第48話: 二人の名で
十日目の朝、レオの腕の布が、取れた。
マレーナは、その布を自分の手で解いた。傷は塞がっていた。赤い線が一本、左の腕に残っていた。膿まずに塞がった、きれいな線だった。
「塞がりました」彼女は言った。
「ああ」レオが言った。腕を、二度、曲げ伸ばしした。「動く」
マレーナは、解いた布を卓に置いた。十日前にレオの腕を縛った布だった。洗っても、薄く染みが残っていた。
窓の外で、オーレンの広場が、朝の光に満ちていた。
雪は、もう、すっかり解けていた。荷夫が荷を積んでいた。塩の樽。毛織の梱。鉄の束。それから、北のカルンから届いたばかりの羊毛の俵が、隅に積まれていた。資本の戦が去ってから、路は、前より太くなっていた。
マレーナは、その広場を、しばらく見ていた。
戦は、終わった。剣も、銀も、噂も、去った。残ったのは、この広場と、隣の腕の塞がった男と、十年の符牒帳だった。
「マレーナ」レオが言った。
「ええ」
「腕が、塞がったら」レオが言った。「話すと言った」
マレーナは、彼を見た。
覚えていた。資本の王が去った夜、レオはそう言った。腕が塞がる頃には別の言葉で言えるかもしれん、と。今は商談の言葉でしか言えん、と。
「ええ」彼女は言った。「待っていました」
レオが、襟の銅貨を、右手で押さえた。塞がったばかりの左でなく、右の手で。
その仕草を、マレーナは見た。
十年の商売敵だった頃から、見てきた癖だった。考えるとき。照れるとき。決まりが悪いとき。彼はいつも、襟の古い銅貨を、指で押さえた。
その銅貨を、今、彼は押さえていた。塞がった腕の朝に。
ああ、とマレーナは思った。
この人は、今、ひどく決まりが悪いのだ。
「外へ、出るか」レオが言った。
「広場へ」
「いや」レオが言った。「天秤亭の、裏だ」
彼は先に立って歩いた。マレーナはついていった。天秤亭の裏に、小さな厩があった。レオがいつも自分の手で馬の世話をする厩だった。乾いた藁の匂いがした。
「ここか」マレーナは言った。
「ここだ」レオが言った。「いちばん、落ち着く」
厩の柵に、レオは寄りかかった。
馬が一頭、彼の肩に鼻を寄せた。レオは塞がったばかりの左手で、その鼻を撫でた。痛むのか、少し顔をしかめた。けれど、撫でるのはやめなかった。
「マレーナ」彼は言った。
「ええ」
「十年、競った」レオが言った。「競りの台で。あんたが八枚をつけて、俺が十二枚をつけて。何度も、負けた」
「ええ」マレーナは言った。
「負けるたびに」レオが言った。「悔しかった。だが、いつからか競りの前の晩が、楽しみになってた。あんたが次に何を出すか。それを考えるのが」
「あんたが」レオが言った。「出てこない競りは、つまらなかった」
マレーナは、その言葉を、聞いた。
以前、夜の天秤亭で同じことを聞いた。あのとき、彼は本音を初めて言葉にした。今、彼はそれをもう一度言っていた。けれど、声の色が違った。
「俺は」レオが言った。「あんたを、商売敵として見てた。それから、相棒として。それから――」
彼は、そこで、止まった。
銅貨を押さえる手に、力が入った。
「それから」マレーナは、待った。
レオが、言わなかった。馬の鼻を、撫で続けた。乾いた藁が、厩の床に落ちていた。彼の靴が、それを踏んだ。
「言いにくい」レオが言った。
「ええ」マレーナは言った。「分かります」
「分かるのか」
「あなたは」マレーナは言った。「気持ちをまっすぐ言うのが、苦手な人です。十年、見てきました」
「かなわんな」レオが言った。
それは、競りの台で、何度も聞いた言葉だった。けれど、今のは、いちばん、ほどけた声だった。
「マレーナ」レオが言った。
「ええ」
「次の路を」レオが言った。「二人の名で、繋ごう」
マレーナは、その言葉を、聞いた。
次の路を、二人の名で。
それは、商談の言葉だった。事業の話に聞こえる言葉だった。路を繋ぐ。名を並べる。商会を一つにする。十年の商売敵が伴侶になるのでなく、ただ二つの商会を統合する。そういう言葉だった。
