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第35話∶龍が死んだ日


朝の冷たい空気が森に満ちている。


庵の中で茶を淹れながら、私は小さく息をついた。


もう十分すぎるほど生きた命だと分かってはいた。

だが、まさかこんなに早く"その時"が来るとは。


「ルーベンス、お前に頼みがある」


火を焚いていた男が顔を上げる。


「……なんだ?」


「アズィールの水汲みを手伝ってやってほしい」


彼は少し眉をひそめたが、反論するでもなく「わかった」とだけ言って立ち上がる。


アズィールもまた、何か言いたげな顔だったが、私の意図を悟ったのか黙って水桶を手に取った。

庵を出る二人の背中を見送りながら、私はゆっくりと目を細める。


「お前の"幸運"は、あの男にこそ必要だろう」


アズィールは足を止め、不機嫌そうに振り向く。


「私は誰とも契約なんかしない」


相変わらず強情な娘だ。


「ずっとグレイスとここで暮らすんだから」


そう言い捨て、ルーベンスと共に森の奥へと歩いていく。


私はその後ろ姿を見つめながら、声にならない言葉を落とした。


「幸せにおなり、アズィール」


そして、静かに視線を転じる。


庵の入り口には、漆黒の衣を纏った男が立っていた。


狂気を孕んだ真紅の瞳。

口元に浮かぶ歪んだ笑み。


「見つけたぞ、龍よ」


魔族・ザハールが、まるで待ちわびたかのように囁いた。


---


血の匂いが、鼻を刺す。


グレイスは荒く息をしながら目の前の捕食者を見た。


「……なるほどな」


ザハールが口元を歪める。


「貴様ほどの龍が、こんな森の中で朽ち果てようとはな」


「この世に永遠はない。龍であろうと、な」


「ほう……」


ザハールは愉快そうに舌を舐める。


「だが、その血はまだ生きている」


グレイスは静かに目を開けた。


「それが、お前の選んだ未来か」


「言い残すことはそれだけか?」


「……いや、もう一つだけ」


グレイスはふっと微笑む。


「魔族よ、お前の思い通りにはならんよ」


その瞬間、庵の壁が血に染まった。



---


──龍が死んだ


帝国の商業ギルド長の屋敷。


それまでキースの肩でくつろいでいたレギオンが、突然咆哮した。


ディアナやナディア、セツが驚いて駆け寄る。


「どうしたの!? レギオン?」


レギオンは苦しげに羽ばたき、キースにしがみつく。


キースは、抱きしめるようにレギオンを腕に収めると、震える声で言った。


涙が溢れて止まらない。これは……?


「龍が……死んだ……?」


---


水を汲もうとしていたアズィールが、ピクリと動きを止めた。


「……?」


彼女の金色の瞳が大きく見開かれる。


水桶が地面に落ち、冷たい水が零れた。


次の瞬間、アズィールは庵へ向かって駆け出していた。


(まさか……)


俺の背筋に冷たいものが走る。


この感覚は、知っている。


(──ザハール!)


くそ……!


すぐに追いかけると、庵の扉は開け放たれ、中は荒れ果てていた。

床や壁に飛び散る鮮血。


──終わっていた。


アズィールは呆然と立ち尽くし、震える声を漏らす。


「グレイス……嘘……いやだ……」


俺の中に込み上げる嫌悪感と、焼けつくような怒り。


(……俺は、何をした?)


エルヴァントの血は龍に愛される。 

故にお前なら龍を見つけられる、そうザハールは言っていた。

俺は結果的に龍のもとへ魔族を招いてしまった。


血まみれの壁が、かつての自分の屋敷と重なる。


(セシル──)


"お前のせいで俺は死んだ"


違う。あいつはそんなことは言わない。


だが、心の奥に抉り込んだ感情は消えていなかった。


アズィールが振り返り、怒りと悲しみに満ちた目で俺を睨みつける。

「お前は……エルヴァントじゃないのか!!」


その言葉が、胸の奥を鋭くえぐった。


何かが崩れる音がする。

いや、それは 外の世界の音ではなく、自分の中から響いた音だった。


(違う……俺は……)


脳裏に、赤黒い光景がフラッシュバックする。

ーー血まみれの壁。

ーー背中から貫かれたセシル。

ーー光を失った鳶色の瞳。


(また、だ……!)


呼吸が浅くなる。体の芯が冷たくなり、視界が滲んだ。


「その名前を口にするな……!」


呻くように言った瞬間、意識が引きずり込まれる。


"エルヴァントの王子よ"


背筋に寒気が走る。


視界の端で、人影が揺らぐ。


(……やめろ……)


"お前のせいで"


(違う!!)


──目の前にいるのは、セシルだった。


血まみれの姿で、怨嗟の目を向けている。


「ルーベンス、お前が……」


その瞬間、猛烈な頭痛に襲われ、俺の膝が崩れた。


―――


目を覚ますと、粗末な天井が見えた。


「目が覚めたか」


低い声がする。


顔を横に向けると、アズィールがいた。


泣き腫らした瞳で、険しく俺を見下ろしていた。


「お前はもうこの森から出て行け」


言い捨てるような声。


だが、俺は静かに言った。


「ザハールが……今度はお前を狙うはずだ。

アイツは、龍を喰うことしか考えていない」


アズィールは短く息をつくと、俺に背を向ける。


「そう簡単に喰われてたまるか」


それだけ言って、出ていった。


俺は天井を見上げる。


グレイスは、死んだ。


それは、ただの事実。

だが、その事実を飲み込むには、まだ喉が詰まるような感覚がする。


(俺が、ここへ来なければ)


何度考えても、意味のない後悔だった。

だが、それでも、この胸の奥に残る空虚は埋まらない。



足元がまだふらつく俺は、森の中の簡素な庵で、アズィールの世話になっていた。


皮肉な話だ。


「お前、まだ寝てろ」


「ああ?」


「いいから黙ってろ」


無理やり椅子に押し込まれ、渡されたのは温かいスープだった。


口調は刺々しいが、嫌悪は感じられない。


アズィールはふい、とそっぽを向きながら言った。


「どうせ出て行くなら、早く体を治して勝手にしろ」


俺は苦笑しながらスープを口にする。


……悪くない。


ほんの少しだけ、温かかった。


---


森の奥、静寂の中。


魔族・ザハールは、手に付いた血を舐めながら嗤う。


「……さて、次の龍はどう料理してやるか」


夜の闇が、彼を包み込んだ。



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