第28話: 父の冬
戸が閉まると、雪の音まで部屋の中へ入ってきたようだった。
レオは卓の手前で立ち止まった。手には何もない。葡萄酒の杯も、瓶も、いつもの軽口も。マレーナは、その空いた両手を見た。十年握手の重さで人を読んできた目が、今夜は何も持たない手の所在なさを読んでいた。
「お座りください」マレーナは言った。「白湯しか、ありませんけれど」
「いい」
レオは向かいの腰掛けに腰を下ろした。卓の上には、効かなかった紙が一枚あった。マレーナは、それをそっと脇へ寄せた。今は、それを二人の間に置きたくなかった。
しばらくのあいだ、レオは何も言わなかった。
襟の銅貨に、右手がかかっていた。北の谷に入ってから、ずっとそうしている手だ。けれど今夜のその手は、いつものように考えるためでも照れを隠すためでもなかった。何かに、すがっていた。
マレーナは急かさなかった。
十年、人の沈黙を急かさない流儀だった。沈黙は、言葉を選んでいる証だ。この男は今、生まれて初めて口にする言葉を喉の手前で何度も組み直している。マレーナには、それが分かった。
「あんたが昼間、谷で見たもの」
ようやく、レオが口を開いた。低い声だった。
「ニナという娘に、連れて行かれたんだろう」
「……ええ」マレーナは答えた。「織り小屋を、いくつか。それから——」
「墓を、見たか」
マレーナは答えなかった。答えの代わりに、ただレオの目を見た。
レオは、それで分かったらしかった。彼は、ゆっくりと目を伏せた。
「あの墓を掘らせたのは」彼は言った。「俺の家だ」
窓の外で雪が、音もなく降り続けていた。
「二十数年前だ」レオは、卓の一点を見ていた。「俺は、まだ六つか七つだった。覚えてはいない。覚えてはいないが、後で何度も聞かされた」
銅貨に、指がかかったままだった。
「うちは——ハルダー商会は、昔からあの谷と組んでいた。フェルン谷の毛織を、買い支えていたんだ。毎年来季の毛をぜんぶ買う約束をして、判を押して。谷はそれで、食っていた。羊を飼い、織って、うちが買う。それで、まわっていた」
「ええ」マレーナは静かに言った。「聞きました。谷の側から」
「そうか」レオの声が、わずかに掠れた。「なら、知っているんだな。来なかった、という話も」
「……ええ」
レオはひとつ、息をついた。長い息だった。
「ある冬、寒波が来た。羊が、谷でたくさん死んだ。毛が、足りなくなった。毛織の相場も、その年は崩れていた。買っても、損になる年だった」
彼の指が、銅貨を固く握り込んだ。
「親父は、約束を破った」
その一語をレオは卓の上に置くように言った。
「南で、その冬に別の産地が安く毛を出した。寒波の来なかった、暖かい土地だ。親父は、そっちへ乗り換えた。フェルン谷の毛は、買わなかった。判を押した紙は、谷に残したままだ。商人としては——」
彼は、そこで言葉を切った。喉の奥で、何かを飲み込む音がした。
「商人としては、正しかったのかもしれん。崩れた相場で死んだ羊の毛を、約束だからと高く買えば、うちが傾いた。損を切るのは、商いの基本だ。親父は、損を切った」
「レオ」
「だが」レオは、マレーナの声を、静かに遮った。「谷は、その紙を頼りに冬を待っていた。判があるから、毛を売れば銭が入ると思って。だから、別の手を打たなかった。打てたかもしれん手を、打たなかった。うちの紙を、信じていたから」
彼の声が、低く沈んだ。
「親父が来なかった冬、谷は飢えた。糧が尽きた。羊も死んで、毛も売れなくて、銭も入らなくて。あの谷で——」
レオは、顔を上げた。マレーナを、まっすぐ見た。
「何人、死んだと思う」
マレーナは、答えられなかった。
「俺も、正確な数は知らん」レオは言った。「聞くのが、怖くて、聞けなかった。だが、ニナの父と母は、その中にいた。あんたが今日見た、あの二つの石だ」
マレーナは卓の上で、自分の掌をそっと開いた。
昼間墓石に触れたあの冷たさが、まだ薄く残っている気がした。固く冷たく、けれど誰かが何度も雪を払った跡のあるあの石。あれを掘らせたのが目の前のこの男の家だと、彼は今自分の口で言った。