けれど、マレーナには、分かった。
分かった。
彼は、商談の言葉でしか言えなかった。十年、ずっとそうだった。気持ちをまっすぐ言えず、取引の言葉でしか示せない。今も、それは治っていなかった。
けれど、その商談の言葉に、彼は、一つだけ、いつもと違うものを混ぜていた。
彼は、マレーナの目を、持ち出さなかった。
あんたの読み、と言わなかった。あんたの段取り、と言わなかった。あんたの符牒帳が欲しい、と言わなかった。十年、彼が惚れ込んできた彼女の才を――一つも言わなかった。
彼はただ、彼女の名を、呼んだ。
マレーナ、と。
目でなく。帳面でなく。段取りでなく。ただ、マレーナ、と。
その一つの名の前で、マレーナの胸の底で、十年蓋をしてきたものが、ほどけた。
父は、彼女の目を信じた。お前の目はわしより先を読む、と。みなが見ていたのは彼女の目だった。彼女の段取りだった。彼女自身を見た人は一人もいなかった。目も帳面もない、ただのわたくしを、それでも誰かが選ぶか――その問いに、十年、答えはなかった。
今、答えが、厩の藁の匂いの中に、あった。
「レオ」マレーナは言った。
「ああ」
「それは」彼女は言った。「商談の言葉ですか」
レオが、襟の銅貨を、押さえた。
「ああ」彼は言った。「商談の言葉だ。――ほかの言葉が、出てこん。すまん」
彼は、目を、逸らした。馬の鼻を、また撫でた。決まりの悪さを、ごまかすように。
マレーナは、その逸らした目を、見ていた。
「いいえ」彼女は言った。「謝らないでください」
「だが」レオが言った。「あんたに、ちゃんと言いたかった。商談でなく。けど、結局、また――」
「レオ」マレーナは言った。
彼女は、彼の言葉を、遮った。十年、人の言葉を最後まで聞いてきた彼女が、初めて、遮った。
「あなたは」彼女は言った。「今、わたくしの目を、欲しいと言いませんでした」
レオが、彼女を、見た。
「わたくしの読みも」マレーナは言った。「段取りも、符牒帳も。十年、あなたが惚れ込んでいた、わたくしの才を。一つも、言いませんでした」
「ああ」レオが言った。「言わなかったな」
「なぜです」マレーナは言った。
「なぜ、と言われても」レオが言った。困ったように。「あんたの才なんざ、初めから知ってる。十年、競ったんだ。今さら欲しいも何もない。――俺が欲しいのは」
彼は、また、銅貨を押さえた。
「あんただ」彼は言った。「あんたの才じゃない。あんたが、隣にいてくれることだ」
マレーナは、その言葉を、聞いた。
あんただ。あんたの才じゃない。
彼は、それをごく当たり前のことのように言った。困ったような顔で。なぜそんなことを訊くのか、という顔で。彼にとっては、初めから当たり前だった。十年前から、彼が見ていたのは彼女の才ではなく、彼女だった。
だから彼は、商談の言葉に、才を混ぜなかった。混ぜる必要が、なかった。
マレーナの胸の底で、十年答えのなかった問いが、音もなく、解けた。
「マレーナ」レオが言った。「俺が、一番欲しかったのは」
彼は、襟の銅貨から、手を離した。
「値じゃない」彼は言った。「あの握手だ。十年前、競りの台で、あんたが八枚をつけたとき。負けたのに、俺はあんたの手が欲しいと思った。値で勝つより、あの手と組みたかった」
彼は、右手を、差し出した。
日に焼けた、手綱の胼胝のある手だった。十年、競りの台の向こうにあった手だった。
マレーナは、その手を、見た。
十年、彼女は握手で人を量ってきた。手の固さ。温度。約束を守る気。掌で、相手の本気を読んできた。
けれど、この手は、もう、量る必要が、なかった。
彼女は、自分の右手を差し出した。中指に羽根ペンの胼胝のある手。左の手のひらに荷縄の固い筋のある手。十年、符牒帳を握り、算盤を弾き、握手を刻んできた手だった。
二つの手が、厩の藁の匂いの中で、触れた。
レオの手が、彼女の手を、握った。
固かった。温かかった。十年前、競りの台で見た手だった。あのときは、台の向こうにあった。今、それが、彼女の手を、握っていた。
