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『商いは男の仕事だ』と追放された交易令嬢、十年の商売敵と組んで大陸一の交易路を拓く  作者: 歩人


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第46話: 峠の一刻

 峠の朝は、鉄の匂いがした。


 雪解けの水が岩を伝い、その下で冷えた金気かなけが立ちのぼる。マレーナはその匂いを、掌で受けるように吸い込んだ。十年、関を抜け、坑を越え、何度も嗅いだ匂いだった。今朝はそれが、いつもより濃かった。


 彼女は荷馬車の脇を歩いていた。先頭から三台目。塩の樽と毛織の梱と鉄の束を、一つの帳面で組んだ最初の大荷だった。


「重いな」レオが言った。隣で馬を曳いていた。「この一台で、家が何軒分だ」


「四十二軒」マレーナは即座に言った。「塩が二十八軒、毛織が十四軒。鉄は職人の家です」


「数えてるのか」


「数えています」マレーナは言った。「数えていれば、落とせません」




 荷の腹には、墨で家の名が書いてあった。


 窓口の家の名だった。誰の家に届く塩か。誰の冬を暖める毛織か。一樽ずつ、一梱ずつ、マレーナが書かせた。剣が縄に手をかけても、名のある荷は散らせない――そう読んでのことだった。


 その読みが正しかったかどうかは、まだ分からなかった。


「マレーナ」レオが言った。「あんたは、来なくてよかった」


「来ます」マレーナは言った。「この荷は、一つになった商会の最初の核です。わたくしが見ます」


「核だから」レオが言った。「向こうも狙う」


「ええ」マレーナは言った。「だから、見ます」


「見て、どうする」レオが言った。「剣が出たら、あんたに何ができる」


「分かりません」マレーナは言った。「けれど、見ていない核は、守れません。見ていれば、何か、できます」


「あんたらしいな」レオが言った。「読めんものでも、まず見る」




 彼女は符牒帳を、懐に入れていた。


 昨夜のうちに、段取りはすべて書いた。誰がどこに付くか。速い馬をどの荷に替えるか。逃げ道は、東の窪地。剣が出れば荷を捨てて窪地へ落とす。荷より人を、と書いた。十年、荷を落とさぬ段取りばかり書いてきた手で、初めて、荷を捨てる段取りを書いた。


 その段取りを、彼女は掌の中でもう一度なぞった。書いた紙はもう懐の中だった。なぞったのは、紙でなく、記憶のほうだった。


「ヴィンス」彼女は前へ声を投げた。「頂までは」


「あと、半刻ほどです」ヴィンスが振り返った。几帳面な男の声が、今朝は硬かった。「頂を越えれば、下りです。下りに入れば、もう――」


 彼は、その先を言わなかった。下りに入れば、もう安全だ、と言いたかったのだろう。けれど、頂までの半刻が、いちばん危ない半刻だった。




 頂が、近づいた。


 岩が両側からせり出していた。道が細くなる場所だった。馬車一台がやっと通る幅。十年、ここを抜けるたびに、マレーナはこの細さを覚えてきた。荷が詰まる場所であり、人が詰まる場所でもあった。


 ここで止められたら、と彼女は思った。前にも進めず、後ろにも退けない。


 その思いが、形になった。


 岩陰から、人が出た。




 一人ではなかった。


 六人。剣を差していた。先頭の一人が、道のまん中に立った。残りが、岩の両側から、荷馬車の脇へ回った。


「止まれ」先頭の男が言った。


 馬が、いなないた。ヴィンスの隊商頭が手綱を引いた。荷馬車が止まった。一台、二台、三台。細い道の上で、隊列が動けなくなった。


 マレーナは、止まった荷馬車の脇に立っていた。掌に、汗が滲んだ。冷たい汗だった。


 十年、相場を読んできた。関の難癖を読んできた。人の握手を読んできた。けれど、この六人の剣を、彼女は読めなかった。読む術が、なかった。




 剣が、抜かれた。


 刃が、朝の光を弾いた。その光を、マレーナは見た。見ただけだった。算盤も、符牒帳も、握手も、この刃の前では、何の値も持たなかった。


(これは)


