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『商いは男の仕事だ』と追放された交易令嬢、十年の商売敵と組んで大陸一の交易路を拓く  作者: 歩人


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第10話: 看板の落日、始まる

 符牒帳の角が、薄く擦れていた。


 マレーナは革の表紙を指の腹で押さえて、その擦れ具合を確かめた。オーレンに来てから、新しい頁が日に日に増えていく。頁が厚くなるたびに、角の革が指に馴染んでいく。この擦れは、ここで積んだ握手の数だった。


 帳場の窓から、朝の光が差していた。


 外では、荷馬車が並んでいた。今日も荷が出る。塩が南から来て、毛織が北から来て、鉄が市へ流れていく。




「今月の塩、全部はけたぞ」


 戸を開けて、レオが入ってきた。手に、銀貨の入った革袋を提げている。


「ゴット親方の塩坑から来た分も、全部だ」レオは言った。「タウンが買い取って、北のカルンへ流した。一樽も余ってない」


「左様ですか」


 マレーナは、符牒帳を開いた。


「ヴィンスの隊商は、今どこに」


「峠の手前だ。明日には着く」レオは腰掛けに座った。「ガービンの荷も、順調に回ってる。三本の路が、ちゃんと動いてる」


 マレーナは、頁に細い字で書き込んだ。


 塩、はけた。鉄、流れた。毛織、北へ。


 三つの品が、一本の輪になって回り始めていた。三月前には、なかった輪だった。




「隊商頭が、また一人戻った」レオが言った。「南路のバルゴだ。様子見してたが、ゴット親方が峠を越えた話を聞いて腹を決めたらしい」


「バルゴ殿」マレーナは頷いた。「三年前、雪解けの遅れで荷を待たせた相手です」


「覚えてるのか」


「符牒帳に書いてあります」


 マレーナは、淡々と言った。


 覚えているのではない。書いてあるのだ。頭に頼れば、忘れる。だから、書く。十年、そうやってきた。


「あんたは」レオは笑った。「本当に、何も忘れないな」


「忘れた者から、損をします」


「知ってる」




 路は、育っていた。


 手応えは、確かにあった。隊商頭が戻り、荷が回り、銀が入ってくる。看板を失っても、握手は失っていなかった。三月前、雪の石畳を一人で歩いたときの不安は、もう薄れていた。


 けれど、マレーナは、まだ落ち着かなかった。


 路が育つほど、別の場所が痩せていく。その理屈が、頭の隅にあった。荷には限りがある。マルゴーの隊商にも、塩坑の塩にも、限りがある。それがこちらへ流れてくるなら——どこかが、流れなくなっている。


 その「どこか」が、どこなのかを、マレーナは知っていた。




 昼を過ぎて、天秤亭の主人が、書状を二通持って上がってきた。


「ハルダー商会さん宛と」主人は言った。「もう一つは、王都の商人組合からの触れ書きの写しです。表に貼ってありましたので、写してまいりました」


 レオが、二通とも受け取った。


 主人が下りていくと、レオは先に組合の触れ書きを開いた。目を走らせて、眉を寄せる。


「……塩の値が、上がってる」レオは言った。「王都で、だ」


「いくらに」


「平時の倍だ」レオは、紙をマレーナのほうへ向けた。「樽一つ、二十二銀。平時は十一だ。それが、二十二まで跳ねてる」


 マレーナの指が、止まった。




「倍」マレーナは、繰り返した。


「ああ」


「塩は、塩坑から出る量が決まっています」マレーナは言った。「急に倍も値が上がるのは、量が減ったときか——運ぶ路が止まったときです」


「塩坑は、止まってない」レオは言った。「ゴット親方の塩坑は、ちゃんと出してる。現にこっちへ来てる」


「ええ」マレーナは頷いた。「塩坑は止まっていません。止まったのは、路です。王都へ向かう路が」


 マレーナは、書状を見たまま、続けた。


「マルゴーの隊商は、王都へ行かなくなりました。みんな、オーレンへ来ています。だから、王都に塩が届かない。届かなければ、値が上がる」


 言いながら、マレーナの声が、少しずつ低くなっていった。




 レオは、もう一通の封を切った。


 王都の知り合いの商人からの私信だった。几帳面でない、急いだ字だった。レオは、それを初めから読んだ。読み進めるうちに、肩が、わずかにこわばっていく。


「マレーナ」レオは言った。「これは、あんたが読んだほうがいい」


 マレーナは、書状を受け取った。


 字を、目で追った。


 ——トルプ商会の隊商が、組めずにいる。番頭のグレスが、東門で隊商頭に声をかけても、誰も荷を引き受けない。マルゴーへ向かう隊商が、一つも組めない。蔵の塩と鉄が、底をつき始めている。


