第11話: 形だけの段取り
ヴィンスの差し出した木札を、マレーナは指で受け取った。
角が、ささくれていた。荷札に使う安い杉だった。指の腹が、その粗さを読んだ。マルゴーの塩坑で荷に括りつける、坑出しの札だった。
「峠の宿場で、拾いました」ヴィンスは言った。「トルプ商会の奉公人が、落としたんです」
マレーナは、木札を裏返した。
墨の字が、薄く残っていた。注文の控えらしい。塩の樽数と、宛先と——その下に、一行、添え書きがあった。
「塩坑の水は、いかがか」と書いてあった。
マレーナは、その一行を、しばらく見ていた。
知っている言葉だった。自分が十年、注文書の隅に書き添えてきた一行だった。塩坑の親方への、ただの挨拶ではない。塩坑の水が出れば塩の出来が変わる。だから、訊く。訊いて、相手の答えで仕入れを加減する。
それを、誰かが、なぞっていた。
「これを書いたのは」マレーナは訊いた。「グレスですか」
「ええ」ヴィンスは頷いた。「番頭のグレスさんです。奉公人がこぼしていました。番頭が近頃おかしなことを始めた、と」
天秤亭の二階だった。
昼の光が、欠けた窓から差している。マレーナは机に向かい、ヴィンスは戸口のそばに立っていた。肩に、峠の埃をのせている。
「おかしなこと」マレーナは、繰り返した。
「マレーナさんのやり方を、そっくり真似ているそうです」ヴィンスは言った。「注文書に、雑談を添える。隊商頭に、塩坑の水の話を振る。値は動かさないと、約束する」
ヴィンスは、指を一本ずつ折った。
「マレーナさんが十年やってきたことを、順になぞっているんです」
マレーナは、木札を机に置いた。
兄の次の手が、これだった。
看板の名で呼んでも、隊商頭は応じなかった。報酬を高く積んでも、誰も荷を引き受けなかった。それで兄は、悟ったのだろう。看板では、握手が戻らないと。
だから、今度は、中身を真似ようとしている。
自分の段取りを、グレスに踏ませている。同じ手順を踏めば、同じように隊商が動くはずだ——兄は、そう信じているのだ。
マレーナは、木札の添え書きを、もう一度見た。
手順は、なぞれる。けれど。
「グレスは」マレーナは言った。「十年、わたくしの傍にいました」
「そうらしいですね」
「去り際に、心得を渡したのです」マレーナは言った。「ゴット親方への注文書には、数字だけでなく雑談を添えよと。親方は書式でなく、書いた人間を見るのだから」
ヴィンスは、黙って聞いていた。
「あの心得を」マレーナは言った。「グレスは、覚えていました」
覚えていて、なぞっている。けれど、なぞるのと、できるのとは、違う。雑談を添えるのは、相手を覚えているからだった。塩坑の水を訊くのは、十年、塩坑の水を見てきたからだった。
「ありがとう」マレーナは言った。「助かります」
「いえ」ヴィンスは頭を下げた。「では、俺は荷の支度に戻ります」
ヴィンスが出ていって、戸が閉まった。
マレーナは、木札を符牒帳の間に挟んだ。十年分の握手の記録の中に、その握手を真似ようとする兄の影が、一枚、加わった。
羽根ペンを取って、新しい頁に、一行書いた。
——兄、番頭に段取りを真似させ始める。
書いた字の墨が、まだ濡れていた。指でなぞると、冷たかった。
戸が開いて、レオが入ってきた。
「ヴィンスとすれ違った」レオは言った。「何か、あったのか」
「兄が」マレーナは言った。「わたくしの段取りを、番頭に真似させ始めたそうです」
レオは、向かいの腰掛けに座った。
「真似」
「注文書に雑談を添える。塩坑の水を訊く。値を動かさないと約束する」マレーナは言った。「全部、わたくしが十年やってきたことです」
レオは、腕を組んだ。
「で、うまくいってるのか」
「いきません」マレーナは、はっきり言った。
「言い切るな」レオは、口の端を上げた。「まだ、始まったばかりだろう」
「形は、なぞれます」マレーナは言った。「けれど、形に十年の重みは乗りません」
マレーナは、木札を符牒帳から出して、レオの前に置いた。
「これを見てください」
レオは、木札を手に取った。薄い墨の字を、目で追う。
「塩坑の水は、いかがか」レオは読んだ。「……あんたの、いつものやつだな」
「ええ」マレーナは頷いた。「けれどグレスは、その答えを聞いてどうするかを知りません」
「塩坑の水が出れば」マレーナは言った。「塩の出来が落ちます。湿けて、目方の割に値が出ない。だから水の年は、買い控えるのです」
「ああ」
「水が引けば」マレーナは続けた。「次の坑出しは、塩が締まって良くなる。値が下がる前に、その良い塩を買う。それが、塩坑の水を訊く意味です」
