりと顔をあげた。溶かした飴のような雫が降ってくる。それは彼女の肩口にあたり、ぱきん、と綺麗な音を立てた。
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