第29話: 払われた手
朝の谷は、昨夜より静かだった。
雪はやんでいた。けれど空は、夜のうちに重さを増していた。マレーナは宿を出るとき、外套の合わせを直しながら、その低い灰色を見上げた。革の手袋越しに、頬を撫でる風が昨日より固い気がした。指先が読んでいた。冷えが、ひと回り深くなっている。
隣で、レオが馬の腹帯を締めていた。
「歩いて、行く」彼は手綱を引いた。「馬で乗りつけるのは、違う気がする」
マレーナは頷いた。何も言わなかった。今朝は、彼の段取りに口を挟む朝ではなかった。
谷へ続く道を、二人で上った。
レオは襟の銅貨に手をやらなかった。昨夜、語り終えてからずっと、その手は所在を変えていた。手綱を握り、ときどき開いて、また握る。けれど銅貨には、行かなかった。マレーナはそれを横目で見ていた。十年、人の手を読んできた目だった。すがるための手ではなく、何かを差し出すための手だと、彼女には分かった。
「マレーナ」レオが、前を向いたまま言った。「もし、追い返されたら」
「ええ」
「それでも、明日も来る」彼は言った。「明日が駄目なら、明後日も。何度でも来る」
その声に、昨夜のほどけた響きはもうなかった。雪に耐えた枝が、今朝は雪を払って立っていた。
「左様ですか」マレーナは言った。「では、わたくしも何度でも宿を取ります」
「あんたは、つくづく商人だな」レオが言った。「人が覚悟を決めた朝に、宿代の話をする」
「覚悟は、あなたのお仕事です」マレーナは言った。「日数の段取りは、わたくしの仕事です」
レオが、ほんの少し笑った。けれど、それきりだった。谷の入口が、もう見えていた。
織り小屋の前に、オトマルがいた。
薪を割っていた。痩せて節くれだった手が斧を振り上げ、固い音を立てて丸太を裂いた。白く濁った左目が、近づく二人の足音を、振り向く前に捉えていた。斧が、止まった。
「帰れと、言うたはずだ」
喉の奥で低く唸ってから、老人は言った。背を向けたまま、もう一度斧を振り上げた。
レオが、足を止めた。マレーナは、その半歩後ろで止まった。前に出なかった。これは、彼女の段取りではなかった。
「オトマルさん」レオが言った。「ハルダーの、レオだ」
斧が、宙で止まった。
オトマルが、振り返った。白く濁った左目と、もう片方の冷えた目が、まっすぐレオを見据えた。その顔から、唸りすら消えていた。
「……知っとる」老人は言った。「父御に、よう似とる」
「その名で、ここに立つか」オトマルは斧を地に下ろした。「あんたの父御がこの谷に立ったのは、二十数年前だ。立派な紙を持って、立派な顔で立っとった。そのあと、来なかった」
「知っている」レオは言った。
「知っとる、だと」老人の声が、低く沈んだ。「知っとって、その面を下げて来たか」
「来た」
レオは、退かなかった。マレーナは、彼の背を見ていた。広い肩が、いつもより低かった。豪放に場を緩める男の構えではなかった。詫びる者の、丸めた背だった。
「あの冬」レオは言った。「親父は、約束を破った。判を押した紙を、ここに残したまま、来なかった。谷は、その紙を信じて、他の手を打たなかった。そして——」
彼は、そこで言葉を切らなかった。
「飢えた。人が、死んだ。あんたの、妹さんと、その亭主も」
オトマルの節くれだった指が、斧の柄を握り直した。骨の浮いた手だった。
「掘ったのは、あんたじゃない」レオは言った。「凍った土を一人で掘って、二つの墓を作ったのは、あんただ。俺の家が、あんたにそれをさせた」
風が、谷の細い切れ目を低く鳴らして抜けた。
マレーナは外套の襟を握った。指先に固い冷えが乗った。けれどそれを払うように、レオが一歩前へ出た。
「父の代わりに、詫びる」レオは言った。「許してくれとは、言わん。一度で済むとも、思っていない。だが、誰かが、あの冬の前に立たなきゃならん。逃げ続けた者の名で。それは、俺だ」
彼は、右手を差し出した。
胼胝の固い、荷馬車の手綱でできた手だった。何も持っていなかった。紙も、値も、軽口も。昨夜マレーナが受け取った、あの空いた手だった。それを今、彼は二十数年逃げてきた冬の真ん中へ、差し出していた。
オトマルが、その手を見た。
しばらく、動かなかった。白く濁った左目が、差し出された手の上で止まっていた。喉の奥で、唸りが、起こりかけた。
そして、起こらなかった。