マレーナは、握り返した。同じだけの力で。
握手は、看板ではなく、人に向けられる。十年、彼女がそう信じてきたことだった。今、その握手が彼女自身に向けられていた。看板でも才でもなく。マレーナという、一人の人間に。
「商いは」彼女は言った。
レオが、彼女を、見た。
「商いは」マレーナは言った。「誰がやるかではありません。誰が、信じられるか、です」
それは、十年前、競りのカタルシスで放った言葉だった。父から受け継いだ言葉だった。商いの根本を、たった一行に刻んだ言葉だった。
けれど今、彼女はそれを、商いの話として、言っていなかった。
「人生も」彼女は言った。「同じです。誰とやるか、ではなく。誰を信じられるか。――わたくしは十年競った相手を、生涯信じられる相手として選びます」
「俺を、か」レオが言った。
「あなたを」マレーナは言った。
レオが、握った手に、力を込めた。
痛むはずだった。塞がったばかりの腕では、なかった。右の手だった。けれど、その右の手が、震えていた。
「あんたが」レオが言った。「震えてるのは、見たことがある。峠で。だが、俺が震えるのは」
「初めてです」マレーナは言った。
「ああ」レオが言った。「かなわんな」
彼は、そう言った。けれど、目を、逸らさなかった。十年、決まりが悪いたびに逸らしてきた目を、今は、逸らさなかった。
マレーナは、懐から、符牒帳を取り出した。
十年、肌身離さず持ってきた帳面だった。角がすり減り、紙が手擦れで丸くなっていた。十年の握手が、一行ずつ、刻まれていた。ゴットの手。ガービンの手。タウンの手。ヴィンスの手。そして、レオの血を拭いた布が、その隣に、まだ畳んであった。
彼女は、新しい頁を、開いた。
そこへ、二つの名を、並べて書いた。
マレーナ・トルプ。
その隣に。
レオ・ハルダー。
「これは」レオが言った。覗き込んで。「何の頁だ」
「最初の頁です」マレーナは言った。「二人の路の、最初の頁です」
「商会の、統合の」
「いいえ」マレーナは言った。「二人の名の、最初の頁です」
レオが、その二つの名を、見ていた。並んで書かれた、二つの名を。
彼は、何も言わなかった。けれど、右手が、襟の銅貨へ伸びかけて――止まった。今は、ごまかす必要が、なかった。
「あんたの帳面に」レオが言った。「俺の名が、ある」
「ええ」マレーナは言った。「十年、競った相手の名が」
「敵の名を」レオが言った。「書くのか」
「敵では」マレーナは言った。「ありません。もう」
彼女は、筆を、置いた。
「伴侶の名です」彼女は言った。
その言葉を、彼女は、初めて、声に出した。声にすれば変わってしまう、と峠で思った言葉だった。今、彼女は、変えてしまってよかった。変わるべきときが、来ていた。
厩の戸が、開いた。
ゴットだった。塩で荒れた太い手で、戸を押して、入ってきた。後ろに、ヴィンスがいた。それから、北のカルンから来たという、若い織り手の娘――ニナがいた。
「親方」マレーナは言った。「いつ、峠を」
「昨日だ」ゴットは言った。「峠を越えてきた。あんたらの、めでたい話を、聞いてな」
「まだ」マレーナは言った。「誰にも、言っていません」
「言わんでも」ゴットは言った。「分かる。十年、人を見てきた目だ。あんたらの顔を見りゃ、分かる」
ゴットは、握った二人の手を、見た。
「握手しとるな」彼は言った。
「ええ」マレーナは言った。
「指輪は」ゴットは言った。「せんのか」
「指輪より」マレーナは言った。「握手のほうが、わたくしたちらしいので」
ゴットが、声を立てて、笑った。坑の岩を割るような笑いだった。
「そうだろうな」彼は言った。「あんたらには、指輪より、握手だ。それが、いちばん重い」
「親方」レオが言った。「あんたが、いちばんに祝ってくれるとはな」
「当たり前だ」ゴットは言った。「わしが十年、欲しかった握手だぞ。それが、今度は伴侶の握手になった。――これより、めでたいことがあるか」
ヴィンスが、前へ出た。几帳面な男が、珍しく、声を詰まらせていた。