 彼女は思った。


(わたくしの、帳面では、守れない)


 いつか、一度、認めた言葉だった。これは、わたくしの帳面では守れない領域です、と。あのときは、まだ言葉だった。今、それが、刃になって目の前にあった。


 先頭の男が、荷馬車へ歩いた。縄に手をかけた。今度は、縄を切るためではなかった。荷ごと、谷へ落とすためだった。




「待て」


 声が、割って入った。


 レオだった。


 彼は馬を捨てて、地に降りていた。荷馬車と剣の男の間へ、身体を入れた。


「荷に手を出すなら」レオは言った。「俺を、退けてからにしろ」


 彼は丸腰だった。商人だった。剣を、持っていなかった。


 マレーナは、その背を見た。広い背だった。十年、競りの台の向こうで見てきた背だった。日に焼けた首。革の腕帯。襟に縫い込んだ、古い銅貨。その背が今、剣の前に立っていた。彼女と、荷の間に。




「どけ」先頭の男が言った。


「どかん」レオが言った。


 声が、低かった。商談の声でも、軽口の声でもなかった。マレーナが一度も聞いたことのない声だった。


 男が、剣を振った。


 マレーナの目に、それは、ひどく遅く映った。刃が、朝の光をひと撫でして、レオの腕へ落ちた。


 肉を裂く音は、しなかった。布が裂ける音と、その後の、湿った音だけがした。




 レオが、左腕を押さえた。


 指の間から、赤が滲んだ。革の腕帯の上を、伝った。一滴が、峠の土に落ちた。


 マレーナは、それを見た。


 赤い、と思った。ただ、それだけを思った。彼女の頭は、いつも数字を数えていた。荷の重さ、馬の数、銀の枚数。けれど今、その頭が、止まっていた。一滴の赤の前で、十年の数字が、止まっていた。


「レオ」彼女は言った。声が、出ていなかった。


「来るな」レオが言った。腕を押さえたまま、振り向きもせず言った。「あんたは、来るな」


「腕が」マレーナは言った。「腕が、斬られています」


「いいから」レオが言った。「来るな。――あんたは、段取りだ。俺は、これだ」




 あんたは、段取りだ。俺は、これだ。


 その言葉が、マレーナの止まった頭を、叩いた。


 剣が初めて峠に出たあの夜、二人は、それを分けた。あんたは段取りで守れ。俺は身体で守る。あのときは、ただの役割だった。今、それが、血を流していた。


 彼女は、息を吸った。鉄の匂いがした。峠の金気ではなかった。レオの腕から落ちた、血の匂いだった。


 その匂いが、止まった頭を、動かした。


(段取りだ)


 彼女は思った。


(わたくしの、領域だ)




 彼女は、荷馬車の隊列を、見た。


 六人。先頭が一人。荷馬車の脇に、四人。岩陰に、まだ気配が一つ。前にも進めず、後ろにも退けない、細い道。


 頭の中で、天秤が傾いた。十年、傾けてきた天秤だった。


「ヴィンス」彼女は言った。声が、戻っていた。「東の窪地」


「は」ヴィンスが、振り返った。


「三台目の馬を、切れ」彼女は言った。「荷は捨てます。馬だけ、東の窪地へ落としなさい。先頭の二台は、わたくしが止めます。あなたは、後ろの荷夫を窪地へ。――荷より、人です」


「荷を」ヴィンスが言った。「捨てて――」


「捨てます」マレーナは言った。「荷は、また組めます。人は、組めません」




 ヴィンスが、動いた。


 几帳面な男だった。夜のうちに、段取りは頭に入っていた。誰がどこに立つか。逃げ道はどこか。書いたのはマレーナだったが、覚えたのはヴィンスだった。彼は迷わず、三台目の馬の繋ぎを切った。


