第7話: 八枚の約束
その手は、十三歳の冬の手と、同じ温度をしていた。
固くて、塩で荒れていて、痛いほど強い。マレーナの掌が、その握りを読んだ。十年前に初めて握ったときと、何一つ変わっていなかった。
ゴット親方の手だった。
報せから、二日が経っていた。
峠の天気が荒れて、親方の到着が一日遅れた。マレーナは天秤亭の二階で待った。符牒帳を埋めようとして、同じ行を三度書き損じた。
めったにないことだった。
二日目の昼前、階下が騒がしくなった。宿の主人の、上ずった声。マレーナはペンを置いて、窓の外を見た。
大通りの突き当たりに、人影があった。
厚い肩。白いものの混じった短い髭。塩で色の褪せた旅装。供は連れていなかった。ただ一人、峠を越えてきた山の男だった。
マレーナは、階段を下りた。
食堂の入口で、ゴットが立っていた。
顔に、峠の疲れがあった。けれど目だけは、十年前と同じだった。値踏みでも、警戒でもない。ただ、相手を真っ直ぐ見る目だった。
「ゴット親方」
マレーナは言った。
「わざわざ、峠を越えてこられたのですか」
「使いでは、駄目だと思ってな」
ゴットは、訥々と言った。言葉を探しながら話す、いつもの話し方だった。
「文では、伝わらん。わしは、あんたの顔を見に来た」
マレーナは、その言葉を受け止めた。
レオが、卓の端から立ち上がった。けれど、何も言わなかった。これはマレーナの場だと、分かっているらしい。
「ハルダーの若旦那も、おるな」
ゴットは、レオを一瞥した。
「ああ。世話になってる」レオが、軽く頭を下げた。
「ふむ」
ゴットは、それきり、またマレーナに目を戻した。
「座って、休んでください」マレーナは言った。「葡萄酒を温めさせます。二日も峠で——」
「いや」
ゴットは、首を振った。
「先に、聞きたいことがある」
ゴットは、卓のそばまで歩いてきた。塩で荒れた手を、腰の帯に当てている。
「あんたが、商会を出されたと聞いた」
マレーナは、頷いた。
「左様です」
「トルプの看板は、もうあんたのものでない」
「ありません」マレーナは言った。「わたくしには、もう看板はありません」
ゴットは、しばらくマレーナを見ていた。
それから、太い手を、ゆっくりと前へ出した。
「八枚の約束は」ゴットは言った。「まだ、生きているか」
マレーナの掌が、止まった。
八枚の約束。十三歳の冬、初めて結んだ契約だ。塩坑の水が出ても値を叩かない。苦しい年も、八枚で買い続ける。そう約束して、握手を交わした。
あの約束は、トルプ商会のものだった。少なくとも、書類の上では。看板を失った今、約束はもう死んでいてもおかしくない。
「親方」マレーナは言った。「あの契約は、トルプの名で結びました」
「看板の話は、しておらん」
ゴットは、手を引かなかった。
「わしが聞いているのは、あんたの約束だ。あんたが、まだ八枚で買うか。塩坑の水が出ても、値を叩かんか。——それだけだ」
「…………」
「わしが握手したのは」ゴットは言った。「看板でない。あんたの目だ」
マレーナは、その手を見た。
差し出された、塩で荒れた太い手。十年前と同じ手だった。父の手に似ていると、符牒帳の一頁目に書いた手。
あの冬、マレーナは十三だった。帳場に座って三年目。父に「行ってこい」と言われて、一人で峠を越えた。塩坑の親方は、子どもの差配を相手にしなかった。値を叩きに来た商人の列の、その一番後ろに、マレーナは並んだ。
順番が来て、マレーナは「八枚で三年、値を動かしません」と言った。皆が笑った。塩坑の水が出れば塩は跳ね上がる。なのに値を据え置くなど、損をしに来たようなものだと。
ゴットだけが、笑わなかった。マレーナの手を取って、痛いほど強く握った。それが、最初の握手だった。
「親方は」マレーナは、ゆっくり言った。「峠を二日越えて、それを確かめに来られたのですか」
