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『商いは男の仕事だ』と追放された交易令嬢、十年の商売敵と組んで大陸一の交易路を拓く  作者: 歩人


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第27話: あの冬の墓

 雪を踏む足音が、二つ重なった。


 片方はマレーナの不慣れな足取りで、もう片方は雪の薄いところを選んで進む谷の者の足だった。ニナの後れ毛が頭巾の縁で白く凍っていた。


「こっちです。氷の下、川なんで。端っこ歩いてください」


 ニナが振り返って、赤くひび割れた手で道の端を指した。


「川、ですか」マレーナは足を止めた。「凍った下を、水が」


「流れてます。ずっと。冬でも止まらないんです、この川だけは」


 マレーナは足の裏でその流れを探した。固い雪の、そのまた下。たしかに何かがごく低く震えている気がした。十年、握手の重さと荷の沈みを掌で量ってきた指が、いまは足の裏で見えない水音を読もうとしていた。




 ニナが朝、宿へ来た。


 昨日、効かない紙を懐に谷を下りた。その夜は眠れなかった。卓の上の紙を、何度も指で撫でた。そして朝になると、宿の戸を遠慮がちに叩く音がした。ニナだった。


「あの……差配さんに、見てほしいものが、あって」


 ニナは、織りかけの反物を抱えて立っていた。


「伯父さんには、内緒で。でも、差配さんに、谷を見てほしくて。昨日の差配さん、すごく……静かな顔で帰ったから」


 マレーナはそれを断らなかった。レオはまだ起きていなかった。襟の銅貨を握ったまま、夜更けまで葡萄酒の杯を空けずにいた男だ。今朝も部屋の戸は閉じていた。マレーナは一人で外套の合わせを直し、ニナの後についた。


 谷の戸は、よそ者に閉じていた。けれど、谷の娘の後ろを歩く分には、戸は開いていた。




 最初の織り小屋で、ニナが戸を押した。


 中は思っていたより暖かかった。羊毛の脂の匂いが、ぬくもりと一緒に顔を撫でた。とん、とん、と織機が二台、向き合って鳴っていた。年老いた女が一人、若い女が一人。二人ともマレーナを見て手を止めた。


「ニナ、その人」老女が、警戒の声を出した。


「いいの。差配さん。あたしが連れてきたの」ニナは、早口で言った。「悪い人じゃ、ないから」


 悪い人じゃない、と谷の娘が言う。それだけで老女の肩から少し力が抜けた。マレーナはその変化を見た。値でも段取りでもなく、ニナの一言が戸を一枚開けていた。


「触っても、よろしいですか」


 マレーナは、織りかけの反物に指を近づけた。老女が、無言で頷いた。


 冷えた指先に、打ち込みの詰んだ手触りが乗ってきた。市で触れた「谷の手」と同じだった。けれど今は、その手触りの向こうに、織機の音と羊毛の匂いと二人の織り手の手が、確かにあった。


「……これだけのものを」マレーナは低く言った。「織る手が、ここに生きている」


「ばあちゃんの織り、谷で一番なんですよ」ニナが、得意げに言った。「あたしなんか、まだまだ。打ち込みが甘いって、いつも叱られます」


「甘くない」老女が、ぼそりと言った。「お前の手は、年々良うなっとる」


 ニナが、ぱっと顔を上げた。


「ほんと? ばあちゃん、今、良うなったって」


「言うとらん」


「言いました。今、聞きました」ニナが笑った。右の頬に、笑窪ができた。


 マレーナは、その笑いを見た。羊が死に薪も乏しいこの谷で、娘が一人、伯母に褒められて笑っている。痩せた暮らしの底に、こんな温度が残っている。値の帳面には決して載らない種類の温度だった。




 小屋を出ると、雪がやんでいた。


 空は鈍い灰色で、谷の細い切れ目に低く垂れ込めていた。ニナが次の小屋へ、その次の小屋へとマレーナを連れて歩いた。どの小屋にも織機があった。どの暖炉にも薪が乏しかった。けれど、人がいた。


「あの子、誰でしょう」


 マレーナは、雪の中で凧のような布を引いて走る子どもを目で追った。


「ヨナス。鍛冶のとこの末っ子です」ニナは、すぐに答えた。「その隣がレナ。あっちの井戸んとこにいるのが、双子のミルとマル」


「ずいぶん、よくご存じですね」


「谷の子だもん。みんな、知ってます」ニナは、当たり前のように言った。それから、ふと、声を弾ませた。「でも、いちばんすごいのは伯父さんです。谷の子の名前、一人残らず覚えてるんですよ。すごいでしょ」