 馬が、東へ走った。荷夫が、続いた。


 剣の男の一人が、それを追おうとした。


「追うな」マレーナは言った。


 男が、止まった。女の声に、止まった。


「荷は」彼女は言った。「ここにあります。逃げたのは、人です。あなた方が雇われたのは、荷を潰すためでしょう。人を追えば、荷を取り逃します」




 男が、迷った。


 マレーナは、その迷いを、読んだ。剣は読めなかった。けれど、迷いなら、読めた。十年、握手で人の本気を量ってきた目だった。


 この男たちは、荷を潰すために雇われていた。人を斬るために雇われたのではなかった。レオを斬った先頭の一人でさえ、斬ったのは、レオが荷の前に立ったからだった。


(銀で)


 彼女は思った。


(銀で、雇われている)


 銀で雇われた者は、銀の分を働く。それ以上は、働かない。レオが言っていた。マレーナが言っていた。クナウフが言っていた。


 なら、と彼女は思った。


 なら、この男たちにも、銀の外があるかもしれなかった。




「荷の腹を」マレーナは言った。「ご覧なさい」


 男たちが、荷馬車の腹を見た。


 墨で、名が書いてあった。一樽ずつ、一梱ずつ。


「ハンナの家」マレーナは言った。「王都北の裏町の農婦です。家中のなけなしの銭を持って、峠を越えて買いに来ました。その隣が、ベルクの家。乾物商です。十二年の割符を断って、わたくしと結び直した人です。その隣が――」


 彼女は、一つずつ、読んだ。


 名を。家を。冬を。


「この荷を谷へ落とせば」彼女は言った。「これらの家の塩が、峠に散ります。雪に埋もれて、二度と拾えません。あなた方が散らすのは、荷ではありません。家の、冬です」




 男たちが、動かなかった。


 一人が、剣を下ろしかけた。


 その時だった。


「縄を切れ」


 声が、岩陰から飛んだ。


 先頭の男が、舌打ちした。マレーナの言葉に揺れかけていた男たちが、その声に、また固まった。岩陰の声は、雇い主の声だった。銀を払う側の声だった。


 マレーナは、岩陰を見た。声の主は、見えなかった。けれど、その声を、彼女は初めて聞いた。柔らかい声だった。決して荒げない声だった。噂で聞いた、握手をしない男の声だった。


(ロッシュ殿)


 彼女は思った。


(ここに、いる)




 ダレン自由都市連合。ロッシュ商会の館――ではなかった。


 ヴェルナーは、峠の岩陰にいた。


 四十年、彼は自分の手で荷を止めたことが、一度もなかった。銀で、人を動かせば済んだ。商談は座ったまま、脅しも買収も座ったまま、言葉でできた。


 けれど今、彼は峠の岩陰に、自分の足で立っていた。仕立ての完璧な黒の外套が、峠の泥で裾を汚していた。


 残った剣は、五人だった。足りぬ分の一人を、彼は自分で埋めるしかなかった。命じる者が、命じる場へ、自ら出てきた。それが、彼の理が崩れた証だった。




「縄を切れ」


 彼は、もう一度言った。


 声を、荒げなかった。荒げる必要はない、と四十年信じてきた。けれど、その声に、初めて、焦りの速さがあった。


 剣の男たちが、女の言葉に揺れていた。荷の腹の名を読み上げる、あの女の言葉に。


(甘い嘘だ)


 彼は思った。


(家の冬だの、握手だの。値のつかぬ言葉だ。そんなもので、銀で雇った剣が、止まるはずが――)