「あなたは」マレーナは、ゆっくりと言った。「その冬のことを、いつ知ったのですか」
「継いだときだ」レオは言った。「親父が死んで俺が商会を継いだとき、古い帳面を全部検めた。北の毛織の記録が、ある年でぷつりと途切れていた。それまで毎年あった買い付けが、ある冬を境に何十年も無い。おかしいと思って、古い番頭に訊いた」
彼は銅貨を握ったまま、低く続けた。
「番頭は、長いこと黙っていた。それから、教えてくれた。あの冬のことを。谷を、見捨てたことを。何人埋めたか、という話まで」
マレーナはその横顔を見た。
豪放な男だった。競りの広間で物怖じせず、関所で荷を止められても声を荒げず、いつも「かなわんな」と笑って場を緩める男。その顔が今、すっかりほどけていた。残っていたのは、二十数年前の冬をたった一人で背負ってきた男の剥き出しの顔だった。
「それから、俺は」レオは言った。「北へ、行けなくなった」
「毛織は、扱った」レオは続けた。「カルンの市の商人とは、普通に商いをした。父の代からの伝手で、毛を仕入れることもあった。だが——」
彼の指が、銅貨の上でわずかに震えた。
「フェルン谷には、近づけなかった。あの谷の名が出るたびに、帳面を閉じた。誰かがカルンの古い縁の話をしかけると、別の話に変えて、遮った」
「ローレンの若い使いのときのように」マレーナは静かに言った。
レオの目が、わずかに見開かれた。
「……気づいていたのか」
「ええ」マレーナは言った。「あのとき、あなたは鉄の話で遮りました。そして、銅貨に手をやった。ゴット親方が父御の縁を口にしたときも、同じでした。北の名が出るたび、あなたの手はいつもそこへ行きました」
レオは、自分の手を見た。銅貨にかかった、自分の右手を。
「俺は」彼は言った。「逃げていた。継いだのは商会だけじゃない。あの冬も、一緒に継いだんだ。だが、それを背負うのが怖くて、二十数年谷から目を逸らしてきた。値で覆って、伝手で迂回して、近づかずに済ませてきた。今日まで」
彼は、顔を上げた。
「あんたが、北へ行くと言うまで」
マレーナは卓の向こうのレオを見た。
「だから、組んでよかった、の続きは今夜だ」彼は言った。声が、低く、かすれていた。「あんたと組んで北の毛織の路を拓くなら、あの谷を避けては通れん。逃げてきた冬の真ん中に、あんたを連れて行くことになる。それを黙って、あんたに段取りさせるわけには、いかなかった」
彼は銅貨を握ったまま、深く息を吸った。
「俺の商会の、古い話だ」彼は言った。「あんたなら、笑わないと思って、話す」
マレーナはその言葉の中に、十年分のものが詰まっているのを聞いた。
笑わないと思って。——それは、ずっと一人で背負ってきた男が、ようやく一人をやめようとする声だった。
「笑いません」マレーナは言った。「笑うはずが、ありません」
「すまん」レオは言った。「あんたの良い紙を今日潰したのは、俺の家の冬だ。あの紙は、谷を生かす紙だった。なのに、ハルダーの名が絡んだだけで、根こそぎ拒まれた。あんたの十年の読みが、俺の家の二十数年前の不義理に潰された」
「レオ」
「あんたは、これから何度も俺のこの名のせいで損をする」彼は言った。「北で。たぶん、北だけじゃ、ない。父の代の不義理は、俺が思っているよりあちこちに残っている。あんたが組んだ相手は、そういう名を背負った男だ」
その銅貨がハルダーの名そのものなのだと、マレーナは思う。
初取引の記念だと、いつか聞いた。父から渡された、と。それは、レオが商人として歩み始めた最初の証であり、同時に父の罪を生まれたときから首にかけて生きてきた重さそのものだった。
彼は今その銅貨を握りしめながら、自分の名の重さを卓の上に置こうとしている。あんたは、この名のせいで損をする、と。組んだ相手を、突き放すように。
マレーナは卓の上で、静かに掌を開いた。
そして、自分でも思いがけないほど、その思いがすっと胸に降りてくるのを感じた。