「一人残らず」


「はい。生まれた子、全部。誰がいつ生まれて、誰の子で。ぜんぶ、頭に入ってます」ニナの声が、ふと柔らかくなった。「あたしの名前も、伯父さんがつけました」


「ニナ、という名を」


「はい。なんでニナにしたのって聞いたら、伯父さん、『短いほうが、呼びやすい』って」ニナが、くすっと笑った。「それだけ。でも、あたし、その名前、好きです」


 マレーナは、その横顔を見た。


 ニナという娘の名を、オトマルがつけた。あの白く濁った左目の老人が。よそ者に「帰れ」としか言わなかった、あの硬い背中が。谷の子の名を、一人残らず。


 看板の奥に、人がいる。マレーナはその輪郭を、少しずつ掴み始めていた。




「差配さん」


 雪の道の途中で、ニナが立ち止まった。


「昨日の紙、伯父さんが、要らんって言ったんですよね」


「ええ」マレーナは、頷いた。「良い紙でも、要らない、と」


「あたし、聞いてました。小屋の裏で」ニナは、俯いた。「あたし、あの紙、いいなって思ったんです。半分を先にくれるって。それがあったら、糸が買えるって。冬、越せるって」


 マレーナの足が、止まった。


「ニナさん」


「でも、伯父さんが要らんって言ったら、要らないんです。谷は、伯父さんが守ってきたから」ニナは、抱えた反物を、少し強く抱いた。「だから、あたしが一人でいいって言っても、だめなんです。……でも」


「でも」


「あたしは信じてもいい、と思いました」


 小さな声だった。けれど、雪のやんだ谷に、その一言は、はっきりと落ちた。


 マレーナの胸の奥で、昨日からずっと固く閉じていたものが、ひとつほどけた。効かない手だと思っていた。値も段取りも記録も、谷の戸には一つも通らなかった。けれど、たった今、谷の娘が一人「信じてもいい」と言った。


 紙が効いたのではない。ニナに、届いたのだ。


「ありがとう」マレーナは言った。声が、わずかに掠れた。「あなたが、そう言ってくれたこと。わたくしには、大きいのです」


 ニナが、頬を染めて、また俯いた。




 谷のいちばん奥に、雪の積もった小さな広場があった。


 ニナがそこで足を止めた。広場の隅に、低い石が二つ、雪の中から頭を出していた。墓だ、とマレーナは見てすぐに分かった。掌が、なぜか冷たくなった。


「ここ」ニナが、小さく言った。「あたしの、お父さんとお母さんの、お墓です」


 マレーナは二つの石を見た。雪に半ば埋もれ、刻まれた名も読めない、ただの石だった。けれど、その前の雪が踏み固められていた。誰かが何度もここへ来ている。


「あたし、二人の顔、知らないんです」ニナは、墓を見ながら言った。「生まれてすぐ、死んだから。あの冬に」


「あの冬」マレーナは、繰り返した。


「寒波の冬です。二十……何年か前。あたしが、赤ん坊のとき」ニナは、雪を見ていた。「羊がたくさん死んで、谷が、飢えて。みんな、死んだんです。たくさん。あたしのお父さんも、お母さんも」


 風が、谷の細い切れ目を低く鳴らして抜けた。マレーナは外套の襟を無意識に握った。




「谷の人、教えてくれました」ニナは、墓の前にしゃがんだ。赤くひび割れた指で、墓石の雪を払った。「あの冬の前、谷は、紙を持ってたんです。立派な、判の押してある紙」


 マレーナの心臓が、低く打った。


 紙。判。立派な。昨日、オトマルが吐き捨てた言葉と、同じ輪郭だった。


「来季の毛をぜんぶ買うって、約束の紙だったって。だから谷は安心してたんです。寒波が来ても、紙があれば毛を売って銭が入るって」ニナの指が、墓石の雪をゆっくり払い続けた。「でも、その商人、来なかったんです」


「……来なかった」


「南の方で、もっと儲かる荷が出たから、って。後で、聞きました」ニナは、顔を上げなかった。「紙だけ残して。人は、来なかった。谷は、毛を売れなくて、銭が入らなくて、糧が尽きて。それで……」


 ニナの声が、墓石の上で、止まった。


 マレーナは、何も言えなかった。


 昨日、オトマルが言った。判は来た、人は来なんだ、と。あの一語が、今、目の前の二つの石になって雪の中に座っていた。数字でも噂でもない。ニナの父と母を埋めた、本物の石だった。