レオは、木札を置いた。
「グレスは、訊くだけか」
「訊くだけです」マレーナは言った。「答えを聞いても、何を読むかを知らない。だから、訊いても何も変わりません」
言ってから、マレーナは、窓の外へ目をやった。
オーレンの広場では、荷が回っていた。荷夫の影が、塩袋を担いで、ゆっくりと蔵へ消えていく。日の差す広場だった。
その明るさの、遠く向こう。五日の道の果ての王都では、東門の広場が、暗いはずだった。荷が消え、人が引いて、灯の落ちた広場。明るさと暗さが、五日の道を挟んで、向かい合っていた。
マレーナは、こちらの明るさを、長くは見ていられなかった。
こちらが明るいほど、向こうは暗い。同じ塩が、同じ隊商が、両方の広場に同時にあることはできない。荷には、限りがある。
それを、マレーナは十年、誰よりよく知っていた。
夕刻に、その続きが届いた。
戸が叩かれて、開くと、行商の老人が立っていた。霜焼けで赤くなった手に、塩袋を提げている。レオが声をかけた相手だった。
「ハルダーの旦那に」老人は言った。「王都の塩の話を、伝えてくれと頼まれました」
「上がれ」レオが言った。
老人は、腰掛けに座ると、塩袋を膝に置いた。
「王都の塩が」老人は言った。「もう一度、跳ねました」
「もう一度」マレーナは、繰り返した。
「先月、平時の倍になったでしょう」老人は言った。「樽一つ、二十二銀。それが、なお上がっています。二十五を超えたとか」
マレーナの指が、符牒帳の角で止まった。
「二十五」
「ええ」老人は頷いた。「妙な話なんですよ。塩が上がるのは、路が止まってるからだ。なら、買い手は様子を見るはずでしょう。値が落ち着くのを待って、買う」
「ふつうは、そうです」
「ところが」老人は言った。「トルプ商会が、高値で買い込んでるそうで」
マレーナは、老人を見た。
「買い込んでいる」
「ええ」老人は言った。「番頭が塩坑から出る塩を、片端から買い付けているそうです。二十五でも二十六でも、出れば買う。値はまだ上がると見ているらしい」
マレーナは、何も言わなかった。
頭の中で、天秤が、傾いた。
塩は、塩坑から出る量が決まっている。値が二十二まで跳ねたのは、路が止まって王都へ届かないからだった。一時の、路の詰まりだった。塩坑が涸れたわけではない。
路が通れば、値は、落ちる。
「番頭は」マレーナは言った。「値が、まだ上がると読んだのですね」
「らしいです」老人は言った。「だから今のうちに買っておけ、と」
「逆です」マレーナは、低く言った。
老人が、顔を上げた。
「逆、ですかい」
「値が二十二まで跳ねたのは」マレーナは言った。「路が一時、詰まったからです。詰まりは、いつか抜けます。抜ければ、塩はまた流れ出す。流れ出せば、値は元へ戻る」
マレーナは、符牒帳に手を置いた。
「頂で買えば、底で抱えます」
レオが、低く口笛を鳴らした。
「蔵に、二十五の塩が山積みになるってことか」
「ええ」マレーナは頷いた。「路が抜けて値が十二に戻れば、その塩は半値以下の蔵荷です。買った銀は、戻りません」
「それを、番頭は読めてないのか」
「読めません」マレーナは言った。「読むには、塩坑を十年見ていなければなりません。いつ路が抜けるか。抜ければ値がどこまで戻るか。それは、注文書の雑談には書いてありません」
マレーナは、木札を、指で押さえた。
「段取りは、なぞれます。けれど、相場を読む目はなぞれません」
レオは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと言った。
「あんたなら、買わないんだな」
「買いません」マレーナは言った。「水の年でなくても、頂では買いません。頂で買って損をした隊商を、十年いくつも見てきました」
「兄貴は」レオは言った。「その逆をやってるわけだ」
「ええ」
「あんたの段取りを真似て」レオは言った。「あんたと逆の手を打ってる」
マレーナは、頷いた。
形を真似ても、中身が空なら、舵は逆へ切れる。手順だけが、一人歩きしていた。
けれど、マレーナの胸は、晴れなかった。
兄が損をするのは、自業自得だった。看板を頂いて、握手を相続できなかった。番頭に真似をさせ、頂で塩を抱える。それは、兄が蒔いたものだった。
けれど。
「番頭が塩を買い占めれば」マレーナは言った。「王都の塩は、いまよりもっと上がります」
「ああ」レオは言った。「塩坑から出た分を、片端から抱え込むんだからな」
「市に、塩が回りません」マレーナは続けた。「値は二十五から、もっと上がる。三十を超えるかもしれません」
