第47話: 値のつかぬもの
ダレンの館は、朝から、静かすぎた。
ヴェルナーは、卓の上に、報せの束を置いた。峠から戻って、三日が経っていた。仕立ての外套は、洗わせた。けれど、裾の泥は、まだうっすらと残っていた。
彼は束を一枚ずつめくった。めくるたびに傘下の名が一つずつ欠けていた。
南の鉄商。西の革問屋。葡萄酒の元締め。みな、長年ロッシュ商会の銀で繋いできた者たちだった。その者たちが、銀を返すと書いてきた。あるいは、何も書かずに、ただ取引を止めた。
峠の話は、もう、どこへでも届いていた。総帥が自ら峠の岩陰に立った、と。剣を持たぬ手で、荷を落とせと命じた、と。そして、その剣に、あんたがやればいい、と返された、と。
話は銀よりも速く走った。ヴェルナーが四十年、声を買って撒いてきたのと同じ速さで。
彼は銀貨を弾こうとした。
指が、動かなかった。
峠の朝から、ずっと動かなかった。彼はその銀貨を掌の上に転がしておくだけだった。磨かれた縁が窓の光を鈍く返した。
「総帥」
戸口で、声がした。クナウフだった。銀を返しに来た日から、もう傘下ではない男だった。それでも、まだ来ていた。
「館の者が」クナウフは言った。「半分、いなくなりました」
「半分」ヴェルナーは言った。
「はい」クナウフは言った。「銀蔵の番をしていた者まで」
「番人がか」
「銀を盗らずに、ただ出ていきました」
銀を盗らずに、出ていった。
ヴェルナーは、その言葉を聞いた。四十年、彼は番人を銀で雇った。銀蔵を守るのも銀だった。銀が銀を守った。それが彼の理だった。
その理が今、銀を盗らずに去る者を説明できなかった。
「盗らずに」彼は言った。「なぜだ」
「分かりません」クナウフは言った。「ただ、ここにいると自分まで峠の岩陰の人になる気がしたのでしょう」
ヴェルナーは、窓辺へ寄った。
ダレンの屋根が、朝の光に並んでいた。どの屋根の下にも、かつては彼の銀が回っていた。傘下の商会、雇われた声、買われた剣。みな、彼の蔵から伸びた、銀の糸で繋がっていた。
その糸が切れていた。一本ずつではなかった。峠の朝から、束になって切れていた。
「クナウフ」彼は言った。「お前は、なぜまだ来る」
「銀を、返しに来たついでです」クナウフは言った。「最後の銀を、お納めいたします」
「お前まで、銀の外か」
「いいえ」クナウフは言った。「わたくしは、ただの臆病者です。沈む船から、降りるだけの」
彼は、卓に小さな袋を置いた。それから、頭を下げた。退がるための頭だった。
「待て」ヴェルナーは言った。
クナウフが、止まった。
「あの女は」彼は言った。「まだ、潰れぬか」
「潰れません」クナウフは言った。「むしろ、二人で一つになって前より大きくなりました。峠の荷も、一樽も落ちずに着いたそうです」
「一樽も」
「はい」クナウフは言った。「剣が引いたあと、谷へ落としかけた荷を窪地から引き上げて。——あの女は、荷より人を先に逃がしたそうです。荷はまた組めると言って」
ヴェルナーは、銀貨を、握り込んだ。
荷は、また組める。
その言葉が彼の胸を奇妙に刺した。四十年、彼は荷を組んできた。蔵を満たし、糸を張り、相場を握ってきた。だが、その荷を「また組める」と言える軽さを、彼は一度も持ったことがなかった。
彼の荷は、いつも重かった。失えば終わりだった。だから彼は守った。銀で、剣で、声で。守るほどに重くなった。重くなるほどに銀の糸が増えた。
そして今、その糸が束で切れていた。
「クナウフ」彼は言った。「下がれ」
クナウフは、下がっていった。最後の傘下が、戸口の向こうへ消えた。
一人になった卓で、ヴェルナーは考えた。
残っているものを数えた。蔵には、まだ銀があった。四十年、誰にも崩されなかった蔵が。けれど、その銀で動く手がもうなかった。剣は引いた。声は止んだ。傘下は去った。蔵だけが満ちていた。
