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『商いは男の仕事だ』と追放された交易令嬢、十年の商売敵と組んで大陸一の交易路を拓く  作者: 歩人


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第8話: 関所のガルニ

 鉄塊は、冷たかった。


 マレーナは荷台の縁に手を置いて、一番上のインゴットに掌を当てた。早春の朝の冷えが、鉄を通して指の腹に染みてくる。荷馬車が三台。鉄塊が満載されている。マルゴーの鉄場から峠を越えてきた、最初の大荷だった。


 戻り始めた隊商頭たちが、この荷に名を連ねていた。ガービンが手配し、ヴィンスの隊商が運んだ。看板を失ったマレーナの、再起の証になる荷だった。


「重いな」


 レオが、隣で言った。荷台を覗き込んで、口の端を上げている。


「ええ」マレーナは言った。「鉄場が、よく出してくれました」


 レオは満足げだった。マレーナも、内心で小さく頷いていた。掌に乗る鉄の冷たさが、心地よかった。十年ぶりの、自分の名で動かす大荷だ。


 あとは、関所を通すだけだった。




 オーレンの関所は、大通りの東のはずれにあった。


 石造りの門の手前に、検めの番屋がある。役人が荷を検め、通関帳に品目と重さを記し、刻印を押す。それで初めて、荷は市に入れる。関税は荷の値の一割ほど。マレーナは銀貨を用意していた。


 番屋の前に、荷馬車を着けた。


 役人が出てきた。痩せた、目の落ち窪んだ男だった。通関帳を抱えている。マレーナは関税の銀貨と、こちらの通関帳を差し出した。


「鉄塊、三十二本」マレーナは言った。「マルゴー鉄場の刻印、入っております。お検めください」


 役人は、帳面を受け取った。


 しばらく、目を走らせていた。それから、顔を上げないまま、言った。


「これは、通せん」




「……通せない?」


 レオが、一歩前に出た。


 役人は、帳面をマレーナに突き返した。


「書式が古い」役人は言った。「刻印が定めと合わん。これでは通せん。検め直しだ。三日は留め置きになる」


「三日」レオの声が、低くなった。「冗談だろう。鉄場の刻印は、いつも通りだ。何度も通してきた書式だぞ」


「定めは、定めだ」


 役人は、それきり、目を逸らした。


 マレーナは、突き返された帳面を見た。マルゴー鉄場の刻印は、いつもの通りだった。何の不備もない。十年、同じ書式で通してきた。


 なのに、留め置き。


 マレーナの指が、腰帯の算盤の縁を、そっと撫でた。




「番屋の奥に、誰かおられますね」


 マレーナは言った。


 役人の肩が、わずかに動いた。


 番屋の奥の、薄暗がりに、人影があった。腰掛けに座って、こちらを見ている。マレーナが目を向けると、その人影が、ゆっくりと立ち上がった。


 恰幅のいい、年嵩の男だった。上等な毛織の外套を着て、指に銀の指輪をいくつもはめている。白髪交じりの髭を撫でながら、番屋を出てきた。


「ガルニだ」


 男は、そう名乗った。


「オーレンの通関を、長く預かっておる」ガルニは言った。「あんたが噂の差配さんか。トルプの看板をなくしたという」


「マレーナと申します」


「ふむ」


 ガルニは、荷馬車の鉄塊を、ちらと見た。


「気の毒だが、書式が古い」ガルニは言った。「定めには従ってもらわんとな。検め直しだ。なに、三日もすれば通る。急ぎならなおさら、丁寧にやらんと」


 言葉だけは、穏やかだった。


 けれど、目は笑っていなかった。




 マレーナは、ガルニを見た。


 握手をしたわけではない。それでも、この男が何を考えているかは、分かった。値の話なら、一手先まで読める。これは、値の話ではないが——読み筋は、同じだった。


 ガルニは、オーレンの通関を長く握ってきた男だ。古参の商人で、役人とも通じている。新参のマレーナとレオが、隊商頭の信を集め、大荷を動かし始めた。それが、面白くない。


 縄張りに、よそ者が入ってきた。それだけのことだった。


「ガルニ殿」マレーナは言った。「この書式の、どこが古いのでしょう」


「刻印の縁取りだ」ガルニは、よどみなく言った。「定めでは、二重の縁取りで囲うことになっておる。あんたの帳面は一重だ。これは旧い。通せん」


「二重の縁取り」


「そうだ」


 マレーナは、帳面の刻印を見た。確かに、縁取りは一重だった。マルゴー鉄場の、いつもの刻印だ。


 レオが、横で舌打ちをしかけた。マレーナは、それを手で、そっと制した。




「レオ殿」マレーナは、小声で言った。「焦らないでください」


「焦るに決まってる」レオも小声で返した。襟の銅貨を指で押さえている。「三日留め置かれたら、隊商の足が止まる。荷夫の日当も護衛の銀も嵩む。何より——」


「隊商頭の信用に、傷がつく」


「ああ」


 レオの言う通りだった。


 戻り始めたばかりの隊商頭たちが、この荷を見ている。マレーナの最初の大荷が、関所で三日止まった。そう聞けば、せっかく戻ってきた者たちが、また迷う。看板を失った差配は、関所一つ越えられないのか、と。