父は、わたくしを「目」で愛した。お前の目はわしより先を読む、と。十三で帳場を任せ、十年差配として頼った。それは誇りだった。けれど、その奥にずっと、一つの問いがあった。目も帳面もない、ただのわたくしを、それでも誰かが選ぶだろうか——。
この男は、自分の名を「罪」で量っている。あんたは、この名のせいで損をする、と。
わたくしは、自分を「目」で量られてきた。お前の目は先を読む、と。
違うようでいて、二人とも同じことをしていた。背負った看板で、自分の値を勘定していた。
マレーナは、レオを見た。
「あなたは、ご自分のことを損をさせる名だと言いました」彼女は言った。「過去のせいで、わたくしが損をする、と」
「ああ」
「では、お訊きします」マレーナは言った。「いま、わたくしの目の前にいるのは二十数年前のお父上ですか。それとも、今夜手ぶらで戸を叩いたレオ・ハルダー殿ですか」
レオが言葉に詰まった。
マレーナは卓の上で、掌をそっと閉じた。
握手をするときの、いつもの形だった。相手の本気を量るときの、いつもの手。
「あなたの過去は」彼女は静かに言った。「あなたの値を、下げません」
雪が、窓を白く曇らせていた。
「わたくしは、今のあなたと商います」
言葉は、短かった。商談の口調と、同じだった。けれどその短さの中に、マレーナは自分でも気づかぬまま長く沈めてきたものを乗せていた。
看板でなく、人を見る。彼女がずっと誇りにしてきた信条だった。けれどそれは、彼女自身が——ずっとそう見られたかったことの、裏返しだった。
目も帳面もない、ただのわたくしを、それでも選んでほしい。
そう願ってきた者だけが、こう言える。あなたの名でなく、あなた自身と商う、と。それは、施しではなかった。マレーナにとってそれは——自分が一番欲しかった言葉を、初めて誰かに渡すということだった。
「マレーナ」
レオが彼女の名を呼んだ。声が、震えていた。
「いいのか」彼は言った。「俺は、こんな名だぞ。あんたが背負うことになる」
「背負うのではありません」マレーナは言った。「商うのです」
レオはしばらく、何も言えずにいた。
銅貨にかかった手が、ゆっくりとほどけた。卓の上に、その手が開いたまま置かれた。胼胝の固い、荷馬車の手綱でできた商人の手だった。
「十年」レオが、ようやく言った。「競りであんたとぶつかるたびに、思っていた。この女には、何もごまかせん、と。値を盛っても嘘をついても、ぜんぶ見抜かれる。だから、敵わなかった」
彼は、自分の開いた手を見ていた。
「だが、これは、見抜かれたくなかった」彼は言った。「この冬のことだけは、墓まで持っていくつもりだった。あんたにだけは、知られたくなかった。十年、唯一俺を本物だと認めてくれた相手に——裏切り者の息子だと思われたくなかった」
「思いません」マレーナは言った。
「今、話したぞ」
「ええ。だから、思いません」マレーナは言った。「裏切り者は、逃げます。逃げ続けます。逃げない者を、人は裏切り者とは呼びません」
レオが顔を上げた。
「あなたは今夜、逃げるのをやめました」マレーナは言った。「二十数年、逃げてきた冬の真ん中へ、自分から戻ろうとしている。それは、お父上にできなかったことです」
レオの目が、わずかに潤んだ。豪放な男が、卓の向こうでただ黙ってそれを堪えていた。
マレーナは卓の上で、もう一度掌を開いた。
今度は、握手のためではなかった。ただ、開いた。十年人の手を読んできた掌を、何も量らずただ相手の前へ。
「ひとつ、お訊きしてもいいですか」彼女は言った。
「ああ」
「その銅貨は」マレーナは言った。「あなたを、苦しめてきましたか」
レオは、襟の銅貨にもう一度手をやった。けれど今度は、握りしめなかった。指の腹でそっと、その縁をなぞった。
「親父が俺に初めての取引をさせたとき、これをくれた」彼は言った。「『これがお前の最初の儲けだ。商人の証に、持っていろ』と。俺は、ずっと誇りにしてきた。ハルダーの名と、この銅貨を」
彼の指が銅貨の上で止まった。
「だが、あの冬を知ってから、重くなった。これは、儲けの証じゃない。逃げた証だ。損を切って人を埋めた、その名の証だ。考えるたびに、握っていた。握れば、まだ自分はハルダーだと、確かめられる気がして」