満ちた蔵を、彼は初めて空虚だと思った。
あの女は蔵を持たぬところから始めた。符牒帳一冊で。それが今、二人で一つになって、前より大きくなっている。彼は満ちた蔵を抱えて、内側から空になっていた。
彼は、立ち上がった。
最後に、一つ、残っていた。
あの女の路の、いちばん根のところ。十年の握手の、いちばん古いところ。南の塩坑だった。あの女が、看板を失ってもなお繋がっていた、最初の相手。
あそこを買えれば。あの古い握手を銀で剥がせれば。あの女の路は根から崩れる。彼はそう読んだ。
四十年、彼は使いを送って買収させてきた。自分で坑へ赴いたことなど一度もなかった。
彼は銀貨を握り込んだ。今度は自分の足で行く、と思った。
マルゴー公国。南の塩坑。
坑口の前に、立派な隊商が止まった。仕立ての完璧な黒の外套の男が、自分の足で、降りた。
ゴットは、坑口の岩に腰かけて、塩を選り分けていた。荒れた太い手が、止まった。
「ロッシュ商会の」男が言った。柔らかい声だった。「総帥のヴェルナーと申します」
「親方のゴットだ」ゴットは言った。それから、塩を、選り分け続けた。
「親方」ヴェルナーは言った。「単刀直入に申し上げます。私は、ここの塩を買いたい」
「塩なら」ゴットは言った。「もう、商う相手がおる」
「存じています」ヴェルナーは言った。「トルプの差配でしょう。八枚で、三年。——その値を、私は倍にします」
ゴットは、塩を選る手を、止めなかった。
「十六銀」ヴェルナーは言った。「いや、その倍でも構わない。坑夫の手間賃も別に払いましょう。坑道の修繕もこちらで。——金なら、いくらでも積みます」
金なら、いくらでも、積みます。
ヴェルナーは、その言葉を四十年、口にしてきた。値さえ言えば人は動いた。値が高ければ高いほど動いた。それが彼の真実だった。金は裏切らなかった。
ゴットは、塩を一粒、つまんだ。光に透かした。それから、口に運ばず、匂いを嗅いだ。
「いい塩だ」ゴットは言った。「今年のは、よう乾いとる」
「親方」ヴェルナーは言った。「お聞きですか。倍の、倍を——」
「聞いとる」ゴットは言った。「耳は、悪うない」
「では、ご返答を」
「塩を、選っとる」ゴットは言った。「待ちな」
ゴットは、選り分けた塩を、麻袋に落とした。それから、ヴェルナーを、見上げた。
「あんた」彼は言った。「手袋を、しとるな」
「ええ」ヴェルナーは言った。
「握手は」ゴットは言った。「せんのか」
「私は」ヴェルナーは言った。「握手は、しない主義で。——紙と銀で商います」
「そうか」ゴットは言った。
彼は、立ち上がった。塩で荒れた、太い手を、外套の腿で拭った。けれど、その手を、差し出さなかった。差し出す相手では、ないと、決めたようだった。
「わしはな」ゴットは言った。「十年、トルプの看板と、商うてきたんじゃない」
「と、申しますと」
「あの娘と、商うてきた」ゴットは言った。「十三の冬に、初めて握手した。値を叩かん娘だった。苦しい年に塩坑の水が出ても、八枚を動かさんかった」
「それは」ヴェルナーは言った。「商いの上手さでしょう。値を据えて、長く繋ぐ。私も、同じことを——」
「ちがう」ゴットは言った。
短い一言だった。坑の岩に、低く落ちた。
「あんたは」ゴットは言った。「値を据えて、長く繋いで、それで人を握ろうとしとる。あの娘は、握ろうとせん。ただ約束を守る。——同じに見えるか」
ヴェルナーは、答えなかった。
「わしが握手したのは」ゴットは言った。「看板でも金でもない。あの人の目だ」
ヴェルナーの握り込んだ銀貨が、掌の中で汗ばんだ。
「あの人の目は」ゴットは言った。「塩の値だけを見とらん。坑夫の手間賃を見とる。水の出を見とる。苦しい冬を見とる」