代わりに、老人の手が、動いた。
払われた。
差し出された手を、オトマルの節くれだった手が、下から弾いた。固い、乾いた音がした。レオの手が、横へ流れた。
マレーナは、息を止めた。
けれど、声は出さなかった。前にも出なかった。膝が、前へ出ようとするのを、彼女は止めた。これは、彼女が握手を取り持つ場ではなかった。ここで彼女が手を差し出せば、それはマレーナの贖いになってしまう。これは、レオの冬だった。
払われた手を、レオは引っ込めなかった。横へ流れたまま低く下げて、立っていた。
そして、マレーナは見た。
オトマルの、払った手の方を。
弾いた手が、宙に浮いたまま止まっていた。指が半ば開いていた。老人はその手を、すぐには下ろさなかった。下ろせなかった、というふうに見えた。白く濁った左目がわずかに揺れた。喉の奥で何か言いかけて、言葉にならない音が漏れた。
「……いや」
老人は、低く呟いた。
誰に言うのでもなかった。払った手を、決まり悪そうに、革前掛けの腰へ引いた。何かを、自分の中で持て余している手の動きだった。
マレーナの胸の奥で、固く閉じていたものが、ひとつ、軋んだ。
昨日、谷の墓の前で、彼女はこの老人を見た。妹夫婦を凍った土に埋め、姪を引き取り、谷の子の名を一人残らず覚えた人を。よそ者を拒むその硬さの奥に、もう一度誰も埋めまいという掟があることを見た。
今その掟が、目の前でレオの手を払った。二十数年谷を守ってきた手が反射で動いた。けれどその手は、払ってから行き場を失っていた。
憎しみだけなら、手は迷わない。マレーナは、十年人の手を読んできた目で、それを知っていた。あの迷いは、憎しみではなかった。払ってしまった自分を、どこかで悔いている手だった。
「俺の手は」レオが、静かに言った。「あんたに払われるためのものだ」
オトマルが、顔を上げた。
「一度で握られると思って、来ていない」レオは言った。「あんたが払うのは、当たり前だ。むしろ、払われに来た。あの冬を、払われる側に立って、初めて受け取れる気がするからだ」
「……何を、言うとる」老人は、掠れた声で言った。
「あんたが妹さんを埋めた冬を、俺は受け取りに来た」レオは言った。「俺の名で。逃げずに」
オトマルは、長いあいだ、何も言わなかった。
喉の奥で、唸りが起きかけては消えた。何度も、起きかけては消えた。言葉に詰まると唸るだけで一向に喋らない老人だと、マレーナは昨日ニナから聞いていた。今その唸りが、言葉の手前で空転していた。
その沈黙を、マレーナは聴いていた。
風の音。斧が地に下ろされたままの、その重さ。レオの低い呼吸。そして、老人の喉で行き場を失っている、唸りにもならない音。それは、二十数年動かなかったものが、ほんのわずか、軋もうとしている音だった。
織り小屋の戸の陰に、ニナがいた。
いつから、そこにいたのか。色の褪せた頭巾から後れ毛をはみ出させたまま、息を詰めて伯父とレオを見ていた。赤くひび割れた手が戸の縁を固く握っていた。何か言いたげに口を開きかけて、けれど何も言わず、ただ見ていた。
マレーナは、その娘と一瞬、目が合った。
「差配さん」ニナが、声にならない声で口を動かした。「いいんですか、止めなくて」
マレーナはごく小さく首を横に振った。今は待つときだ、と。ニナはそれを受け取ったように、また戸の縁を握り直した。
「墓は」レオが言った。「どこだ」
オトマルの目が、鋭くなった。
「あんたが、行く場所じゃない」
「分かっている」レオは言った。「だが、紙の前で詫びても、意味がない。あの墓の前で、頭を下げる。それで追い返されるなら、追い返されよう」
「……」
「案内は、要らん」レオは言った。「谷の一番奥の広場だと、聞いた」
オトマルは、答えなかった。けれど、止めもしなかった。レオが歩き出すのを、白く濁った左目で追った。その目が、止めようとして、止めなかった。マレーナには、それが分かった。
「マレーナ」レオが、歩きながら言った。「来なくて、いい」
「いいえ」マレーナは言った。「前には出ません。けれど隣は、空けません」
レオが、雪の道を奥へ歩いた。マレーナは、その後ろを半歩離れて歩いた。前には出なかった。けれど、隣にはいた。彼女にできるのは、それだけだった。隣で、見ていること。
広場の隅に、二つの石があった。雪に半ば埋もれ、踏み固められた跡のあるあの墓だった。