 マレーナは、もう一度、初めから読んだ。


 書いてあることは、明らかだった。




 トルプ商会から、中身が抜けていく。


 看板は、まだそこにある。商館も、帳場も、蔵もある。番頭のグレスも、奉公人も残っている。けれど、肝心のものが、抜けていく。


 隊商頭との握手が、ない。


 塩坑の親方との約束が、ない。


 いつ塩を仕入れ、いつ鉄を流すかという段取りが、ない。


 それを十年握っていたのは、自分だった。自分が去って、それも一緒に去った。残ったのは、看板だけ。トルプの名前だけが、空の蔵の上に、ぽつんと残っている。


「……信用は」マレーナは、小さく言った。「看板でなく、人に付く」


「ん」


「兄に、そう言いました」マレーナは言った。「追われる前に。けれど、兄は分かりませんでした」




 マレーナは、窓の外を見た。


 オーレンの広場では、荷夫が荷を積んでいた。馬がいなないて、車軸が軋む。荷が回る音だった。三月前まで、この音は王都の東門で鳴っていた。


 今、それがここで鳴っている。


 王都の東門は、静まり返っている。


 路が、こちらへ移ったのだ。看板の下にあったものが、握手と一緒に、こちらへ流れてきた。マレーナが奪ったのではない。隊商頭たちが、自分で選んだ。けれど、結果は同じだった。王都の蔵が、空になっていく。


 マレーナの胸の奥が、固くなった。


 兄への恨みではなかった。それも、ある。けれど、それより先に、別のものが、胸の奥でうずいた。




「王都には」マレーナは言った。「塩を待っている人がいます」


「ああ」


「鍛冶屋は、鉄がなければ槌を振れません」マレーナは続けた。「塩がなければ、冬の肉も漬けられない。値が倍に上がれば、貧しい家から先に塩が買えなくなります」


 マレーナの声は、淡々としていた。


 けれど、その淡々の下に、別の温度があった。レオは、それに気づいたようだった。坑夫が買い叩かれるとき。弱い者が干上がるとき。そういうときだけ、この女の声は、一段、冷える。


「彼らは」マレーナは言った。「兄の見栄とは、何の関わりもありません」




 レオは、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと言った。


「あんたは、どうしたいんだ」


「分かりません」マレーナは、正直に言った。「兄を恨む気持ちは、あります。追われた日のことを、忘れてはいません。あの『商いは男の仕事だ』を、忘れることはないでしょう」


「ああ」


「兄が干上がるのは、兄が蒔いたものです」マレーナは言った。「わたくしが手を下したわけではありません。隊商頭は自分で選んだ。塩坑の親方も自分で選んだ。兄は、ただ握手を相続できなかっただけです」


 マレーナは、書状を机に置いた。


「それを、自業自得だと思う自分がいます」マレーナは言った。「けれど——王都の塩を待つ人まで、自業自得とは、思えません」




 二つの気持ちが、胸の中で、別々に天秤に乗っていた。


 恨みと、懸念。兄への怒りと、民への気がかり。どちらも本物で、どちらも消えなかった。マレーナは、その二つを、頭の中で何度も量り直した。けれど、傾かなかった。


 数字なら、傾く。利と損を乗せれば、答えが出る。けれど、この二つは、数字ではなかった。


「……難しいな」レオが言った。


「ええ」


「だが」レオは言った。「今日決めることじゃない」


「左様です」マレーナは頷いた。「報せが届いただけです。値が倍になった。隊商が組めない。蔵が空き始めた。それは分かりました。けれど、王都が本当にどうなっているのか。兄が次に何をするのか。それは、まだ分かりません」


 マレーナは、符牒帳を引き寄せた。


「慌てた者からも、損をします」マレーナは言った。「だから、確かめてから動きます」




 マレーナは、羽根ペンを取った。


 新しい頁に、一行ずつ書いた。


 ——王都、塩二十二銀。平時の倍。


 ——トルプ、隊商組めず。蔵、底をつき始める。


 ——確かめること。兄の次の手。王都の民の困窮。


 書いた字を、指の腹でなぞった。墨が、まだ濡れていた。


 濡れた墨の冷たさが、指先に伝わってくる。マレーナは、その冷たさで、頭を落ち着けた。鉄塊に触れたときと、同じだった。触れていないと、考えられない。


 レオは、それを黙って見ていた。急かさなかった。マレーナが書き終えるまで、ただ待っていた。




 日が傾いて、レオが帰ったあと。


 マレーナは、机の上の二通の書状を、もう一度手に取った。


 値が倍になったという触れ書き。隊商が組めないという私信。どちらも、王都の崩れを、別々の角度から伝えていた。


 マレーナは、その二通を、符牒帳の間に挟んだ。


 東門の沈黙の報せの隣に、王都の困窮の報せが、二枚加わった。十年分の握手の記録の中に、その握手が抜けたあとの王都が、少しずつ綴られていく。妙なことだ、とマレーナは思った。自分が積んだ握手の帳面が、今は、握手の失われた場所の記録になっている。


 蝋燭の火が、揺れた。




 王都のトルプ商会帳場では、バルト・トルプが机の前に立っていた。


 手には、当主の印を押した依頼状がある。三通。いや、今朝だけで五通になった。


 なぜ、誰も来ない。


 マルゴーの隊商頭への使いは、昨日も一昨日も出した。相場より高い報酬を積んだ。当主の印を押した正式な依頼状を添えた。これだけの条件を揃えれば、隊商の一つや二つ、すぐに動くはずだった。