「商人なら」ヴェルナーは言った。「誰でも見るものでしょう」
「見るだけなら、な」ゴットは言った。「あの人は見て、値を据える。あんたは見て、値を吊る。——あんたの目は、何を見とる」
「私の目は」ヴェルナーは言った。
言いかけて、止まった。
彼の目は、勘定を見ていた。四十年、勘定だけを、見てきた。値で人が動く様を、見てきた。それを、真実だと、信じてきた。
けれど今、坑口の岩に座る老いた男が、彼に問うていた。あんたの目は、何を見とる、と。
ヴェルナーは、その問いに答えを持たなかった。四十年、誰も彼にそう問わなかった。値を問う者ばかりだった。何を見ているか、と問う者は一人もいなかった。
「金は」ヴェルナーは言った。声が、低かった。「金は、裏切りません。人は裏切る。私は、それを知っています」
「知っとるか」ゴットは言った。
「ええ」ヴェルナーは言った。「身をもって」
ゴットは、しばらく彼を見ていた。塩で荒れた目が、男の外套の裾の、消えかけた泥を見たようだった。
「金は、裏切らんかもしれん」ゴットは言った。「だが、金は、あんたの冬を暖めん」
彼は、麻袋を担いだ。坑のほうへ、歩き出した。
「帰りな」ゴットは言った。背を向けたまま。「ここの塩は、あの人のだ。倍の倍を積まれても、変わらん」
ヴェルナーは、坑口に一人、残された。
立派な隊商が、彼を待っていた。蔵には、まだ銀があった。その銀で、何でも買えるはずだった。四十年、買えなかったものは、なかった。
今、坑口の岩に、塩の匂いだけが残っていた。買えなかったものの匂いだった。
彼は銀貨を掌の上に転がした。磨かれた縁が、坑口の光を鈍く返した。弾こうとして、また指が動かなかった。
国境都市オーレン。天秤亭。
夕暮れの食堂に、その男は、一人で現れた。
マレーナは、卓で符牒帳を開いていた。隣に、レオが座っていた。左腕を、白い布で吊ったままだった。
戸口に立った男を、マレーナは、見た。仕立ての外套。皺は伸ばしてあったが、裾に、消えかけた泥があった。手には、手袋。指の間に、磨かれた銀貨が一枚。
会ったことは、なかった。けれど、誰かは、すぐに分かった。
「ロッシュ殿」マレーナは言った。
「トルプの差配」ヴェルナーは言った。柔らかい声だった。決して荒げない声。噂のとおりの声だった。「いや。——トルプでは、もう、ありませんでしたな。失礼を」
「いいえ」マレーナは言った。「マレーナで、結構です」
ヴェルナーは、卓へ、近づいた。レオの吊った腕を、ちらと見た。それから、目を、逸らした。
「あなたの男に」彼は言った。「私は、剣を向けました。腕を斬らせました。——詫びはしません。詫びは、値になりませんから」
「ええ」マレーナは言った。「詫びは、要りません」
ヴェルナーは、卓の前に、立った。座らなかった。
「私は」彼は言った。「あなたを、潰せませんでした。塩を叩いた。声を撒いた。関を締めた。剣を出した。最後は、自分の足で峠に立ちました。——どれも、効かなかった」
「ええ」マレーナは言った。
「なぜ、効かなかったか」ヴェルナーは言った。「私は、それを知りに来ました。あなたの口から。——おいくらで、それを教えていただけますか」
マレーナは、彼を、見た。
おいくらで。
その問いを、マレーナは聞いた。彼が四十年、口にしてきた問いだった。何にでも値をつける問い。聞いた瞬間、彼女にはこの男の四十年が薄く見えた気がした。
彼女は勝ち誇らなかった。胸はすかなかった。代わりに肋骨の内側に、別の何かが満ちた。
「ロッシュ殿」彼女は言った。「それには、値がつきません」
「では、ただで教えると」
「ええ」マレーナは言った。「ただし、聞いてお持ち帰りになれるかは、別です」
「また、それですか」ヴェルナーは言った。柔らかく。「あなた方は、すぐ値のつかぬものを持ち出す。家の冬だの、握手だの、目だの。——私は、その手の言葉を信じません」