 止まっていた。


 剣が、女の言葉の前で、止まっていた。




 彼は、銀貨を握っていた。


 弾こうとして、指が動かなかった。クナウフが銀を返して去ったあの夜から、ずっと、指が動かなかった。


 彼は、岩陰から、一歩出た。


「君たち」彼は、剣の男たちへ言った。「銀を倍出す。荷を落とせ。今すぐだ」


 男たちが、彼を見た。雇い主の顔を、初めて、まともに見た。泥に汚れた外套の男を。


 一人が、言った。


「あんたが」その男が言った。「やればいい」




 ヴェルナーは、その言葉を聞いた。


 あんたが、やればいい。


 四十年、誰も、彼にそう言わなかった。銀を払えば、人は働いた。銀を払う側が、手を汚すことはなかった。それが、彼の世界の理だった。


 今、銀で雇った男が、彼に言った。あんたが、やればいい、と。


 彼は、剣を持っていなかった。荷を落とす腕も、なかった。四十年、銀で人を動かしてきた手は、自分では何も、潰せなかった。


 彼は、銀貨を、握り込んだ。掌の中で、銀貨の縁が食い込んだ。汗ばんだ掌に。




 国境都市オーレンへ続く、峠の道。


 マレーナは、レオの背の向こうに、男たちの揺れを見ていた。


 雇い主が、出てきた。泥に汚れた外套の男が、岩陰から一歩、出た。倍出すと言った。けれど、剣は、動かなかった。


「あんたが、やればいい」剣の一人が、雇い主へ言った。


 マレーナは、その言葉を聞いた。


 胸の奥で、何かが、ほどけた。勝った、ではなかった。彼女が手を下したのでも、なかった。あの男が――会ったこともない、握手をしない男が――自分の手で、自分の剣を、欠けさせていた。