 ガルニは、それを狙っていた。


 日数でも、銀でもない。マレーナの信用に、ひびを入れること。それが、本当の狙いだった。


 マレーナは、もう一度、鉄塊に触れた。


 冷たかった。けれど、その冷たさが、頭を冴えさせた。




 マレーナは、ガルニに向き直った。


「ガルニ殿。一つ、お尋ねします」


「なんだ」


「二重の縁取りが定めだと、いつ決まったのでしょう」


 ガルニの髭を撫でる手が、止まった。


 ほんの一瞬だった。すぐに、また撫で始めた。


「昔からだ」ガルニは言った。「ずっと、そう決まっておる」


「昔から」マレーナは繰り返した。「『ずっと』と仰いますが、それはいつからでしょう」


「……細かいことを聞く女だな」


「商いは、細かいことで決まりますので」


 マレーナは、腰帯から符牒帳を抜いた。


 革の表紙は、十年分の手擦れで角が丸い。マレーナはそれを開いた。指が、迷わず、ある頁を探し当てた。何百という頁の、どこに何が書いてあるかを、彼女は覚えていた。


「十年前の春」マレーナは、頁を指でなぞった。「わたくしは初めてこの関所を通りました。鉄場の刻印は、そのときも一重でした」


 ガルニが、わずかに眉を寄せた。




「いいですか」マレーナは、ゆっくり言った。


 順を追って話さなければ、伝わらない。役人も、隊商頭も、聞いている。誰にでも分かるように、一つずつ、並べる。


「関所の書式は、十一年前まで二重の縁取りでした」


 マレーナは、符牒帳の前の頁を、めくった。


「これが、十一年前の通関の控えです。確かに二重の縁取りで囲ってあります。ガルニ殿の仰る通りです」


 ガルニの目が、その頁に向いた。


「ですが」マレーナは、頁を一枚進めた。「十年前の春、書式が改められました。マルゴー公国と王国の間で通関の取り決めが結び直されたのです。二重の縁取りは煩雑だからと、一重に簡略化されました。——これが、その年の最初の通関の控えです。一重の縁取り。役所の改定の通達も、ここに写してあります」


 マレーナは、符牒帳を、ガルニのほうへ向けた。


 歪みのない、几帳面な字が、頁を埋めていた。十年前の日付。改定の通達。そして、一重の縁取りの、刻印の写し。


「つまり」マレーナは言った。「二重の縁取りは、十年前に廃された旧い書式です。ガルニ殿が『定め』と仰るその書式こそ、今は通らないのです」




 番屋が、静まり返った。


 役人が、痩せた喉を、ごくりと鳴らした。通関帳を抱えた手が、わずかに震えていた。


 ガルニは、何も言わなかった。


 マレーナは、もう一冊、懐から取り出した。古い、紙の束だった。角が手擦れで丸く、紙が黄ばんでいる。


「これは」マレーナは言った。「十年前の通関帳の写しです。改定の年の関所の控え。わたくしが当時、自分で書き写したものです」


 マレーナは、それを卓の上に置いた。


「捨てずに、持っておりました」マレーナは言った。「いつかこういう日が来ると、思っていたわけではありません。ただ——忘れた者から、損をします。だから、わたくしは何も捨てないのです」


 ガルニの髭を撫でる手が、また止まった。


 マレーナは、その手を見ていた。


「十年前の控えと今日の刻印は、同じ書式です。一重の縁取り。何の不備もありません。——ガルニ殿。もし二重の縁取りが定めだと仰るなら、十年前の改定の通達を覆していただかねばなりません。それは役人お一人の裁量では、できますまい」




「…………」


 ガルニは、長いこと、黙っていた。


 白髪交じりの髭を撫でる手は、もう動いていなかった。指の銀の指輪が、薄暗い番屋の中で、鈍く光っている。


 やがて、ガルニは、低く笑った。


「……役人」ガルニは言った。「通せ」


「ですが、ガルニ殿」


「通せと言っておる」


 ガルニの声に、苛立ちが滲んだ。けれど、それを、すぐに飲み込んだ。


 役人は、慌てて通関帳を開いた。鉄塊三十二本、と記し、刻印を押した。一重の縁取りの、いつもの刻印だった。マレーナは、用意していた関税の銀貨を、過不足なく差し出した。


