妖しいワインをどうぞ
宝物庫に向かっていたモルガンは、階下が急に騒がしくなったのに気づいて立ち止まった。
さっきディアと別れた階段ホールに戻ろうと振り返ると、メイドが一人、地下の厨房へと続く使用人専用の階段を駆け下りていくのが見えた。
気になって後を追ったが、その階段で地下まで降りてはみたものの、そこに姿はない。
(あんな髪の長いメイドがいたか?)
後ろ姿しか見なかったが、メイドの髪は、腰にまで達していた。
あんなに長い髪をまとめずにいれば、仕事がしづらいに違いない。だからこの城で働くメイドや侍女、下働きの女性たちは皆、髪を背中の半ばあたりまでに短くしているか、髪を長く伸ばしている者なら、一つに束ねて器用に結い上げてまとめている。あんな長い髪をそのままにしているのは、貴族令嬢か、街の娼館の女たちくらい。
併せて、使用人用の薄暗い階段を降りる時に感じた、そこに漂うに似つかわしくない香水の香り。本人が立ち去った後にまで香りが残るほどきつい香水をつけた使用人など、ここにはいないはずだ。
(傍系の家門の者か? 城内を嗅ぎまわっているのか?)
ならばこれを見逃すことはできない。
モルガンは報告のため、主君の姿を探しに行った。
◆◆◆
ノルマンの迅速な手当のおかげで、足首の痛みはほどなくしてほとんど引いた。
立ち上がると、まだ鈍い痛みが残るものの、歩くのに不自由はない。
そんな私に、カーラがしみじみと言う。
「公爵様は、本当にお優しいですね。手ずからお嬢様の手当をしてくださるなんて」
見ていて微笑ましい光景でしたよ、と続けたカーラに、心なしか顔が熱くなる。
「ええ、そうね。本当に優しくていい人よね」
そうだ、きっとノルマンなら、私の言うことに耳を傾けてくれるだろう。今回の王太子殿下のもてなしがすんで、王都に発たれた後、落ち着いたところでノルマンに正直に打ち明けよう。
ノルマンは真剣に話を聞いてくれるはずだ。あの人とは違う……。
ロベルに裏切られた幾度もの光景が、脳裏に浮かんでくる。その記憶の一つに、思い出したこと。
(あっ! いや、まさか……)
「カーラ、ノルマン様のところに行ってくるわ。お伝えしないといけないことがあるの」
探していた不快さが明らかになった。
◆◆◆
ノルマンの執務室に行くと、その扉の前にはジュールがいた。近くにステファン卿とモルガンも控えている。
ジュールは執務室の扉にほんのわずかに開いた隙間に耳を当て、横目で中の様子をうかがっている。
私に気づいたジュールは、そっと唇の前に人差し指を立て、音を立てないようにと合図した。
モルガンが、私に耳打ちする。
「怪しいメイドが今ちょうど、執務室にワインを持って入ったのです。自ら姿を現してくれるとは、手間が省けました」
まあ、どう見てもメイドというには違和感しかない女ですが、とモルガンが苦笑いした。
この城では、ワインが保管されている食糧庫の扉は二人の兵士に護られていたし、入室できる者は決められている。許された者以外の不審者が侵入したら、すぐにノルマンやジュール、執事のモルガンに知らせが行くようになっていた。食材に毒物が混ぜられることを防ぐ自衛の策だ。ここまでの警戒は、平穏な王都の貴族の屋敷では考えもしないだろうが、国境に接する領地ではごく当然のことともいえる。
しかも今は、王族の来訪を控えて、城を挙げて常よりも警戒のレベルを上げている。そんな折に食糧庫に現れた初めて見るメイドに、その扉を護る兵士は顔を見合わせた。
暗黙の了解のうちに、一人の兵士が何食わぬ顔でメイドを食糧庫の中へと案内し、監視を悟られないように他愛のない雑談で時間を稼ぐ。その間にもう一人の兵士は、主君たちへと知らせに向かった。
「ノルマン様もすでにご承知の上ですから、ご安心を」
ジュールに無言のまま手招きされて、私も扉の隙間を覗いてみる。そこにいたメイドは、後ろ姿でもわかる、予想通りの人物。
(レイラ!)
