不快な残り香
翌朝から城の中は、王太子を迎える準備で慌ただしくなった。
いくら公式ではなく私的な来訪とは言っても、それが王族となれば、抜かりがあってはならない。モルガンの助けを借りながら、使用人たちに命じて貴賓室の家具や内装を整える。また、滞在中の各食事のメニューをあらかた決めたら、質のいい食材の調達を指示した。
だが、この忙しさが、私にはとてもありがたい。ノルマンが仇として憎んでいるあの精霊の話について、私はまだ何の解決策も見出せずにいたからだ。
そんな中で、ノルマンとまともに顔を合わせるのが怖かった。殺したいとまでの憎しみを語る人に、返す言葉をいまだまったく見つけられずにいる。
ノルマンはジュールと共に、殿下の領内に入ってからモントロー城に至るまでの経路と、城の警備の確認を念入りにするために飛び回っている。
ノルマンに同行することを言いつけられたジュールは、素直に喜んでいた。大事な任務を命じられて、兄に信頼され、騎士団の一員として認められていることが確信できたからだろう。おかげで私は、ノルマンと顔を合わせることなくすんでいた。
貴賓室のある二階の調度を確認していると、モルガンに声をかけられた。
「お嬢様、晩餐室の絵画ですが、この際、別のものに替えてはいかがでしょう。先代公爵様が王室から下賜された、モントロー領の領都を描いた風景画がございますよ。当時の国王陛下が、魔物の襲撃によって一度は壊滅的に荒廃した領都を見事に復興させた公爵家に感嘆して、王室画家をわざわざこの地に派遣して描かせたものだと伝わっております」
「それはいいわね。でも、それは私ではなく……ノルマン様にお許しをいただかないといけないのではないかしら?」
その名を口にして、胸の奥がちくりと痛む。
「いいえ、公爵様は何事もお嬢様の指示に従うようにと仰せになられました。ですから、お嬢様が決めてよろしいのですよ」
「そう……。でしたら、これまで掛けられていた絵画も良いものでしたが、王室ゆかりのそんな素敵な謂れのある絵画があるなら、この機にかけ替えましょう。時には部屋の絵画を替えて、雰囲気を一新することも必要ですよね」
「承知いたしました。では、宝物庫から運んでまいりますね。お嬢様はお先に晩餐室の調度をご確認ください」
「わかりました。では、先に降りていますね」
モルガンのアドバイスはいつも適格だ。宝物庫に向かうモルガンの背中を見送りながら、心の中で感謝をつぶやく。頼れる執事なしでは、こんな広大な城を隅々まで管理するのは無理な話だ。
そして一階にある晩餐室に向かおうと、階段の手すりに手をかけた時、背後に立つ人の気配がした。同時に鼻を突いた、強い香水の香り。その主を確かめようと振り向くより早く、背中を強く押された。
――えっ?
踏みしめるものを見失った足元が虚しくふわりと空を切る。
(落ちる!)
全身を床に叩きつけられる痛みを予期して、両目を固く瞑る。だが、痛みが訪れることはなかった。
「ディア! 大丈夫か!」
「……ノルマン様」
力強い腕に抱えられている安心感で、痛みの恐怖に強張った全身から力が抜ける。床に落ちる寸前で受け止めてくれたのだ。この瞬間に、気まずいものでしかなかった気持ちが、ふと緩む。
「ありがとうございます……とんだお見苦しいところを」
「何を……そんなことより、怪我はないか?」
ノルマンの腕から丁寧に床に下ろしてもらった私は、その場に立ち上がろうとして、ぐらりとバランスを崩した。同時に片方の足首に、ぴりっとした痛みが走る。
「無理をしてはいけない。落ちる拍子に、こちらの足をひねったようだな」
「はい……。実は、誰かに背中を押されました」
ノルマンが眉をピクリと動かした。
「使用人のふりをした潜入者がいるようだな」
険しい顔をしたノルマンのつぶやきに、そばにいたジュールが黙ってうなずいた。
ジュールの指示で、近くにいた騎士たち数人が邸の中に散っていく。
ノルマンが、ひょいと私を横抱きにした。
「部屋に戻って、手当をしないと」
「あの……肩を貸していただければ、自分で歩いて行けますから」
「いや、まだあなたを狙う者が潜んでいるから、俺が連れて行く」
確かに、私の背中を押した犯人はわかっていない。あの状況では、偶然や単なる手違いとはとても思えないし、あの場から姿を消したこともからして故意であることは確実。
(あの香水……)
ノルマンに抱えられている自分の姿に気恥ずかしさを感じながらも、あれと同じ匂いをどこで嗅いだことがあったのかを思い出そうと、記憶をたどる。
「さあ、痛む足を出してください」
部屋に着くと、ノルマンの腕から長椅子にそっと腰掛けるように下ろされた。言われてドレスの裾を少し引くと、顕わになった足首が腫れている。
ノルマンは、私たちの後を追うようにやって来たカーラから薬と包帯を受け取ると、私の足元に跪くようにして、手際よく私の足首に患部を冷やす軟膏を塗り、器用に包帯を巻いた。
「申し訳ないです……ノルマン様にそんなことをさせてしまって」
「気にすることはない。当然のことだ。ディアが痛みを感じることが、俺には許せないから」
ノルマンは、本当に優しい人だ。いつでも言葉の端々に、決して上辺だけではなく、本心からの思いが滲んでいる。揺らがない真実を伝える人なのだ。
そんな人だとわかっているからこそ、打ち明けられずにいる秘密を持つ自分は、常に鋭い剣の切っ先を突き付けられているかのようで辛くなる。
「これでいいだろう? どうだ、少しは痛みが引いてきたか?」
「はい。お騒がせいたしました」
「ところで、背中を押した奴を見たか?」
「いえ……気配がしたと思った時には、すでに落ちていましたので。ですが……きつい香水の香りがしました。その者がつけていたのだと思います。その匂いを以前に嗅いだことがある気がしているんです。女性用の香水には違いないんですが、どこでだったか……」
とにかく、私にとってはふだん嗅ぎ慣れない、いささか不快に感じる匂いだ。その不快さゆえに、記憶の端に棘のように引っかかって残っている。
考え込んだ私の肩に、ノルマンが手を置いた。
「今は無理しなくていい。思い出したら、話してくれ」
私は「はい」と返事して、記憶をゆっくり手繰り寄せることにした。