「存じています」マレーナは言った。「信じられなかったのでしょう。一度、信じて裏切られたから」
ヴェルナーの、銀貨を持つ指が、止まった。
マレーナは、それを見た。十年、握手で人の本気を量ってきた目が、この男の止まった指を読んだ。
「なぜ」ヴェルナーは言った。「それを」
「分かりません」マレーナは言った。「あなたを、知りませんから。けれど」
彼女は、符牒帳の角を、指の腹で撫でた。十年で、すり減った角だった。
「金しか信じられない人は」彼女は言った。「金でないものに、一度深く裏切られた人です。——わたくしも、看板を失ったとき思いました。十年の握手は、看板のものだったのではないか、と。深く信じたものを抜かれると、人は抜かれないものを探します。あなたは金を選んだ。わたくしは人を選んだ」
「同じ裏切りから」彼女は言った。「逆の道を、選んだのでしょう」
ヴェルナーは、何も言わなかった。
食堂が、静まった。竈の火が、薪を一つ、爆ぜさせた。表で、荷夫が荷を下ろす音が、遠く聞こえた。一樽も落ちなかった荷を下ろす音だった。
ヴェルナーは、その音を、聞いたようだった。窓の外の、夕暮れの広場を、見た。
「私も」彼は言った。
声が、低かった。窓へ向けた声だった。マレーナへ向けた声では、なかった。
「昔は——」
彼は、そこで、止まった。
言いかけた先に、若い自分がいた。まだ、人を信じていた自分が。最も信じた相手に、商会も家も、すべてを預けていた自分が。
マレーナは、その止まった声を聞いた。先を促さなかった。促せば変わってしまう気がした。これは、彼が彼自身に語りかけている声だった。
ヴェルナーは、首を、振った。
「いや」彼は言った。「よしましょう」
彼は窓から振り向いた。いつもの柔らかい笑みが、薄く戻っていた。
「昔話は」彼は言った。「値に、なりません」
いつものように、彼はそう言った。いつものように言えば、いつものように、考えは打ち切れるはずだった。
けれど、握り込んだ銀貨が、掌の中でまだ汗ばんでいた。
マレーナは、その手を見た。手袋の、銀貨を握る手。握手をしない手。差し出されたことのない手。
彼女は立ち上がった。卓を回り込んだ。
そして彼の前に立った。
「ロッシュ殿」彼女は言った。
彼女は、右手を、差し出した。
ヴェルナーが、その手を、見た。差し出された掌を。十年、握手を刻んできた、固い筋のある掌を。
「私は」彼は言った。「握手は、しない主義で」
「存じています」マレーナは言った。「けれど、差し出すのは、わたくしの勝手です」
彼女は、手を、引かなかった。
ヴェルナーの手袋の手が、銀貨を握り込んだまま動かなかった。彼は、その差し出された手を、ただ見ていた。値のつかない手を。彼が四十年、信じなかった世界そのものを。
「あなたは」彼は言った。「私に、勝ったのですよ。私を、哀れむ気ですか」
「いいえ」マレーナは言った。「哀れんでは、いません。——分かる、と思っただけです。少しだけ。逆の道を選んだ者として」
ヴェルナーは、手を、出さなかった。
マレーナも引かなかった。しばらく、差し出した手の上で、二人の沈黙が釣り合っていた。
やがてヴェルナーは、小さく息を吐いた。
「あなたは」彼は言った。「たちが、悪い」
それは、いつかレオが彼女に言った言葉と同じだった。
彼は、握手をしなかった。最後まで。
けれど、差し出された手を振り払いもしなかった。彼は、ただ一度だけ、深く頭を下げた。商談の礼でも敗者の礼でもない下げ方だった。退がるための頭でもなかった。
「失礼」彼は言った。「もう、おいくらと聞くのはやめにします。——あなたの路には、私の値で買えるものが一つもありませんでした」
彼は、背を向けた。