「伯父さんが、掘ったんです」ニナが、ぽつりと言った。「この、二つのお墓。あの冬、土が凍ってて、鍬が刺さらなかったって。それでも、伯父さんが、一人で。あたしのお母さんは、あたしを抱いたまま死んでたって。最後まで、あたしに、乳をのませようとして」


 雪が、また、ちらつき始めた。




 マレーナは、二つの石の前に、膝を折った。


 雪が、革の手袋越しに膝へ冷たく染みた。彼女はその冷たさを受け止めた。十年、人の手を読んできた掌で、今は冷えた石の表面にそっと触れた。固い。冷たい。けれど、誰かがここへ何度も来て雪を払った跡が、その固さの上に確かにあった。


 オトマルだ、と思った。


 あの老人は、ここへ何度も来る。妹を、妹の亭主を、自分の手で凍った土に埋めた男が。ニナを引き取り、谷の子の名を一人残らず覚えた男が。よそ者に「帰れ」としか言わない、あの硬い背中の奥に——この二つの石がある。


「裏切られた谷」。マレーナは、ずっと、そう括っていた。ハルダーの名を拒む、頑なな谷。効かない、閉じた戸。けれど、看板の奥にいたのは、谷ではなかった。一人の老人だった。妹夫婦を埋めて、姪を育てて、二度と誰も埋めまいと、自分の胸に掟を刻んだ、一人の人だった。


「ニナさん」マレーナは、石に触れたまま言った。「伯父さまは、立派な人ですね」


 ニナが、目を見開いた。


「立派……? 伯父さんが、ですか」


「ええ」


「でも、伯父さんはよそ者にいつも冷たくて。差配さんにも、帰れって」ニナは戸惑った顔をした。「みんな伯父さんのこと、頑固だって言います。あたしもときどき、悲しくなって」


「よそ者を拒むのも、紙を信じないのも、頑固だからではありません。もう一度、ここに、誰も埋めたくないからです」マレーナは言った。「あなたが、最初の日に教えてくれた通りでした」


「……あたしが」


「『伯父さんは怖いんじゃない。もう一回、谷に誰も埋めたくないだけ』」マレーナは、ニナの言葉を、そのまま返した。「あなたは、伯父さまのいちばん奥を、もう、ちゃんと見ていたのです」


 ニナの目が、みるみる潤んだ。早口の娘が、何も言えずに、ただ頷いた。


「あたし、伯父さんのこと、悲しいって思ったの、間違いでした」ニナが、震える声で言った。「伯父さん、ずっと、ここに来てたんだ。あたしの、お父さんとお母さんのとこに。一人で」


「ええ」マレーナは、静かに言った。「きっと、何度も」




 マレーナは、石の前で、しばらく動かなかった。


 雪が肩に積もり始めていた。それでも彼女は立たなかった。掌の下の冷たい石の感触が、なぜか、彼女自身の古い場所に触れてくるのを感じていた。


 父は、彼女を「目」で愛した。お前の目はわしより先を読む、と。十三で帳場を任せ、十年、差配として頼った。それは誇りだった。けれど、その奥にずっと一つの問いがあった。目も帳面もない、ただのわたくしを、それでも誰かが選ぶだろうか。


 オトマルは、ニナを「目」で選んだのではない。妹の娘だから、谷の子だから、ただそのために引き取り、名をつけて育てた。値踏みではない。看板でもない。ただ、その子だから。


 マレーナの掌が、石の上で、わずかに震えた。


 わたくしも、と思った。看板でなく、目でなく、ただ、わたくし自身を——


 そこまで考えて、彼女はその思いを雪の下に静かに沈めた。今は自分の問いを並べる場所ではなかった。ここは、ニナの父と母の墓だ。


 マレーナは、立ち上がった。冷えた膝を、軽く払った。


「帰りましょう」彼女は言った。「日が、暮れます」




 谷を下る道で、ニナが、ふと言った。


「差配さん。あの紙、また、持ってきてくれますか」


 マレーナは、雪を踏みながら、ニナを見た。


「伯父さんは、要らんって言ったけど。でも、いつか……谷が、信じてもいいって思ったら。そのとき、まだ、あの紙、ありますか」


「あります」マレーナは、迷わず答えた。「いつまでも、あります。谷が、信じてもいいと思える日まで」


 ニナが頷いた。それから人見知りの娘らしく、また少し俯いて、けれど口元だけはほんの少し緩めて、谷の道を先に立って歩いた。


 マレーナはその後ろ姿を見ながら、掌の中の紙の感触を思った。昨日、効かなかった紙だ。けれど今日、谷の娘が一人「信じてもいい」と言った。戸はまだ閉じている。けれど、その戸の鍵穴に、ひとすじ光が差していた。