 今、この峠で。彼の理が、彼の最後の手を、内側から崩していた。




 その時、荷馬車の脇から、一人の剣が、前へ出た。


 若い男だった。痩せて、目に、暗さがあった。けれど、その目が、荷の腹を見ていた。墨の名を、見ていた。


 マレーナは、その男を、知らなかった。けれど、その名を、知っていた。符牒帳に、書いてあった。


「ザーロ」彼女は言った。


 男の肩が、揺れた。名を呼ばれて。


「なんで」ザーロが言った。「俺の名を」


「書いてあります」マレーナは言った。「わたくしの帳面に。峠で、荷の腹の名を見て、縄を引かなかった男がいた、と。――あなたでしょう」


「会った、ことも、ねえのに」


「ええ」マレーナは言った。「会ったことは、ありません。けれど、あなたのしたことは、知っています」




「お前」先頭の男が言った。「ザーロ、お前、前にも――」


「ああ」ザーロが言った。「前にも、引いた」


 彼は、荷馬車と、雇い主の間に、立った。


 レオが荷の前に立ったように。ザーロが、荷の前に立った。剣を差したまま。剣を、雇い主へ向けて。


「俺は」ザーロが言った。「銀で、雇われた。荷を脅す銀だ。それは、働く。だが」


 彼は、荷の腹を、顎で示した。


「家の冬を散らす銀は」彼は言った。「もらってねえ。それは、銀の外だ」




 ザーロは、雇い主を見た。


「あんたは」彼は言った。「俺たちに、家の冬を散らせと言う。倍の銀で。だが、それを散らせと言うあんた自身は、剣も握れねえ。荷も落とせねえ。――銀しか、ねえのか」


 ヴェルナーが、何も言わなかった。


「銀しか、ねえんだな」ザーロが言った。


 彼は、剣を、鞘に納めた。


「俺は、降りる」彼は言った。「あんたの銀の外で、降りる」


 彼は、荷馬車のほうへ、歩きかけた。マレーナは、その背へ、声をかけた。


「ザーロ」彼女は言った。「あなたの名を、書いておきます。わたくしの帳面に。――銀の外で、降りた人だ、と」


 ザーロが、振り向かなかった。けれど、肩が、一度、揺れた。


「好きに、しろ」彼は言った。


 彼は、雇い主に背を向けた。一人、また一人、剣の男たちが、剣を納めた。先頭の一人も、最後に、舌打ちして、剣を引いた。




 峠が、静まった。


 剣が、引いていった。岩陰の男も、消えた。泥に汚れた外套の裾だけが、最後に、岩の向こうへ、翻った。


 マレーナは、その静けさを、聞いた。


 風が、岩を撫でる音。雪解けの水が、岩を伝う音。馬が、鼻を鳴らす音。そして、すぐ前で、レオの息が、荒い音。


 彼女は、レオへ駆け寄った。


「レオ」彼女は言った。「腕を」


「かすり傷だ」レオが言った。


「かすり傷では」マレーナは言った。「血が、こんなには出ません」




 彼女は、レオの左腕を、両手で取った。


 革の腕帯の上が、赤かった。布を裂いて、傷を見た。肉が、開いていた。深くはなかった。骨にも、筋にも、届いていなかった。けれど、血は、止まっていなかった。


 彼女は、自分の旅装の裾を、裂いた。十年、灰の旅装を着てきた。一度も、裂いたことがなかった。今、迷わず、裂いた。


 その布で、レオの腕を縛った。きつく。掌で、傷の上を押さえた。


「痛むでしょう」彼女は言った。


「痛む」レオが言った。「だが、骨は無事だ」


「動かさないでください」マレーナは言った。


 掌に、彼の血の温度が伝わった。温かかった。生きている者の温度だった。




「マレーナ」レオが言った。


「動かないで」マレーナは言った。「血が、止まりません」


「あんた」レオが言った。「手が、震えてる」


 マレーナは、自分の手を、見た。


 震えていた。十年、相場の帳面を前にしても、震えたことのない手だった。父の死の床でも、止まらなかった手だった。それが、今、震えていた。


 彼女は、その手を、握り込んだ。震えを、止めようとした。止まらなかった。


「あなたが」彼女は言った。「剣の前に、立ちました」


「ああ」レオが言った。


「丸腰で」彼女は言った。「商人が。剣の、前に」




「あんたを」レオが言った。「守る、と言った」


 マレーナは、その言葉を、聞いた。


 あんたを、守る。


 彼は、そう言った。荷を、ではなかった。商会を、でもなかった。あんたを、と言った。


 マレーナの胸の底で、十年蓋をしてきたものが震えた。


 父は、彼女の目を信じた。お前の目はわしより先を読む、と。十三で帳場を任された。みなが見ていたのは、彼女の目だった。彼女の段取りだった。彼女の符牒帳だった。目も帳面もない、ただのわたくしを――その先を、彼女は夜に一人のとき、ときどき思った。


 今、レオが、剣の前に、立った。


 彼が守ったのは、わたくしの目では、なかった。段取りでも、符牒帳でも、なかった。荷でさえ、なかった。




(彼は)


 マレーナは思った。掌で、彼の血を、押さえながら。


(彼は、わたくしの、才ではなく――)


 その先を、彼女は、声にしなかった。


 声にすれば、何かが、変わってしまう気がした。まだ、変えてはいけない気がした。ここは、峠だった。血の止まらぬ、峠だった。


 けれど、声にしなくても、それは深いところに落ちていた。十年、答えのなかった問いの、答えのように。


 彼は、わたくしの目を、守ったのではない。わたくしを、守った。




「レオ」彼女は言った。


「ああ」


「もう」彼女は言った。「二度と、丸腰で剣の前に立たないでください」


「立つ」レオが言った。


「立たないでください」マレーナは言った。


「立つ」レオが言った。「あんたの前なら、立つ。何度でも」


 彼は、そう言った。商談の声では、なかった。痛みで、掠れた声だった。けれど、その声が、いちばん、まっすぐだった。


 マレーナは、彼の腕を、押さえ続けた。掌の下で、血が、少しずつ、止まり始めていた。




 ヴィンスが、東の窪地から、戻ってきた。


 荷夫を連れて。馬も、無事だった。三台目の荷も、捨てずに済んでいた。剣が引いたあとで、窪地から引き上げた。一樽も、落ちていなかった。


「マレーナさん」ヴィンスが言った。それから、レオの腕を見て、息を呑んだ。「レオさん――その腕」


「かすり傷だ」レオが言った。


「血が」ヴィンスが言った。「布が、真っ赤です」


「かすり傷では」マレーナとヴィンスが、同時に言った。


 レオが、痛みの中で、口の端を上げかけた。けれど、すぐに、顔をしかめた。


「笑うと」彼は言った。「腕に、響く」




 彼らは、頂を越えた。


 下りに入れば、もう剣はいなかった。ザーロが、先導した。剣を引いた男たちは、峠を下って、それぞれの村へ、帰っていった。銀を、握って。けれど、もう、雇い主の銀では、なかった。