「文では、握手ができん」
ゴットは、当たり前のように言った。
「あんたの手をもう一度握らんと、わしは安心できん。だから来た」
マレーナは、右手を差し出した。
二つの掌が、合わさった。
固かった。塩で荒れていた。痛いほど強く握ってくる。それが、ゴットの信用の試し方だった。逃げる気の手は、こんなに強くは握らない。約束を守る気のある手だけが、こうして握る。
マレーナも、同じだけ握り返した。
「生きています」マレーナは言った。「八枚の約束は、生きています。塩坑の水が出ても、値は動かしません。——わたくしの名で、約束します」
「ふむ」
ゴットの手に、力が籠もった。
「それで、いい」
ゴットは、満足げに頷いた。
「あんたは十三のときから、変わらん。あのときも、こうして握った。塩坑の南壁に水が滲んだ年だ。皆が値を叩きに来た。あんただけが叩かんかった」
「覚えています」
「わしも、覚えとる」
ゴットは、手を離した。マレーナの掌に、その温度が残った。
「看板は、覚えとらん」ゴットは言った。「覚えとるのは、人だけだ。あんたの目と、あんたの握手だけだ」
マレーナは、符牒帳の角を、腰帯の上から押さえた。
十三歳の冬。歪んだ字で書いた、最初の一行。ゴット親方の手は、父上の手に似ていた。——その手が、追放を越えて、もう一度差し出された。
卓の端で、レオが、低く息を吐いた。
「……親方」
レオが言った。
「ん」
「俺が十年欲しかったのは」レオは、襟の銅貨を指で押さえていた。「その握手だ」
ゴットが、レオを見た。
「あんたの握手だ」レオは、マレーナのほうへ顎をしゃくった。「俺は十年、競りでこの人にぶつかってきた。値で殴り合って、勝てなかった。なぜ勝てんか、ずっと分からんかった」
「ふむ」
「今、分かった」レオは言った。「あんたが峠を二日越えてきた。それが答えだ。——値じゃ、人は峠を越えん。この人は、握手を積んでた。俺が値を積んでる間に、ずっと」
ゴットは、しばらくレオを見ていた。
それから、ふっと、口の端を緩めた。
「若旦那。あんた、いい目をしとる」
「親方ほどじゃない」
「いや」ゴットは言った。「値で動く男なら、そんなことは言わん。あんたは、この人を見とる。値でなく、この人を」
レオは、何も言わなかった。ただ、銅貨を押さえる指に、少し力が入った。
ゴットは、葡萄酒の碗を一つだけ受け取って、卓に着いた。
マレーナは、向かいに座った。塩坑の水のこと、今年の塩の出来、隊商の足。商談は、半刻ほど続いた。値の話になると、マレーナの語尾が、わずかに速くなった。ゴットは、それを訥々と受けた。
話が一段落して、ゴットは碗を置いた。
「さて」
ゴットは、腰を上げた。
「峠が荒れる前に、戻る」
「もう、戻られるのですか」マレーナは言った。「一晩、休まれては」
「塩坑が待っとる」ゴットは言った。「わしが二日空けると、坑夫どもが落ち着かん。——確かめたいことは、確かめた。あんたの手は、変わっとらん。それで十分だ」
ゴットは、戸口へ歩いた。
それから、足を止めた。
レオのほうを、振り向いた。
「ハルダーの若旦那」
「ん」
「あんたの父御とは」ゴットは、ぼそりと言った。「古い付き合いだ。ハルダーの父御の代からの、付き合いでな」
レオの指が、襟の銅貨で、止まった。
ほんの一瞬だった。レオの顔から、いつもの砕けた色が、すっと引いた。何かを言いかけて、けれど言わなかった。
「……ああ」
レオは、それだけ言った。
「達者でな」
ゴットは、それ以上は言わなかった。戸口を出て、塩で褪せた背中が、大通りのほうへ遠ざかっていった。供も連れず、来たときと同じように、一人で。
マレーナは、レオの横顔を見た。
いつもの顔に、戻っていた。けれど、戻るまでに、一瞬の間があった。父御の代からの付き合い。その一言に、レオは確かに、何かを過らせた。