「いま、握っていません」マレーナは言った。
レオが、自分の指を見た。銅貨の縁をただなぞっている、その指を。
「ああ」彼は、少し驚いたように言った。「握って、いないな」
「握らなくても」マレーナは言った。「あなたは、ここにいます」
窓の外の雪は、いつのまにか勢いを増していた。
二人はしばらく、何も言わなかった。けれどそれは、北の谷に来て以来初めての、軽い沈黙だった。互いに何かを隠した沈黙ではなく、互いの一番奥を見せ合った後のほどけた静けさだった。
マレーナは、その静けさを聴いていた。
雪の降る音。卓の上で、レオの呼吸が少しずつ落ち着いていく音。十年競りの広間でぶつかり半年隣で路を拓いてきた男の、これまで一度も聞いたことのなかった無防備な息の音だった。
「だが」レオが、ふいに言った。
その声にわずかに、いつもの芯が戻っていた。
「だが、谷は、まだ許しちゃいない」
マレーナは頷いた。
「ええ」彼女は言った。「許していません」
「あんたが、今、俺を商うと言ってくれた」レオは言った。「それで、俺は救われた。正直に言う。救われた。だが、それと、谷の話は、別だ。あんた一人が俺を許しても、谷の戸は、開かん」
「ええ」マレーナは言った。「開きません」
「あの墓は、あんたが許して消えるもんじゃない」レオは言った。「あの冬は、あんたの十年の中にも俺の二十数年の中にも、解く鍵が無い。あれを背負っているのは、谷だ。オトマルだ」
マレーナは、そのとおりだと思った。
昨日、谷を下りる道で彼女自身がそう思ったのだ。あの戸を開けられるのは、紙ではない。あの冬を、自分のものとして背負える者だけだ、と。
レオが、卓に置いた手を握り直した。
けれど今度は、銅貨ではなかった。自分のもう一方の手を、固く握った。何かを、決めるときの形だった。マレーナは、それを見た。十年人の手で人を読んできた目が、その握り方の中にひとつの決意を読んだ。
「マレーナ」レオが言った。「明日、俺が谷へ行く」
「レオ」
「あんたの紙じゃない。俺の足で、行く」彼は言った。「父の代わりに、頭を下げる。あの冬のことを、ハルダーの当主としてオトマルに詫びる。許されるとは思っていない。一度で済むとも思っていない。だが、誰かが、あの冬の前に立たなきゃならん。それは、あんたじゃない。俺だ」
マレーナは、息を呑んだ。
値で覆うのではない。前貸しの紙でも、南の信用でも、多商材の段取りでもない。この男は人として、贖いに向かおうとしている。二十数年逃げてきた冬の真ん中へ、自分の足で。
「止めても、無駄ですね」マレーナは言った。
「ああ」レオは、ほんの少し、口の端を上げた。「無駄だ」
その笑みは、いつもの「かなわんな」の軽さとは違っていた。けれどたしかに、レオ・ハルダーの笑みだった。逃げていた男ではなく、戻ると決めた男の。
「では、わたくしは」マレーナは言った。「前に出ません」
レオが、彼女を見た。
「あなたが頭を下げる場所にわたくしが立てば、それはわたくしの贖いになってしまいます」マレーナは言った。「これは、あなたの冬です。あなたが、あなたの名で、立つべきです。わたくしは——隣で、見ています」
レオはしばらく、マレーナを見つめていた。
「組んだ相手があんたで、よかった」彼は言った。「商いの話じゃない、というのを、この前言ったな」
「ええ」
「あれの、続きを言う」レオは言った。「今夜は、言える気がする」
マレーナは、待った。
けれどレオは、そこで口ごもった。襟の銅貨に、手が半分かかった。十年、気持ちを商談の言葉でしか言えなかった男だ。今夜も、その先の言葉はすぐには出てこなかった。
「……いや」彼は、結局、手を引いた。「これは、谷の話が片付いてから、言う。今、言うと、墓に隠れて言ったみたいになる」
「左様ですか」マレーナは言った。
その「左様ですか」には、いつもの冷たさがなかった。むしろ、ほんの少し温かかった。レオはそれに気づいたのか、決まり悪そうにもう一度銅貨に手をやってすぐに引いた。