声に出そうになって、ひゅっと息を呑む。
中では、ノルマンが冷たい声でメイドに言った。
「それは何だ、と聞いているんだが? 答えろ」
表情は険しく、詰問するかのような口調だ。
「えーと……公爵様がお疲れのようだったので、寝る前にワインが必要かなーと思いまして」
メイドにしては、主人に対して無礼にしか聞こえない話し方。
レイラはソードマスターが放つ、この殺気立った空気が読めないのか、はたまたわざと読まずにいるのか、王都にいる令息たちと会話するかのような甘ったるい声で言った。
「誰が俺にワインを持って行けと、お前に頼んだんだ?」
「あ、その……サルグミン嬢ですよぉ」
「ふうん……」
この城の使用人たちは、誰一人として私をサルグミン嬢とは呼ばない。ノルマンとの結婚がまだなので、あえてお嬢様と呼ぶようにと、モルガンが徹底してくれているのだ。
しかも、ノルマンは社交以外ではワインを口にしない。この地は、呑気に酔っていられる王都とは違う。いつ何時、魔物の襲来の報せがあり、討伐に出ることになるかは知れない。だから、寝る前に飲むのはお茶だ。
最近ノルマンは、疲れをとるためにと私がブレンドしたお茶しか飲まない。だから、彼女の言葉は不可解なことばかりなのだ。
ノルマンの瞳が蔑むような光を帯びる。
「ワインは不要だ。だが、せっかくお前がここまで運んできてくれたものだ。それはお前にやろう。捨てるのは忍びないからな。有難く、今ここで飲み干すといい」
「あ? いえ、ちょっと……私は……」
途端にレイラは、わかりやすすぎるほど狼狽えた。
「どうした? 主君の命令が聞けないというのか? この城に、俺の命じたことを聞かない使用人はいないはずだが」
「あ、ええと……そういうわけではなく……」
ワインのグラスを掴んだノルマンが、彼女の鼻先にそれを突き付けた。
「さあ、飲め!」
気迫に押されて後ずさるレイラは、さらに追い詰められる。
「ほら、どうした? 飲めない理由があるのか?」
「あ、あの、お許しを……」
がくがくと体を震わせながら、レイラは崩れ落ちるようにぺたりと床に座り込んだ。
「お前は、レイラ・クレモだったな。お前は俺が冷血公爵と呼ばれているのを知らないようだ。俺には、そう呼ばれるに値する理由があるんだがな。ジュール! ステファン!」
呼ばれてジュールは、この時を待っていたとばかりに扉を乱暴に押し開いた。その表情は明らかに楽しそうに笑っている……。
二人は執務室に踏み込むなり、メイド姿のレイラに抜き身の剣を突き付けた。ステファンはレイラの両腕を背中でねじりあげるように掴んで、床に這いつくばるように跪かせる。
レイラの醜く歪んだ表情に、ジュールは楽しげな表情を隠さない。
「あんた、義姉上を突き落とした奴だろ?」
「し、知らないわよっ!」
「しらばっくれても無駄なんだよねー。で、今度は兄上に何を飲ませようとしたのかな? 毒かなー? ねえ、どうなの? 教えてよー」
ふざけた調子で歌うように言いながら、下ろした剣をレイラの目の前の床にぐさりと突き立てる。煽るように顔をわざわざ近づけるジュールに、レイラはぷいっと横を向いた。
「あのさー、これが毒だったら、あんたは高位貴族の当主を殺そうとした罪で、即刻処刑だよ。今、この場でね。公爵家にはその権限があるんだって、知ってる? あー、あんた、頭悪いから、知らないかなー?」
「ち、違うわよ! 毒なんかじゃないって!」
「へえー。毒じゃないって言うなら、飲めるよね? 飲めないんなら、これは毒ってことで決まりね。で、あんたはここで死ぬんだね」
ジュールが剣を握り直すと、切れ味よく磨かれた剣身がぎらりと光る。
その言葉が張ったりではなく真実だと悟ったレイラは、青ざめた顔で差し出されたグラスを掴んだ。
「わ、わかったわよ……飲めば、いいん、でしょ……。毒じゃないんだからっ!」
ぐいっと勢いよく、グラスの中の赤いワインが飲み干された。