「マレーナさん」彼は言った。「父が――ドルフが、生きていたら。きっと、何か、言ったでしょう」
「ヴィンス」マレーナは言った。
「父は」ヴィンスが言った。「面と向かって、人を褒めない男でした。けれど、今日のことは、きっと、符牒帳に、一行、書いたと思います」
マレーナは、その言葉を、聞いた。
符牒帳に、一行。父ドルフが、息子を褒めなかった父が、今日のことを、一行書く。彼女が、十年、人の手を一行ずつ刻んできたように。
「ヴィンス」彼女は言った。「あなたの父上の頁を、わたくしは十年、一行ずつ書くと約束しました。今日のことも書きます。――ドルフの息子が、わたくしたちの路を頂まで運んでくれた、と」
ヴィンスが、頭を下げた。深く、長く。
ニナが、その隣で、北の訛りで、小さく言った。
「おめでとう、ございます」
厩に、人が、満ちていた。
派手な式ではなかった。神官も、祝詞も、白い衣装も、なかった。乾いた藁の匂いと、馬の鼻息と、塩で荒れた親方の手と、几帳面な隊商頭の涙と、北の織り手の訛りの祝いの言葉が、あった。
看板で繋いだ人々では、なかった。人で繋いだ路の、人たちだった。
マレーナは、レオの手を、握ったまま、その人々を、見た。
十年前、彼女は、看板の下で生きていた。看板を失って、独りになった。けれど今、独りでは、なかった。
ゴットが、懐から、何かを取り出した。
布に包まれた、小さなものだった。彼は、それを、開いた。
銅貨だった。一枚の、古い銅貨。
「これは」マレーナは言った。
「十三の冬」ゴットは言った。「あんたが初めて、わしと握手した日だ。あの日、あんたは塩を八枚で買った。釣りに、この銅貨を一枚寄越した。坑夫への祝儀だと言ってな」
彼は、その銅貨を、掌に乗せた。
「わしは」ゴットは言った。「それを、十年、取っといた。あんたの、最初の握手の銅貨だ」
マレーナは、その銅貨を、見た。
十三歳の冬。十年前。彼女が、初めて、自分の名で握手をした日。父の看板の下で、けれど、確かに、自分の手で交わした、最初の約束。
「親方」彼女は言った。「なぜ、それを、今」
「今が」ゴットは言った。「返すときだからだ。あんたの路は、ここから、二人の名になる。なら、最初の銅貨は、二人のものだ」
彼は、その銅貨を、マレーナの手に――握り合った二人の手の上に、そっと、乗せた。
冷たい銅貨だった。けれど、握った手の温度で、すぐに、温かくなった。
レオが、その銅貨を、見た。
彼の襟には、別の銅貨が、縫い込んであった。父から渡された、初取引の銅貨だった。十年、考えるたびに、照れるたびに、指で押さえてきた銅貨だった。
「俺の襟にも」彼は言った。「銅貨が、ある」
「ええ」マレーナは言った。「知っています」
「親父の」レオが言った。「初取引の銅貨だ。十年、押さえてきた」
「ええ」マレーナは言った。「あなたが、決まりが悪いたびに、押さえる銅貨です」
「気づいてたのか」
「十年」マレーナは言った。「見てきましたから」
二人の手の上に、ゴットの銅貨が、乗っていた。
マレーナの、十三の冬の銅貨。
レオの、襟の、父の銅貨。
二枚の銅貨が、二人の路の、始まりにあった。一枚は、握り合った手の上に。一枚は、隣の男の襟に。
マレーナは、その銅貨を、見た。それから、握った手を、見た。レオの手と、自分の手。固い掌と、固い掌。十年、別々に物を握ってきた二つの手が、今、一つの銅貨を、一緒に握っていた。
「ゴット親方」マレーナは言った。「この銅貨、預かります。二人で」
「ああ」ゴットは言った。「預かれ。二人でな」
マレーナは、その銅貨を、符牒帳の、新しい頁に挟んだ。二つの名を書いた頁だった。マレーナ・トルプ。レオ・ハルダー。その名の間に、十三の冬の銅貨が、挟まった。
彼女は、符牒帳を、閉じた。
角のすり減った、手擦れの帳面が、二人の名と、一枚の銅貨を、抱えて、閉じた。
日が、傾いた。