マレーナは、その手の所在なさを見ていた。
そして、ふと思った。この男は、ずっと商談の言葉でしか想いを言えない。組みたい、を取引の申し出のように言い、案じている、を筋の話のように言う。けれど今夜、彼は一番言いにくい言葉を商談ではなくまっすぐ言った。あんたなら笑わないと思って、話す、と。
それで、十分だった。今夜は、それで十分だった。
レオが立ち上がった。
「遅くまで、すまなかった」彼は言った。「明日は、早い」
「ええ」マレーナは言った。「お休みなさい」
レオは戸口で、一度振り返った。
「マレーナ」彼は言った。「ありがとう」
その一言は、短かった。商談の言葉でも、軽口でもなかった。ただ、まっすぐな、礼だった。
戸が閉まった。
マレーナは一人になった部屋で、しばらく動かなかった。卓の上には、脇へ寄せた効かなかった紙があった。彼女は、それを手元へ戻した。
昼間谷の墓石に触れた掌の冷たさが、まだ薄く残っている気がした。けれど今は、その冷たさが少しだけほどけていた。
戸を開けるのは、紙ではない。あの冬を背負える者だけだ——昨日、そう思った。そして今夜、その者が自分の足で立つと決めた。
マレーナは卓の上で、もう一度掌を開いた。
十年、この掌で人の手を読んできた。固いか、温かいか、約束を守る気があるか。けれど今夜、彼女が読んだのは人の手ではなかった。何も持たない、空いた両手だった。葡萄酒の杯も軽口も、銅貨さえ手放した剥き出しの手。そこに、一人の男がいた。
看板の奥に、人がいる。
そしてその人が、過去の自分でなく今のこの人を選んでくれと、言葉にせず差し出していた。
マレーナは、その差し出された手を今夜たしかに受け取った。
窓の外で雪が、降り続けていた。明日、その雪の中を一人の男が二十数年逃げてきた冬の真ん中へ頭を下げに行く。
マレーナは、効かなかった紙をもう一度卓の上で撫でた。
冷たい紙だった。けれど、その冷たさの底に、ひとすじ温かいものが通り始めていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第二十八話「父の冬」。レオが、自分の口で、あの冬を語る話です。
この銅貨は、レオの名そのものとして設計しました。初取引で父から渡された誇りの証であり、同時に、父の罪を生まれたときから首にかけて生きてきた重さです。彼が考えるとき・照れるとき、いつもこの銅貨に手をやる癖は、第一話からの伏線でした。北の谷に入ってからは、ずっと握りしめている。それが「逃げた証を、まだ自分はハルダーだと確かめるために握る」手だったと、この回でようやく明かしました。語り終えたとき、彼が銅貨を握っていないことに自分で気づく——あの一瞬を、書きたかったのです。
マレーナの「あなたの過去は、あなたの値を下げません。わたくしは、今のあなたと商います」は、彼女が一番欲しかった言葉を、初めて誰かに渡す場面です。父に「目(才能)」で愛された彼女は、ずっと「ただのわたくしを、それでも誰かが選ぶだろうか」という問いを胸に沈めてきました。だから、人の名でなくその人自身と商うと言えるのは、そう見られたかった者だけなのです。施しではなく、自分の救いの希みを、そのまま相手へ手渡している。じれじれの奥にある、もう一本の縦糸です。
けれど、感動で全部は解決しません。マレーナが許しても、谷の戸は開かない。あの冬を背負っているのは、谷であり、オトマルだからです。だからレオは、紙でも値でもなく、自分の足で頭を下げに行くと決めます。次の話で、彼は二十数年逃げてきた冬の、その真ん中に立ちます。
◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇
「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。第二巻、北の毛織の谷編。父の冬の、その先へ。
☆評価・ブックマーク・ご感想をいただけると、次の話を書く手が速くなります。




