第33話∶血と王冠
「皇后陛下がお呼びです」
使いの者の言葉に、俺は眉をひそめた。
(皇后が俺をなぜ呼ぶんだ?)
不審に思いながらも、王宮へ向かう。
だが、案内された応接室で待つこと数十分──
侍女が申し訳なさそうに告げた。
「申し訳ございません。皇后様は急用が入り、お会いできなくなりました」
(……なんだと?)
何かがおかしい。
王妃がわざわざ俺を呼びつけておいて、急用?
しかも、応接間まで通しておきながら、顔も見せずに?
嫌な予感がする。
「……わかった。失礼する」
俺は即座に王宮を後にし、馬を飛ばした。
---
屋敷の門が見えた時、俺の心臓がひとつ跳ねる。
門の前に、点々と血が落ちていた。
(……何だ、これは)
胸の奥がざわつく。
嫌な予感が、確信に変わる。
門をくぐると、屋敷の扉が大きく開かれていた。
内装は荒れ果て、調度品は壊され、血が飛び散っている。
俺は無言で剣を抜いた。
(屋敷が……襲撃された……?)
この屋敷にいるのは──
乳母と、セシル。
(まさか……)
俺は駆け出した。
心臓が嫌な鼓動を刻む。
胸の奥が、燃えるように熱い。
何も考えられない。
ただ、セシルの名を叫びたくなる衝動を必死に堪える。
廊下を駆け抜け、広間の扉を蹴破った。
---
視界に入った光景に、俺は足を止める。
広間の中央に、椅子に座る男がいた。
セシルだった。
(無事……か?)
俺は息を詰める。
ゆっくりと近づく。
安堵が胸をよぎった、その瞬間。
光を反射する鋭い刃が、視界の端で閃いた。
セシルの背後から、深々と突き刺さる長剣。
それが何を意味するのか、脳が理解するよりも先に、
俺の喉が無意識に言葉を紡いでいた。
「セ……シル?」
返事はない。
椅子に座る彼の身体は、まるで人形のように動かない。
微動だにしない肩。
焦点の合わない鳶色の瞳。
(嘘……だろ……?)
俺は足を踏み出す。
しかし、膝が震え、思うように前へ進めない。
何か言わなければ。
助けを呼ばなければ。
だが、俺の喉から出たのは、ただのかすれた声だった。
「……セシル?」
何も返らない。
(ああ、違う)
目の前のセシルは、もう何も映していない。
彼は……もう。
俺の足元に、血が広がっていた。
(……っ)
震える手を伸ばし、セシルの肩に触れようとした──
その時、視界の端に乳母の姿が入った。
這うようにして駆け寄る。
だが、乳母はもう動かない。
白い衣の腹部は真紅に染まり、すでに息絶えていた。
彼女の指先は、まるでセシルに手を伸ばすように微かに開かれて。
何かが音を立てて崩れていく。
胸の奥が、軋む。
俺の中にあったものが、"音を立てて崩れた。
---
セシルと乳母を失った日から、俺は変わった。
変わらざるを得なかった。
貴族の派閥に顔を出し、後ろ盾を得る。
そんなこと、今まで興味すらなかった。
だが、この国で生き残るには、"力"がいる。
皇后の手が届かないほどの、確固たる力が。
俺は徹底的に立ち回った。
表向きは王弟として穏やかに振る舞い、
貴族たちと交流を重ね、必要な繋がりを築いていく。
俺を消そうとする者がいるなら、
それ以上の影響力を持つことで、手を出させなくする。
皮肉なことに、俺を排除しようとした兄王と皇后のおかげで、
俺はかつてよりも遥かに強くなった。
そして──
王宮で兄王と顔を合わせるたび、俺の中の刃は研ぎ澄まされていく。
「ルーベンス、最近はずいぶんと貴族たちと親しくしているようだな」
王座に座る兄が、笑みを浮かべて俺を見下ろす。
見下されることなど、とうに慣れた。
「ええ。兄上のためにも、臣下との良好な関係は大切ですから」
穏やかに微笑み、恭しく頭を下げる。
だが、俺の視線はまっすぐ兄を捉えていた。
(レギオンと契約もできん愚王が)
この国は間違っている。
当たり前の幸せすら踏みにじるような、この国は──
(何もかも、消し去ってやりたい)
拳を握る。
静かに、確かに。
今はまだ、その時ではない。
だが、"その日"は必ず来る。
俺は、この国を壊すと決めたのだから。
―――
「王弟殿下はよくご存じでいらっしゃる」
帝国の将軍は鋭い視線を向けながら、ゆっくりと杯を傾けた。
その眼光は、まるで目の前の相手を値踏みするかのような冷たさを孕んでいる。
この男が、帝国の軍事を司る公爵――ラグノフ・ヴァルシュタイン。
帝国軍の最高司令官にして、皇帝の忠実なる猟犬。
数々の戦場を血で塗り替え、帝国の拡大を支えてきた男。
その視線の重みを、俺はまっすぐに受け止める。
余裕を装うことも、媚びることも不要だ。
この男が求めているのは、弱者のへつらいではない。
俺は杯を軽く傾けながら、静かに問いかける。
「狩りはお好きですか?」
ラグノフは一瞬、目を細めた。
不意に差し込まれた問いに、一拍の間が生まれる。
「……なんですと?」
俺は、軽く肩をすくめる。
帝国の将軍ともあろう者なら、俺の言葉の意図を察しているはずだ。
わざと問い返したのは、俺の真意を測っているのだろう。
だが、答えはすでに決まっている。
ゆっくりと、俺は杯の中の琥珀色の液体を揺らしながら、静かに言葉を紡ぐ。
「実は、私はずっと狙っている獲物がいるのですよ」
その言葉を聞いた瞬間、ラグノフの表情が微かに変わった。
単なる貴族の戯言ではないことを理解したのだろう。
ラグノフは杯を置き、背もたれにゆったりと体を預ける。
「……それは、面白い」
低く響いた声が、周囲のざわめきをかき消す。
その瞳が、静かに俺を見据えていた。
俺はゆっくりと視線を向ける。
会場の中心、玉座に座る男を。
「優秀な第二王子をお持ちとは、王もさぞ心強いことでしょう」
そんな言葉を投げかけられたことは、一度や二度ではない。
俺が王になればいい、と吹聴する者は多かった。
だが、それはただの皮肉でしかない。
俺は、こんな国の王にはならない。
だが、狩人にはなれる。
「王弟殿下。機会があれば、共に狩りに出かけましょう」
ラグノフは杯を掲げ、薄く微笑んだ。
俺も静かにグラスを持ち上げる。
「ええ。素晴らしい獲物を仕留められることを、願っておりますよ」
静かな祝杯が交わされる。
この夜を境に、運命の歯車は確実に動き始めた。
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