ゴットも、ヴィンスも、ニナも、それぞれの卓へ、引き上げていった。天秤亭の食堂で、ささやかな祝いの膳が、用意されていた。葡萄酒が、注がれた。塩の利いた、北の毛織の谷から届いた羊の肉が、焼かれた。
マレーナとレオは、厩を出て、その膳へ向かった。歩きながら、レオが、言った。
「これで」彼は言った。「商会も、一つになるな」
「ええ」マレーナは言った。
「名も、一つに」
「いいえ」マレーナは言った。「名は、二つです。並べて、繋ぎます」
「二つの名で」レオが言った。「繋ぐのか」
「ええ」マレーナは言った。「あなたの名と、わたくしの名で」
彼女は、立ち止まった。夕暮れのオーレンの広場が、目の前にあった。荷夫が、最後の荷を、下ろしていた。塩の樽。毛織の梱。家の名の書かれた荷が、夕日に照らされていた。
「次の路は」マレーナは言った。
レオが、彼女を、見た。
「あなたの名で」マレーナは言った。「繋いでもらいます」
それは、レオが、厩で言った言葉への、応えだった。
次の路は、二人の名で繋ごう、と彼は言った。商談の言葉でしか、言えなかった求婚だった。
マレーナは、同じ言葉で、応えた。次の路は、あなたの名で繋いでもらいます、と。商談の言葉を借りた、二人だけの、応えだった。
誰が聞いても、事業の話に聞こえた。商会の統合の話に。けれど、二人には、分かった。それが、求婚と、その応えだということが。
「かなわんな」レオが言った。
いちばん、ほどけた声だった。
膳の支度が、整った。
二人は、卓に着いた。葡萄酒の碗が、二つ、並んだ。レオが、塞がったばかりの左手で、碗を持とうとした。少し、ぎこちなかった。
「右で」マレーナは言った。
「左も」レオが言った。「動かさんと、固まる」
「無理を」マレーナは言った。「しないでください」
「あんたに」レオが言った。「無理をするなと言われる日が、来るとはな。十年、競ってた相手に」
「ええ」マレーナは言った。「十年、競った相手にです」
二人は、碗を合わせた。澄んだ音が、夕暮れの食堂に、落ちた。
葡萄酒を、一口、飲んだ。
マレーナは、符牒帳を、卓に置いた。閉じたままだった。二つの名と、一枚の銅貨を、抱えた帳面だった。
「レオ」彼女は言った。
「ああ」
「資本の戦は」彼女は言った。「終わりました。大陸の値の戦は」
「ああ」レオが言った。「終わった」
「けれど」マレーナは言った。「路は、終わりません」
彼女は、窓の外の、広場を、見た。その向こうの、遠い空を。
「東に」彼女は言った。「まだ、誰も路を引いていない場所が、あります」
レオが、碗を、置いた。
「東」彼は言った。
「香辛料」マレーナは言った。「薬種。大陸の誰も、まだ通していない品が、東の向こうにあります。資本でなく、信用で。それを、通せたら」
「あんた」レオが言った。「今日、伴侶になったばかりで、もう、次の路の話か」
「ええ」マレーナは言った。
彼女は、わずかに、口元を、緩めた。自分でも、気づかないうちに。
「それに」彼女は言った。「もう一つ、考えていることが、あります」
「何だ」
「銀を」マレーナは言った。「運ばずに、商う方法です」
レオが、眉を、寄せた。
「銀を、運ばずに」彼は言った。「どうやって、商う」
「紙で」マレーナは言った。「信用の紙です。手形、と言いましょうか。あるいは――信用の、組合」
彼女は、符牒帳の角を、指の腹で、撫でた。
「十年、わたくしはこの一冊に人の信用を刻んできました。もし、この信用を一冊の帳面の外へ出せたら。多くの人が、銀を運ばずに信用だけで商えたら」
「そんなものが」レオが言った。「できるのか」
「分かりません」マレーナは言った。「まだ、誰も、やっていません。けれど」
彼女は、窓の外を、見た。
「まだ無い路と、まだ無い仕組みを、読むのが、わたくしの仕事です」彼女は言った。「市場を読むだけでは、ありません。次の路を、次の仕組みを読んで、種を蒔く。――それが、たぶん、わたくしの本当の仕事です」
レオは、しばらく、彼女を、見ていた。
それから、口の端を、上げた。今度は、腕に響かなかった。
「かなわんな」彼は言った。