「ハルダー商会の方」
マレーナは言った。
「ん」
「親方のお父上と、ご縁が」
「ああ」レオは、襟の銅貨から指を離した。「古い話だ。父の代の。——俺が継ぐ前のことだ」
それきり、レオは口を閉じた。
マレーナは、それ以上は聞かなかった。聞くべきことではないと、なんとなく分かった。値の話なら、一手先まで読める。けれど、この男の過去は、読む筋合いのものではなかった。ただ、頭の隅に、小さく引っかかった。父御の代からの付き合い。——その一言を、なぜか忘れずに、覚えておこうと思った。
「葡萄酒、冷めましたね」マレーナは言った。
「ああ」
レオは、苦笑した。いつものレオだった。
「親方、二日越えてきて半刻で帰ったぞ」
「握手を、確かめに来られたのです」
「……かなわんな」レオは、頭を掻いた。「文一枚で済む話を、足で来る。あんたといい親方といい、握手で商う連中は敵わん」
マレーナは、答えなかった。
ただ、掌に残った温度を、もう一度、確かめていた。
その日から、また、噂が峠を越え始めた。
ゴット親方が、自分の足でオーレンへ来た。使いではなく、塩坑を二日空けて、握手を確かめに来た。——その話は、隊商頭たちの間を、塩より早く駆け抜けた。
親方が、わざわざ峠を越えた。あの無口な山の男が。看板を失った差配のために。
その意味を、隊商頭たちは知っていた。ゴットは、値で動く男ではない。塩坑を空けてまで握手を確かめに来たということは、親方がマレーナを選んだということだ。
翌日、南路の小さな隊商頭が、天秤亭を訪ねてきた。顔合わせには来なかった男だった。「俺も、混ぜてくれんか」と、おずおずと言った。半年前まで、トルプの差配と商っていた男だ。追放の噂を聞いて、一度は離れた。それが、戻ってきた。
その翌日、また一人。塩を扱う仲買が、書状を寄越した。「親方が動いたなら、間違いない」と、短く書いてあった。
また一人。様子を見ていた男たちが、潮が満ちるように、戻ってくる。
マレーナは、符牒帳を開いた。新しい頁に、戻ってきた者の名を、一つずつ書いていった。離れた者を責める一行は、書かなかった。ただ、戻ってきた日付と名前だけを、丁寧に記した。
戻り始めた。一人、また一人と。
符牒帳の角が、掌に食い込んだ。固かった。十三歳の冬に握った太い手の温度が、まだ消えていなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第七話、ゴット親方が、峠を越えてきました。
文一枚で済む話を、二日かけて足で来る。塩坑を空けてまで、握手を確かめに来る。値で動く男なら、しないことです。けれど親方は、値で人を選びません。苦しい年に値を叩かなかったか、それだけで人を量る。だから、看板を失ったマレーナの手を、もう一度握りに来たのです。
八枚の約束は、トルプの名で結ばれました。でも親方が確かめたかったのは、看板ではなく、マレーナの目でした。十三歳の冬に握った手が、変わっていないか。それだけを確かめに、山を下りてきたのです。
レオの「俺が十年欲しかったのは、その握手だ」——値を積み続けた男が、ようやく言葉にした本音です。彼は十年、勝てない理由が分からなかった。親方が峠を越えてきて、その答えが見えました。
そして親方が去り際に落とした、ハルダーの父御との古い縁。レオの顔が、一瞬だけ曇りました。それが何なのかは、まだ書きません。いつか、ちゃんと書きます。
親方が動いた話が、峠を越えて広がっていく。戻り始めた隊商頭が、一人、また一人。次回、その流れの前に、関所が立ちはだかります。
次回、第八話「関所のガルニ」。古い書式の罠を、十年の帳面が破ります。
☆評価・ブクマ・感想をいただけると、次の話を書く手が速くなります。




