第二十五話 山の奥へ
なに、ちょっとした遣いだ。泉のあるじたるナーガはそう言った。
「かなり歩いたと思うのだけど、まだ着かないのかしら……」
木々の合間から見える太陽をちらと見上げ、アレクシアは呟いた。泉で一夜を明かし、朝早くからデルマと出発して数時間が経っている。
「ナーガ様の話ではもう少しだと思います。……それに、先ほどから強い気配を感じるので」
「デルマが言うなら、もうちょっと頑張れるわね」
ドリアードの出した条件――。山の最奥にあるオレアードの墓所から、彼女の形見をとってくること。二人はそれを求め、朝早くから山奥への登山を決行している。
「サーラも心細いはずよ」
「ナーガ様とドリアード様とともにいるので、伴うより安全でしょう。彼女が彼らに失礼を働かなければいいのですが」
「きっと大丈夫よ。お二人も村の娘に酷いことはしないわ」
サーラは泉で待ってもらうことにした。というのも、ナーガが言うには山奥は少々危険だからだ。守りきれるか分からないとデルマがサーラにここで待っているようにと告げれば、サーラは不服そうな顔をさせたが、ナーガの説得で頷いたのだった。
いっそう深くなっていく緑は、麓の水涸れなど関係ないと言いたげに繁り、午前にも関わらず周囲を薄暗くしていた。ナーガがあの泉に住みながら、しっかりと管理しているのだろう。だがこのままではこの山にも累が及ぶ。そうなる前に、問題を解決しなければならない。
「オレアード様の形見は琥珀だって言っていた……」
「おそらく、精霊石のことでしょう」
「デルマ、知っているの?」
アレクシアの問いに、デルマははい、と応えた。自然や精霊の事に関しては、ヤトルカ人であるデルマのほうが知識は深い。
「精霊がこの世界に生まれるとき、共に発生する結晶のことです。精霊の成長と共にそれは万物素を蓄え、やがて強力な宝玉になる。精霊が死ねば……その宝玉だけがその場に残り、周囲を豊かにし、新たな精霊が生まれる素地を作る」
「つまり、山奥がこんなにも緑が生い茂っているのは……」
「ナーガ様のご尽力もありましょうが、恐らく精霊石の影響もあるかと」
警戒を怠らずに、デルマは先行している。その後ろをアレクシアがついていく。どこかから垂れ下がる蜘蛛の糸を手でどかしながら、アレクシアはぽつりと呟いた。
「どうしてドリアード様は、今までお母様であるオレアード様の形見を彼女の墓所に放っておいたのかしら? それがあれば山の麓も――」
「止まって」
デルマの低い声にアレクシアは口を閉ざした。歩みを止めたデルマが、前方をじっと見据えている。その肩先から覗き込めば、アレクシアははっと息を呑んだ。
木々に、蜘蛛の巣が張り巡らされている。一つや二つではない、まるで白いヴェールを被せたかのように、枝を覆っているのが見えた。
「……」
「……警戒を」
デルマが太腿の山刀を抜くのを見やり、アレクシアは無言で頷く。自然と息が潜まり、二人は今までよりも歩みを遅め、更に奥へ。
進むほどに、蜘蛛の巣は多くなっていく。もはやそれが木の葉そのものになっているように見えた。枝からぶら下がる白い塊から、鹿の角が飛び出している。山翡翠の羽根はいくつも巣に張り付き、まるで巣を飾っているようである。
「…………?」
アレクシアがそっと目を細める。蜘蛛の巣、糸が妙に輝いて見えたのだ。朝露に濡れて輝くようなものではない、薄暗がりの中で僅かな光りを孕んで輝いている。それが奇妙で、傍に垂れ下がる蜘蛛の糸に触れようと手を伸ばし――。
ぼとっ
「きゃ…………!」
落ちてきたものに悲鳴を上げかけ、慌てて手を塞ぐ。目の前に落ちてきたそれはアレクシアの足元でごそごそと蠢いている。蜘蛛。手のひらほどの大きさの、奇妙な蜘蛛だ。微かに透き通って、まるで琥珀で出来たような身体をしている。
「こんな蜘蛛……見たことないわ……」
興味をそそられ、アレクシアは屈んでそれをまじまじと眺めた。蜘蛛の脚は脆いらしく、落ちた拍子にいくつかが折れてしまっている。その一本を拾い上げれば、まだそれはぴくぴくと動いていた。
「……琥珀ね。でも魔術で作り上げた魔造生物じゃない……」
新種、という言葉が頭に浮かぶ。いや、今はそれどころじゃないと打ち消しながら、アレクシアは脚を丁寧に検分した。これは、生き物なのだろうか。生きた個体を捕まえられれば、分かるかもしれない。知っているもので近いのは、魔石の産出地として名高いネグロ・カスカタに生息する生物だろうか。あれは魔石と共生する生き物が多く――。
「アレクシア様!」
デルマの鋭い声にはっと我に返る。違和感に足元を見れば、ごそごそ、ごそごそ、と小さな蜘蛛たちが蠢いている。どれも同じように、琥珀の身体を持っているではないか。口元を引きつらせると、今度は目の前の草むらが、揺れた。子鹿――ほどの、蜘蛛の脚。
「あ……!」
驚いて思わず手にした脚を落とす。ぱきん、と澄んだ音を立ててそれが砕け散ったのが、合図だった。
「走って!」
デルマがアレクシアの腕を掴み、走り出すと同時、草むらからそれらが飛び出してきた。獲物を捕らえることに失敗し、しかしなおも追いかけてくる。
「あれ、なに!?」
「蜘蛛です」
「どこに逃げる?」
「追いつかれないように。でもこのままだと――」
デルマが走りながら、太い木の枝を山刀で切り落とす。それが蜘蛛への足止めになったが、長くは保たないだろう。
「このままだと、奥よ……!」
「ええ、私たちはどうやら罠に嵌められたのかもしれませんね」
「なにがちょっとした遣いなのかしら!」
「それについてはナーガ様にあとでしっかりと説明していただきましょう!」
まったくね、とアレクシアは息を切らせながら走る。デルマはまだ余裕があるらしく、木の枝を落として妨害を作りながら、アレクシアを庇うように走った。
(こういうときに祝福が使えれば……!)
もどかしさに唇を噛みながら、駆ける。不意に目の前が開けていくのが見えた。オレアードの墓所、頭に過る。
「…………!」
木々を抜ける。広場、そう思った。
琥珀色の糸が、まるで天蓋のように張り巡らされている。その天井から垂れる糸には牡鹿の屍体がぶら下がり、骨を剥き出しにしている。いくつかある獲物たちの末路に、アレクシアは思わずよろめいた。
「……」
最奥に座すそれと目が合う。どの目とあったのかは分からない。それは、集落の家ほどの大きさがあった。黒い頭に金色の瞳が無数に嵌められている。脚も黒く、木のような太さだ。その先端は琥珀で出来ている。
言葉を失い、アレクシアはそれを、巨大な蜘蛛をじっと見つめた。奇妙だ。腹部が、琥珀で出来たように半透明になって、輝いている。
「精霊石を、取り込んでいる……?」
デルマが、引きつった声を零した。
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