「通っていいぞ」役人が、上ずった声で言った。


 荷馬車が、ゆっくりと、関所の門をくぐり始めた。鉄塊を満載した三台が、軋みながら、石畳を進んでいく。




 ガルニは、その荷を、見送っていた。


「差配さん」


 ガルニが、マレーナを呼び止めた。


「はい」


「あんた、十年前の控えをなぜ持っておった」


「申し上げた通りです」マレーナは言った。「忘れた者から、損をします。それだけのことです」


 ガルニは、ふん、と鼻を鳴らした。


 けれど、その目に、最初の冷たさは、もうなかった。値踏みするような、別の色が、そこにあった。


「……古狸が、若い狐に一本取られたか」


 ガルニは、そう呟いて、番屋の奥へ引っ込んだ。


 憎まれ口だった。けれど、声には、どこか、感心したような響きがあった。マレーナは、それ以上は追わなかった。縄張りに踏み込んだのは、こちらだ。この男は、明日もまた、別の手で来るだろう。今日は、今日のことを通した。それで、十分だった。




 関所を出て、荷馬車のあとを、二人で歩いた。


 日が、傾きかけていた。早春の夕暮れは、まだ早い。関所の篝火に、火が入り始めていた。荷馬車の車軸が、規則正しく軋んでいる。鉄塊の重みで、轍が深く石畳に刻まれていく。


 レオは、しばらく、何も言わなかった。


 それから、ぽつりと、言った。


「……かなわんな」


 マレーナは、横を見た。


 レオは、前を見たまま、襟の銅貨を、指で押さえていた。


「俺は、ガルニに役人を抱き込まれて頭に血が上ってた」レオは言った。「資本で押すか人脈で覆すか、それしか考えてなかった。あの男に貸しのある誰かを探して、明日にでも掛け合うつもりだった」


「それも、一つの手です」


「だが、あんたは」レオは、首を振った。「帳面一冊で片づけた。十年前の控えを、出しただけで」


 レオは、ふっと、息を吐いた。


「俺が銀を積んでる間に、あんたは紙を積んでた」レオは言った。「あの夜、ゴット親方のときもそう思った。値じゃ人は峠を越えん。今日も同じだ。——役人は銀じゃ動かんかった。あんたの十年前の紙が、動かした」




「ハルダー商会の方」マレーナは言った。


「ん」


「焦っておられましたね」


「……ああ」レオは、決まり悪そうに頭を掻いた。「焦ってた。荷が止まれば、隊商頭がまた迷う。そう思ったら落ち着かんかった」


「わたくしも、焦っておりました」


 レオが、マレーナを見た。


「あなたには、見えなかったかもしれませんが」マレーナは、前を見たまま言った。「鉄塊に触れて冷たさを確かめないと、頭が回りませんでした。あの冷たさで、ようやくガルニ殿の根拠そのものを疑えたのです」


「……触ってたな。そういえば」


「触っていないと、わたくしは考えられません」


 マレーナは、淡々と言った。冗談のつもりは、なかった。


 レオは、しばらくマレーナを見て、それから、声を立てて笑った。


「あんたって人は」レオは言った。「本当に、かなわんな」


 その「かなわんな」は、競りの広間で聞いたのとは、違う響きをしていた。マレーナは、それに気づいた。けれど、それが何なのかは、読めなかった。値の話なら、一手先まで読めるのに。




 荷馬車が、大通りの突き当たりへ向かっていく。天秤亭の、欠けた天秤の看板が、夕日を受けて赤く光っていた。


 マレーナは、もう一度、荷台の鉄塊に手を伸ばした。


 冷たかった。けれど、もう、朝のような冷たさではなかった。


 関所を一つ、越えた鉄だった。十年前の紙が、通した鉄だった。掌に乗るその冷たさを、マレーナは、しばらく確かめていた。


 車軸が、軋んだ。


 篝火の火が、鉄の表面に、小さく赤く映っていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第八話、関所が立ちはだかりました。


ガルニは、古狸です。けれど、根っからの悪人ではありません。長く通関を握ってきた男のところへ、新参のマレーナとレオが、隊商頭の信を集めて入ってきた。縄張りに、よそ者が踏み込んできた。だから、嫌がらせで荷を止めた。一片の、人間らしい意地です。


レオは、焦りました。資本で押すか、人脈で覆すか。彼の戦い方は、いつもそれです。間違ってはいません。けれど今日、荷を通したのは、銀でも貸しでもありませんでした。マレーナが、十年前に書き写して、捨てずに持っていた一枚の紙でした。


二重の縁取りは、十年前に廃された旧い書式。ガルニが「定め」だと言い張ったその書式こそ、もう通らないものだった。マレーナは、それを順を追って、誰にでも分かるように並べました。忘れた者から、損をします——彼女が何も捨てないのは、いつかこういう日のためです。


帰り道のレオの「かなわんな」。競りの広間で聞いたのとは、少し違う響きでした。本人も、まだ気づいていません。マレーナも、値なら一手先まで読めるのに、これだけは読めません。


次回、第九話「二人の路」。塩と鉄と毛織の、最初の路が動き出します。


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