レオが、その前で、膝を折った。
雪が彼の膝に冷たく染みていく。マレーナは、昨日自分の膝に染みたその冷たさを覚えていた。
レオは、長いあいだ、何も言わなかった。ただ、二つの石の前で、頭を垂れていた。豪放な男の、丸めた背が、雪の灰色の中にあった。詫びの言葉を、彼は声にしなかった。声にできる種類のものではなかった。マレーナは、それを横で聴いていた。声のない詫びを。
谷の幾人かが、遠くから見ていた。
織り小屋の戸口に、暖炉の煙の向こうに、人影があった。年老いた織り手が一人、若い女が二人。誰も近づかなかった。誰も声をかけなかった。けれど、見ていた。ハルダーの名を持つ男が、二十数年ぶりに、あの冬の墓の前に膝を折るのを。
マレーナは、その視線の数を肌で感じていた。
谷は、今日も二人を中へは入れない。それは分かっていた。けれど、煙の向こうから、谷が見ている。見ているということは、そこに人がいるということだった。
石でも、名でもない。煙の立つ屋根のひとつひとつに、息をする人が、一人ずついる。
レオが、立ち上がった。
膝の雪を払わなかった。濡れたまま、振り返った。広場の入口に、オトマルが立っていた。いつのまにか、ついて来ていた。斧は、置いてきていた。
二人は、しばらく見つめ合った。
「あんたの父御は」オトマルが、ようやく言った。低い、訥々とした声だった。「あの冬、来なかった。それだけだ。値が崩れた、損になる、と。理屈は、聞いた。番頭の伝手から、後で聞いた。立派な理屈だった」
「ああ」
「立派な理屈は、墓を二つ増やした」老人は言った。「わしは、それから、立派な理屈を信じんことにした。立派な紙も、立派な顔も、立派な値も。あんたの差配の女が持って来た紙も、同じだ。良い紙ほど、信じん」
マレーナは、その言葉を、まっすぐ受け取った。痛みはなかった。当然のことだと、昨日からもう知っていた。
「だが」オトマルが言った。
その「だが」を、マレーナは聴いた。レオも、聴いた。
「あんたは、紙を持って来なんだ」老人は言った。「値も、言わなんだ。空の手で、墓の前に膝を折った。……それは、あんたの父御が、せなんだことだ」
風が、また谷を低く鳴らした。
「織りは、嘘をつかん」オトマルは言った。痩せた指が、革前掛けの上で、ゆっくり動いた。「打ち込みが甘ければ、反物は、甘いまま出る。ごまかせん。糸は、織った者の手のままに、出る。人は——」
彼は、レオを見た。
「人は、つく。立派な紙ほど、つく。わしは、それを二十数年、忘れたことがない」
「ああ」レオは言った。
「だが」オトマルは、もう一度言った。喉の奥で、唸りが、今度は短く起きて、収まった。「今日のあんたは、つかなんだ。空の手は、嘘がつけん。織りと、同じだ」
それきり、老人は背を向けた。
戸は開かなかった。握手もなかった。オトマルは織り小屋へ戻ると、置いてきた斧を拾ってまた薪を割り始めた。固い音が谷に一つ響いた。けれどその音は、二人が来たときに止まった音とはどこか違って聞こえた。
マレーナは、レオの隣に立った。
「今日は、ここまでだ」レオが、低く言った。「だが、ここまでで、いい」
「ええ」マレーナは言った。「払われた手は、まだ空いています」
レオが、自分の右手を見た。さっき払われ、行き場を失ったまま、下げていた手だった。彼は、それをゆっくり開いた。胼胝の固い、空いた手だった。
「次に来たときも」彼は言った。「これを、差し出す」
「何度でも、ですね」マレーナは言った。
「ああ」レオは言った。「何度でもだ」
谷を下る道で、ニナが追いかけてきた。
「差配さん」息を切らして、ニナは言った。赤くひび割れた手で、頭巾の縁を握っていた。「伯父さん、レオさんの手を、払ったのに」
言葉が、続かなかった。人見知りの娘が、何かを言おうとして言えずにいた。
「ええ」マレーナは言った。「払いました」
「でも」ニナは、俯いた。それから、思い切ったように顔を上げた。「でも、伯父さん、払ったあと、すぐ手を下ろさなかった。あたし、見てました。戸の陰から。伯父さんの手、宙に浮いたまま、止まってた。あたし、伯父さんのあんな手、初めて見ました」
マレーナは、その娘の目を見た。
「あなたも、見ていたのですね」彼女は言った。
「はい」ニナは言った。「あれ、なんでしょう。伯父さん、レオさんを、追い返したのに。でも、追い返したあとの伯父さんが……なんか、悲しそうで」