外套の裾の、消えかけた泥が、夕日に薄く照らされた。
戸口で、彼は一度、止まった。
「マレーナ殿」彼は言った。背を向けたまま。「一つだけ。——金は、本当に冬を暖めませんか」
「暖めません」マレーナは言った。「けれど」
彼女は、差し出していた手を、ようやく下ろした。
「金で薪は買えます」彼女は言った。「薪を誰の家に運ぶかを決めるのは、目です。値では、ありません」
ヴェルナーは、答えなかった。
彼は夕暮れの広場へ出ていった。一人で。隊商も、傘下も、剣も、声も連れずに。柔らかい足音だけが、石畳に遠ざかっていった。
食堂に、二人が、残された。
マレーナは卓へ戻った。レオの隣に座った。レオは、吊った腕を卓に乗せたまま、戸口を見ていた。
「行ったな」レオは言った。
「ええ」マレーナは言った。
「これで、終わりか」
「終わりです」マレーナは言った。
「あんた」レオは言った。「あの男に、手を出したな。握手の手を」
「出しました」マレーナは言った。「握っては、もらえませんでしたが」
「なぜ」レオは言った。「あいつは、あんたの男の腕を斬らせたんだぞ」
「ええ」マレーナは言った。「斬らせました」
「それでも、出すのか」
「握ってもらえるかは、向こうの話です」マレーナは言った。「差し出すかは、わたくしの話です」
マレーナは、その先を、すぐには答えなかった。
彼女は符牒帳を開いた。新しい頁に一行、書いた。ロッシュ殿、来たる。握手はせず。けれど、振り払いもせず。
「分かりません」彼女は言った。「ただ——会ったことのない人なのに、少しだけ知っている気がしたのです。あの方の見ているものが」
「何を、見てた」
「空の蔵を」マレーナは言った。「満ちているのに、空の蔵を。——あの方は、四十年かけて蔵を満たして、その蔵で一人きりになりました。わたくしは、蔵を失って人と繋がりました。同じ場所から、逆へ歩いたのです」
レオは、しばらく、黙っていた。
吊った腕の指で、襟の銅貨を、押さえようとした。けれど、左腕は、上がらなかった。彼は、右手で、押さえ直した。
「あんたは」彼は言った。「勝った顔を、してないな」
「ええ」マレーナは言った。
「あんなに、ひどい目に遭わされて」レオは言った。「胸が、すかんのか」
「すきません」マレーナは言った。
「ふつう、すくぞ」
「ええ」マレーナは言った。「けれど、勝ったのは、わたくしではないからです。あの方は、わたくしに負けたのではありません。——金にだけ信じてきた自分に、負けたのです」
彼女は、符牒帳を、閉じた。
窓の外で、オーレンの広場が、夕闇に沈んでいった。
篝火が、一つ、また一つと灯った。荷夫が荷を下ろし終え、塩の樽が並んでいた。家の名の書かれた樽だった。ハンナの家。ベルクの家。一樽も落ちなかった荷だった。
その向こうの、ずっと遠くに、峠があった。剣の引いた峠。岩陰の、消えた泥の足跡。
「終わったな」レオは言った。
「ええ」マレーナは言った。「資本の戦は、終わりました」
「長かった」レオは言った。
「ええ」マレーナは言った。「けれど、一樽も、落ちませんでした」
彼女は、レオの吊った腕を見た。それから、自分の掌を見た。さっき、ヴェルナーへ差し出した手だった。握ってもらえなかった手だった。
「レオ」彼女は言った。
「ああ」
「あの方は」彼女は言った。「最後まで、握手をしませんでした。けれど、わたくしは、手を差し出してよかったと思っています」
「なぜだ」レオは言った。
「握ってもらえなくても」マレーナは言った。「差し出す手は、看板でなく人に向けられます。——それだけは、わたくしの変わらない作法ですから」
レオは、それを、聞いた。
吊った腕の痛みの中で、彼は口の端を上げかけた。また響いたのか、すぐにしかめた。けれど、その一瞬を、マレーナは見た。