 オーレンの城壁が、見えてきた。


 マレーナは、荷馬車の脇を、歩いていた。レオは、馬に乗れず、彼女の隣を、歩いた。腕を、布で吊って。


「あんた」レオが言った。歩きながら。「峠で、剣に追われた荷夫を、追うなと言ったな。向こうに」


「言いました」マレーナは言った。


「あれで」レオが言った。「向こうが、迷った。荷を取るか、人を追うか。あんたが、二つに割らせた」


「銀で雇われた者は」マレーナは言った。「銀の分しか働きません。荷を潰す銀は受けても、人を追う銀は受けていない。だから、迷いました」


「あんたは」レオが言った。「剣も、銀で測るのか」


「いいえ」マレーナは言った。「剣は、測れません。けれど、迷いは、量れました」


 二人とも、それきり、しばらく黙った。


 峠は冷たかった。剣は引いた。けれど、隣を歩くこの男は、丸腰で剣の前に立った。そして、あんたを守る、と言った。荷でなく、目でなく、わたくしを。




 天秤亭に、着いた。


 マレーナは、レオを、卓に座らせた。湯を、沸かさせた。傷を、洗った。改めて、布で、縛り直した。


 今度は、旅装の裾ではなかった。きよい、白い布だった。


 縛りながら、彼女は、レオの腕を見た。深くは、なかった。膿まなければ、十日で塞がるだろう。十年、荷の傷も、馬の傷も、見てきた目で、そう読めた。


 読めて、安堵した。安堵した自分に、彼女は、気づいた。


 数字でない安堵だった。利でも、損でもない、安堵だった。




「マレーナ」レオが言った。


「ええ」


「あんたは」彼は言った。「峠で、段取りで守った。逃げ道も、馬も、荷の腹の名も。――俺が血を流してる間に、あんたはちゃんと数えてた」


「数えました」マレーナは言った。「あなたが、立ってくれたから。あなたが立ってくれた間に、わたくしは数えられました」


 彼女は、布を、結んだ。


「あなたの身体と」彼女は言った。「わたくしの段取りで。――一つの帳面で、守りました」


「ああ」レオが言った。




 彼女は、結び終えた布から、手を離した。


 卓の上に、もう一枚、布があった。レオの血を、拭いた布だった。赤が、滲んでいた。乾きかけて、茶色く、変わり始めていた。


「それは」レオが、吊った腕で、その布を見て言った。「捨てろ。気味が悪いだろう」


「捨てません」マレーナは言った。


「なんでだ」


「わたくしは十年」マレーナは言った。「握手を、符牒帳に刻んできました。人の手の固さを。約束を守る気を。けれど、この布には、握手より重いものが刻まれています」


「血だ」レオが言った。「ただの、血だろう」


「いいえ」マレーナは言った。「あなたが、わたくしのために流した血です」


 レオが、何も言わなかった。


 マレーナは、その布を畳んだ。捨てなかった。畳んで、懐の、符牒帳の隣に入れた。




 窓の外で、オーレンの広場が、夕暮れに沈み始めていた。


 荷夫が、荷を下ろしていた。一樽も、落ちなかった荷を。塩の樽の、家の名が、夕日に照らされていた。ハンナの家。ベルクの家。名が、無事に、ここまで来ていた。


 レオが、吊った腕で、その広場を、見ていた。


「あの男は」彼は言った。「自分で、峠に出てきた。剣も握れんのに」


「ええ」マレーナは言った。


「もう」レオが言った。「あとが、ないんだろうな」


「ええ」マレーナは言った。「手駒を失い、自分で出てきて、その自分の剣に見限られました。――あの方には、もう何も残っていません」




 彼女は、懐の布に、掌を当てた。


 符牒帳の、隣だった。十年の握手の隣に、今日の血が、あった。


「明日」彼女は言った。「あの方と、会うことになるかもしれません」


「会うのか」レオが言った。


「ええ」マレーナは言った。「手駒を失った人は、最後に自分の言葉で来ます。――銀でなく、自分の言葉で。それが、最後でしょう」


 彼女は、レオの吊った腕を、見た。それから、卓の上の、もう何もない場所を、見た。さっきまで、血の布が、あった場所だった。