「悲しそう」マレーナは、その言葉を、静かに繰り返した。
「あたし、わかんないです」ニナは、唇を噛んだ。「でも、あの手、また握れる気がして。なんでか、わかんないけど」
マレーナは雪を踏みながら、隣を歩くレオの手をちらりと見た。空いたまま軽く下げられた手だった。
「わたくしにも」マレーナは言った。「同じものが、見えました」
その時だった。
道の途中の小屋の前で、一人の古老が空を見上げていた。
谷でいちばん年嵩の織り手だった。腰の曲がった老人が、雪を割る手を止めて、低い灰色の空を、じっと仰いでいた。マレーナの足が、自然と止まった。指先が、また、固い冷えを読んでいた。朝より、深い。
老人は、しばらく空を見ていた。それから誰に言うともなく、低く呟いた。
「……また、あの冬の空だ」
マレーナの背筋を、冷たいものが、すっと走った。
「あの冬、と」彼女は、思わず問うた。「どの冬の、ことでしょう」
古老が、彼女を見た。落ち窪んだ目に、二十数年前を映していた。
「あの空は」老人は言った。「羊が死ぬ前の空だ。雪が、上から来るんじゃない。下から、谷の底から、冷えが上がってくる。そういう空だ」彼は、もう一度、空を仰いだ。「忘れもせん。墓を二つ掘った冬の、前の日の空だ」
レオが、立ち止まった。マレーナの隣で、彼の顔から色が引いた。
マレーナは、空を見上げた。
重い灰色が、谷の細い切れ目に低く垂れ込めていた。風はなかった。けれど、足の裏から、ひたひたと冷えが上がってくる気がした。昨日、ニナが氷の下の川を指したときと同じ、見えないものを足で読む感覚だった。あのときは、流れる水だった。今、足の裏が読んでいるのは、上がってくる冷えだった。
「気のせい、ではありませんね」マレーナは、低く言った。
「ああ」レオが言った。声が、固かった。「気のせいなら、いい。だが、こいつは——」
「二度目です」マレーナは言った。
「ああ」レオが言った。「二度目だ」
その一語を、彼女は卓の上に置くように言った。
二十数年前、谷を飢えさせた寒波。妹夫婦を埋めた冬。ハルダーの紙が、来なかった冬。その同じ空が、今、谷の上にあった。レオが頭を下げた、その日に。贖いの、まだ何ひとつ成っていないこの日に。
古老が、空を見たまま、もう一度呟いた。
「羊を、谷へ入れんと」老人は言った。「早う。空が、本気になる前に」
マレーナは、握り込んだ拳の中の冷えを、見た。
革の手袋越しに、指先が読んでいた。あの冬が、戻ろうとしている。払われた手が、まだ空いているうちに。谷の戸が、まだ開かないうちに。
谷の奥で、織機の音が、ひとつ、止まった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第二十九話「払われた手」。レオが、自分の足で、あの冬の前に立つ話です。
この回で一番書きたかったのは、払われた後のオトマルの手でした。彼は反射でレオの手を弾きます。二十数年、谷を守るために培ってきた反射です。けれど、払ってから、その手の行き場がなくなる。すぐに下ろせない。憎しみだけなら、手は迷わないのです。あの迷いを、書きたかった。贖いは一度では成りません。けれど、完全な拒絶の中にも、ほんのひとすじ軋むものがある——それを、握手でも台詞でもなく、宙に浮いて止まった老人の手だけで示せたら、と思いました。
マレーナは、前に出ません。彼女が手を取り持てば、それは彼女の贖いになってしまう。これはレオの冬だからです。前の話で「あなた自身と商う」と言った彼女が、レオの贖いを彼の仕事として尊重して、隣で見ているだけに徹する。手を出さない優しさを、書いてみました。
そして最後に、空の色が変わります。レオが頭を下げた、まさにその日に。あの冬を埋めた寒波が、もう一度、谷の上に戻ろうとしている。贖いの、まだ何ひとつ成っていないこの日に。次の話で、谷はもう一度、飢えの淵に立ちます。
◇◆◇ 連載「交易令嬢」◇◆◇
「商いは男の仕事だ」と追放された令嬢が、十年の商売敵と組んで、看板でなく人と信用に立つ交易路を拓いていく物語です。第二巻、北の毛織の谷編。払われた手を、もう一度差し出すために。
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