 だが、使いは手ぶらで戻ってきた。


 バルトは、撫でつけた髪に手をやった。


 理解できなかった。トルプ商会の名は、マルゴー一帯に通っている。父の代から四十年、この看板で隊商が動いてきた。それが今、なぜ動かない。答えは一つしかない——相手が強欲なのだ。報酬が足りないのだ。ならば積めばいい。当主の私が動けば、動く。


 バルトは、六通目の依頼状を書き始めた。




 戸が、控えめに叩かれた。


「マレーナさん」


 ヴィンスの声だった。峠を越えてきたばかりらしい。息が、まだ少し弾んでいる。


「どうぞ」


 戸が開いて、ヴィンスが入ってきた。肩に、旅の埃をのせている。


「峠で、王都の話を聞きました」ヴィンスは言った。「当主のバルト様が、当主の印で隊商頭に使いを送っているそうです。報酬も、相場より高く積んで」


 マレーナは、書状の挟まった符牒帳を、手のひらで押さえた。


「それで」マレーナは訊いた。「隊商頭は、どう答えたのですか」


 ヴィンスは、少し、口ごもった。


「……誰も」ヴィンスは言った。「誰も、応じていません」




 マレーナは、ヴィンスを見た。


「一人も、ですか」


「一人も」ヴィンスは言った。「ガービンのところにも、バルゴのところにも使いが来たそうです。報酬は高い。けれど、皆が断ったと。トルプの看板でなら荷は運べない、と」


「理由を、言いましたか」


「ガービンが、こう言ったそうです」ヴィンスは、思い出すように言った。「『俺が握手したのは、トルプじゃない。マレーナさんだ。看板は、握手を返してこない』と」


 マレーナは、何も言わなかった。


 胸の奥が、また、ことりと動いた。喜びでは、なかった。勝った、という気持ちでもなかった。


 ただ、十年が、ここにある、と思った。




「分かりました」マレーナは言った。「教えてくれて、助かります」


「いえ」ヴィンスは頭を下げた。「では、俺は宿で休みます。明日、荷を出しますので」


 ヴィンスが出ていって、戸が閉まった。


 マレーナは、一人で、机に向かった。


 兄が、看板の名で呼びかけている。けれど、握手は戻ってこない。看板を相続した兄は、握手を相続できなかった。その理屈が今、王都とオーレンの間の峠の上で、隊商頭たちの口から一人ずつ証明されていく。


 マレーナが、十年かけて積んだものだった。


 マレーナは、符牒帳の新しい頁を開いた。


 羽根ペンを取って、一行、書いた。


 ——兄、看板の名で隊商頭を呼ぶ。誰も応じず。




 書いた字を、しばらく見ていた。


 それから、ペンを置いて、窓の外を見た。


 オーレンの広場では、まだ荷が回っていた。篝火が爆ぜ、馬がいなない、車軸が軋む。荷が回る、満ち足りた音だった。


 その音の、遠く向こう。五日の道の果ての王都では、東門の広場が、がらんと静まり返っているはずだった。荷の軋みも、馬のいななきも、消えた広場。十年、自分が荷を捌いてきた場所が、今は、風だけが砂を運んでいるだろう。


 看板は、まだそこにある。


 けれど、その下からは、もう何も動かない。


 マレーナは、蝋燭を吹き消した。


 暗がりの中で、符牒帳の革の表紙を、手のひらでそっと押さえた。角の擦れた革が、ほんのりと温かかった。十年分の握手と、その握手が抜けたあとの王都が、一冊の中で、静かに隣り合っていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第十話で、第一部が幕を下ろします。


オーレンの路は、育ちました。塩が回り、鉄が流れ、毛織が北へ行く。隊商頭が一人また一人と戻り、握手が積み上がっていく。三月前、雪の石畳を一人で歩いたマレーナの不安は、もう薄れています。彼女は看板を失っても、握手は失っていなかった。


けれど、路が育つほど、別の場所が痩せていきます。王都の塩が、値を倍に跳ね上げる。トルプ商会の隊商が、一つも組めない。看板は残ったまま、中身だけが抜けていく。マレーナが手を下したわけではありません。握手が、人と一緒に去っただけです。


そして、兄バルト。看板の名で隊商頭を呼んでも、誰も応じない。「俺が握手したのは、トルプじゃない。マレーナさんだ」——ガービンのその一言が、第一部のすべてでした。看板を相続した兄は、握手を相続できなかった。それを、彼はまだ、本当には分かっていません。


マレーナの胸には、二つの気持ちがあります。兄を恨む気持ちと、罪のない王都の民への懸念。どちらも消えない。彼女は、まだ答えを出しません。確かめてから動く。慌てた者からも、損をします。


次回、第二部「看板の落日」へ。王都の崩れが本格化し、いよいよ兄が、オーレンへ向かいます。


ここまで第一部を読んでくださって、本当にありがとうございました。二人の路は、まだ始まったばかりです。


☆評価・ブクマ・感想をいただけると、次の話を書く手が速くなります。

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