「けれど」彼女は言った。「それは、明日です。今日は」


 彼女は、そこで、言葉を、選んだ。


「今日は」彼女は言った。「あなたの腕が塞がるのを、見届けます」




 レオが、彼女を、見た。


 吊った腕の痛みの中で。けれど、その目には、痛みより別のものがあった。


「マレーナ」彼は言った。


「ええ」


「峠で」彼は言った。「あんた、俺の血を見て、数字が止まってた。十年、止まらなかった頭が」


「止まりました」マレーナは言った。


「なぜ」レオが言った。


 マレーナは、すぐには、答えなかった。


 答えは、すでにそこにあった。彼が、わたくしの才でなく、わたくしを守ったから。それを見て、十年動き続けた頭が、初めて、止まったから。


 けれど彼女は、それをまだ声にしなかった。


「分かりません」彼女は言った。「数字の、外のことでした」


「あんたが」レオが言った。「分からないと言うのは、珍しいな」


「ええ」マレーナは言った。「珍しいです。――けれど、分からないままで、よい気がします。今日は」


「今日は、か」レオが言った。


「ええ」マレーナは言った。「今日は」




 レオが、何も言わず、口の端を、上げかけた。


 また腕に響いたのか、すぐにしかめた。けれど、その一瞬の、笑みの形を、マレーナは見た。


 数字の外のこと。彼女は、そう言った。レオも、それ以上は、聞かなかった。


 二人の間に、言葉にならないものが、満ちていた。それは、商談の言葉でも、段取りの言葉でも、なかった。声にすれば、変わってしまうもの。けれど、声にしなくても、確かにそこにあるもの。


 マレーナは、懐の布に、もう一度、掌を当てた。


 乾きかけた血の布が、符牒帳の隣で、まだわずかに温かい気がした。気のせいだった。血は、とうに冷えていた。けれど、彼女の掌は、それを温かいと読んだ。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第四十六話「峠の一刻」。このアークの、いちばんの山です。


書いていて、どうしても外せなかったのが、マレーナが「無力」になる一刻でした。彼女は相場も、関の難癖も、人の握手も読めます。けれど、刃だけは読めない。算盤も符牒帳も、剣の前では値を持たない。十年、何でも数えてきた頭が、レオの血を一滴見ただけで、止まる。その止まりを、書きたかったのです。


裏の話を一つ。レオが守ったのは荷でも、彼女の「目」でもありません。彼はずっと、商談の言葉でしか想いを言えない男でした。けれど血を流す瞬間だけは、「あんたを守る」と、ただ言う。マレーナの、いちばん深い傷――目も帳面もない、ただの自分を、それでも誰かが選ぶか――その答えを、彼は言葉でなく、身体で差し出します。彼女はまだ、それを声にしません。声にすれば変わってしまう。だから、峠の血の中で、そっと胸に落とすだけ。結婚は、もう少し先に取っておきます。


そして彼女は、無力なままでは終わりません。守られながら、段取りで返す。レオの身体、ザーロの離反、マレーナの段取り。誰か一人ではなく、三つが噛み合って、辛うじて退ける。一人の天才が全部を解くのでは、ありません。繋いできた人と、一緒に生き延びるのです。


レオの血を拭った布を、彼女は捨てず、符牒帳の隣に畳みます。十年の握手の隣に、今日の血を。それが、わたしには、いちばん書きたかった一行でした。


◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇


「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。峠の襲撃を、二人と、銀の外を選んだ一人の剣が、退けました。次の話、資本の王が、銀を捨てて、最後の言葉を持って現れます。決着の刻です。


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