「あんた」レオは言った。「腕が、塞がったら」
「ええ」
「話したいことが」レオは言った。「ある」
マレーナは、彼を、見た。商談の声では、なかった。低くも、鋭くも、なかった。痛みで、少し、掠れた声だった。
「何でしょう」彼女は言った。
「腕が、塞がってからだ」レオは言った。「今は、まだ商談の言葉でしか言えん。塞がる頃には、別の言葉で言えるかもしれん」
「商談の言葉でも」マレーナは言った。「わたくしは、構いませんが」
「いや」レオは言った。「今度は、別の言葉だ」
「では」マレーナは言った。「塞がるのを、待ちます」
彼女は、それ以上、聞かなかった。
聞けば、変わってしまう気がした。まだ、変えてはいけない気がした。資本の戦は、終わったばかりだった。レオの腕は、まだ、塞がっていなかった。
けれど、聞かなくても、それは深いところに落ちていた。十年、答えのなかった問いの、答えのその手前のように。
窓の外で、篝火がゆれた。
マレーナは、符牒帳に掌を当てた。その隣に、まだ畳んだ布があった。レオの血を拭いた布だった。十年の握手の隣に、今日もその血があった。
彼女は、その上に、もう一行書き足した。
戦は終わる。けれど、わたくしたちの路は続く。次の路は——と、そこまで書いて、彼女は筆を止めた。
その先は、まだ声にも文字にもしなかった。今は、ただ隣の腕が塞がるのを待つ刻だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第四十七話「値のつかぬもの」。資本の王ヴェルナーとの、決着の話です。
書いていて決めていたのは、マレーナが彼を「倒さない」ことでした。剣で倒すのでも、法で裁くのでもない。彼は、彼自身の手口——買収と恫喝と剣——で、傘下にも、剣にも、取引相手にも、見限られていきます。金で買った者は、金で去る。彼が四十年、唱え続けた言葉が、そのまま彼に返る。資本の論理が、資本ゆえに崩れる。それが、わたしの書きたかった因果でした。
カタルシスの一行は、塩坑のゴット親方に託しました。「わしが握手したのは、看板でも、金でもない。あの人の目だ」。倍の倍の金を積まれても、揺るがない。金で買えないものの前で、四十年の「金は裏切らない」が、敗れる瞬間です。
そして、最後にマレーナがヴェルナーへ差し出した手を、彼は握りませんでした。それでいいのです。彼女が大事にしてきたのは、握ってもらえることでなく、自分の手を、看板でなく人へ差し出すこと。だから、握られなくても、差し出してよかった、と彼女は言います。彼を哀れむのでも、見下すのでもなく——逆の道を選んだ者として、少しだけ、分かる、と。敵が、自分の鏡に見える。その一拍を、書きたいと思いました。
ヴェルナーは、完全には、変わりません。「私も、昔は——」と漏らしかけて、「昔話は、値になりません」と打ち切ります。けれど、最後に一つだけ、聞いていきます。金は、本当に、冬を暖めないのか、と。その問いを残して去る男の背中を、わたしは、嫌いになれませんでした。
そして、レオの腕は、まだ塞がっていません。塞がる頃には、別の言葉で、話したいことがある——彼はそう言います。次の話。腕が塞がって、戦が終わって、二人の前に、ようやく、静かな刻が訪れます。
◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇
「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。資本の王が去り、大陸の戦が、静かに幕を下ろしました。次の話、塞がった腕とともに、レオが「別の言葉」を、ようやく口にします。
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