「あんたは」レオが言った。「いつも、俺の一歩先だ。十年前から、ずっと」
「いいえ」マレーナは言った。「これからは、一歩先では、ありません」
「と、言うと」
「並んで」マレーナは言った。「歩きます。あなたと。二人の名で」
彼女は、右手を、卓の上に、開いた。
レオが、その手の上に、自分の右手を、重ねた。固い掌が、固い掌に、重なった。十年、別々に物を握ってきた二つの手だった。
窓の外で、オーレンの広場に、篝火が、灯った。
一つ、また一つ。荷を下ろし終えた広場に、夜の灯が、ともり始めた。塩の樽が、毛織の梱が、家の名を抱えて、並んでいた。看板で繋いだのではない荷だった。人で繋いだ、路の荷だった。
マレーナは、重なった二つの手を、見た。
十年前、彼女は、看板の下で、独りだった。看板を失って、もっと独りになった。
けれど今、卓の上で、二つの手が、重なっていた。
符牒帳が、卓の隅で、閉じていた。
角のすり減った、手擦れの帳面だった。中には、十年の握手が、一行ずつ、刻まれていた。レオの血を拭いた布が、畳んで挟まっていた。二つの名が、並んで書かれていた。マレーナ・トルプ。レオ・ハルダー。その名の間に、十三の冬の、一枚の銅貨が、挟まっていた。
十年の握手と、一日の血と、二つの名と、一枚の銅貨を、その帳面は、静かに抱えていた。
篝火の灯が、その表紙を、淡く照らした。
まだ、何も書かれていない、東の路の頁を、めくる手は、明日の朝に、取っておくことにした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第四十八話「二人の名で」。第二巻の、最後の話です。
第二巻は、北の凍る谷から始まりました(第三章)。レオの父が見捨てた谷へ、二人で路を拓きに行く話。それから、大陸の資本との、全面の戦(第四章)。剣も、銀も、噂も出てくる、いちばん長い戦でした。その締めくくりが、この結婚です。
書いていて、いちばん気をつけたのは、レオに「うまいこと」を言わせないことでした。彼は十年、気持ちを商談の言葉でしか言えない男です。結婚を申し込むときくらい、まっすぐ言えばいい——そう書いてしまいたくなる。でも、それは彼ではありません。だから彼は、最後まで「次の路は、二人の名で繋ごう」という、事業の話みたいな言葉で求婚します。治らない不器用です。
けれど一つだけ、彼はいつもと違うことをします。マレーナの「目」を、一つも欲しがらない。十年惚れ込んできた彼女の才を、一言も口にしない。ただ、彼女の名を呼ぶ。「あんたの才じゃない。あんたが、隣にいてくれることだ」と。マレーナがずっと抱えてきた傷——目も帳面もない、ただの自分を、それでも誰かが選ぶか——その答えを、彼は、不器用なまま、行動で差し出します。
そして二人は、指輪でなく、握手で結ばれます。符牒帳に、二つの名を並べて書く。ゴット親方が、十三の冬の銅貨を返しに来る。派手な式は、ありません。この二人には、それが、いちばん似合うと思いました。
さて——綺麗に終わったように見えて、マレーナは最後に、まだ無い東の路と、まだ無い「信用の紙」の話を、ふと口にします。次の第三巻は、未踏の東方路と、銀を運ばずに商う仕組み——いまで言う、手形や信用組合の、いちばん最初の芽の話になります。市場を読む商人から、まだ無い産業を読んで種を蒔く人へ。マレーナの、本当の仕事が、ここから始まります。
二人の路は、ここから、二人の名で続きます。
◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇
「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。第二巻、完結しました。資本の戦を越えた二人が、握手と符牒帳で、伴侶になりました。第三巻、まだ誰も引いていない東の路へ。二人の名で。
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