 戸を開けるのは、紙ではない。マレーナは改めてそう思った。あの戸を開けられるのは、あの冬を自分のものとして背負える者だけだ。


 そして、その者が誰か、彼女はもう知っていた。




 宿に戻ると、日が落ちていた。


 マレーナは卓に向かった。懐からあの紙を出して、卓に置いた。効かなかった紙。けれど、谷の娘に届いた紙。彼女はその角を指で撫でた。


 レオの部屋の戸は、まだ閉じていた。今日一日、彼は出てこなかった。北の谷に入ってから、この男はずっと襟の銅貨を握り続けている。あの銅貨は、ハルダーの初取引の記念だと、いつか聞いた。父から渡された、と。


 ハルダーの、初取引。


 マレーナは、墓の前で見た二つの石を思った。あの冬の墓を掘ったオトマルの手と、襟の銅貨を握り続けるレオの手が、頭の中で静かに重なった。一方は、埋めた手。もう一方は、埋めさせた名を、生まれたときから首にかけて生きてきた手だ。


 レオは、何かを、深く抱えている。


 マレーナは確信していた。けれど、問い詰めようとは思わなかった。傷は、急いては開かない。彼が言えるときに言う。十年、人の過去を急いて読まない流儀だった。彼女にできるのは待つこと。そして、彼が口を開いたとき、それを正面から受け取ることだけだった。


 マレーナは紙を、もう一度卓の上で撫でた。


 そのときだった。




 戸が、叩かれた。


 二つ。ためらいがちな、けれど、たしかな二つの音だった。


「……どうぞ」


 マレーナは、顔を上げた。


 戸が開いて、レオが立っていた。


 葡萄酒の杯を、持っていなかった。北の谷に来てから、彼が夜に部屋を訪うときは、いつも杯を二つ持って軽口を一つ言いながら入ってきた。けれど、今夜のレオの手には何もなかった。両の手が、ただ空いていた。


 襟の銅貨に、片手がかかっていた。けれどその手はもう、ごまかすためのものではなかった。


「マレーナ」


 レオが、低く、彼女の名を呼んだ。


 商談の声ではなかった。競りの声でもなかった。十年、彼女が聞いてきたどの声とも違った。雪の重みに長く耐えてきた枝が、ようやく一つ軋むような声だった。


「話が、ある」彼は言った。「俺の、古い話だ」


 マレーナは、卓の上の紙から、静かに指を離した。


 窓の外で、雪が、音もなく降り続けていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第二十七話「あの冬の墓」。効かない手を懐に谷を下りた、その翌日のお話です。


この回は、ニナがマレーナを谷の内側へ連れていきます。織機の手触り、暖炉の羊毛の匂い、谷の子らの名前——閉じた戸の外からは見えなかった、谷の暮らしの温度を、マレーナは初めて手で触れます。そして雪の奥で、二つの墓に出会います。


オトマルという老人を、マレーナはずっと「裏切られた谷」という括りで見ていました。けれど墓の前で、彼女が見たのは、谷ではなく、一人の人でした。妹夫婦を凍った土に埋め、姪を引き取り、谷の子の名を一人残らず覚えた——その硬い背中の奥にいる「その人」を、彼女はようやく見ます。看板の奥に、人がいる。この物語が、ずっと言いたかったことです。


そして墓の前で、マレーナ自身の古い希みも、静かに鳴ります。父に「目」で愛された彼女が、ずっと胸の底に沈めてきた問い——目も帳面もない、ただのわたくしを、それでも誰かが選ぶだろうか。オトマルがニナを「ただ、その子だから」選んだ姿が、彼女のその古い場所に、そっと触れます。じれじれの奥にある、もう一本の縦糸です。


ニナの「あたしは信じてもいい、と思いました」——閉ざされた谷で、たった一人、谷の娘が前へ踏み出します。紙が効いたのではなく、人に届いた。この小さな一歩を、書きたかったのです。


マレーナは、戸を開ける鍵がレオの抱えるものだと、もう確信しています。けれど、問い詰めません。傷は、急いては開かないから。そして夜、レオが葡萄酒を持たず、手ぶらで戸を叩きます。次の話で、彼が自分の口で、あの冬を語ります。


◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇


「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。第二巻、北の毛織の谷編。あの冬の、その先へ。


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