マレーナの声が、また、低くなった。
「貧しい家は」マレーナは言った。「二十二でも、塩を買えなくなっていました。それが、三十になれば」
マレーナは、言葉を切った。
冬の肉を漬けられない家。塩なしで、何日も過ごす家。そういう家が、兄の番頭の読み違い一つで、増えていく。
「彼らは」マレーナは言った。「兄の見栄とも、番頭の読み違いとも関わりがありません。ただ、塩を待っているだけです」
「あんたは」レオは言った。「その民のことが、気にかかるんだな」
「左様です」マレーナは言った。「数字なら、答えが出ます。けれど、これは出ません」
マレーナは、レオを見た。
この男は、こちらの話を、最後まで聞く。急かさず、遮らず、結論を奪わない。十年、競りの広間でぶつかってきた相手だった。それが今は向かいに座って、こちらの迷いを、黙って受け止めている。
ふと、自分がこの男を、何と呼んでいるかに気づいた。
いつからか、心の中で「レオ殿」と呼んでいた。
オーレンに来たばかりの頃は、「ハルダー商会の方」だった。商売敵への、礼儀正しい距離だった。それが、いつの間にか縮んでいた。関所でガルニを論破した日。葡萄酒を酌み交わした夜。荷を下ろした晩の、馬の落ち着いた息。そういう日が、一つずつ積み重なっていた。
「レオ殿」マレーナは、口に出した。
「ん」レオは、顔を上げた。「今、何て呼んだ」
「いえ」マレーナは、わずかに目を伏せた。「……何でもありません」
レオは、口の端を上げた。けれど、それ以上は、つつかなかった。襟の古い銅貨を、指でそっと押さえる。決まりが悪いときの、この男の癖だった。
「とにかく」レオは言った。「今日決めることじゃない。塩を、いつ王都へ戻すか。戻すなら、どんな値で戻すか。それは確かめてからだ」
「ええ」マレーナは頷いた。
「だが」レオは言った。「番頭が頂で買い込むのが本当なら、放っておいてもそう遠くない。蔵が、塩で溢れる」
マレーナは、頷いた。
番頭が、買い込む。値が上がる。買い込むほど、蔵が膨らむ。やがて、路が抜ける。値が落ちる。蔵の塩が、底荷になる。
その因果は、もう、回り始めていた。
老人が、礼を言って、塩袋を担いだ。
「あんた、王都の方だろう」戸口で、老人は振り返った。「その帳面で、分かる。差配の帳面だ」
「以前は、そうでした」マレーナは言った。「今は、自分の名で商っています」
老人は、それ以上は訊かず、霜焼けの手を上げて、広場へ出ていった。
戸が閉まると、食堂が静かになった。
レオも、立ち上がった。
「俺も、行く」レオは言った。「カルンの毛織の段取りがある。明日、また来る」
「ええ」マレーナは言った。「気をつけて」
レオは、襟の銅貨を指で弾いて、出ていった。
一人になって、マレーナは、机に向かった。
符牒帳の新しい頁に、もう一行、書き足した。
——番頭、頂で塩を買い込む。値はまだ上がると読む。逆。
書いた字を、指の腹でなぞった。墨が、まだ濡れていて、冷たかった。
その冷たさで、頭を落ち着けた。鉄塊に触れたときと、同じだった。触れていないと、考えられない。
兄は、看板を持っている。商館も、帳場も、蔵もある。そして今、自分の段取りまで、手に入れた。
看板と、段取りが、揃った。
けれど、揃った道具を、逆へ向けて使っている。
マレーナは、ペンを置いて、窓の外を見た。
オーレンの広場は、まだ明るかった。荷夫が蔵の戸を閉め、馬が水を飲んでいる。一日の終わりの、満ちた静けさだった。
その明るさの、遠く向こうの王都では、番頭のグレスが、自分の真似た注文書を握りしめているのだろう。塩坑の水を訊いて。値据え置きを約束して。けれど、答えの読み方を知らないまま、二十五銀の塩を、片端から蔵へ運び込んでいる。
その蔵が膨らむほど、王都の市から塩が消える。塩が消えるほど、貧しい家の鍋から、味が消える。
兄の見栄が、番頭の手を借りて、王都の食卓を、一つずつ細らせていく。
マレーナは、蝋燭を吹き消した。
暗がりの中で、符牒帳の革の表紙を、手のひらでそっと押さえた。角の擦れた革が、ほんのりと温かかった。十年分の握手と、その握手を真似て逆へ切られた舵とが、一冊の中で、静かに向かい合っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第二部「看板の落日」、二話目です。
看板で呼んでも隊商頭が応じなかった兄バルトは、次の手として、マレーナの段取りそのものを真似させ始めました。注文書に雑談を添え、塩坑の水を訊き、値据え置きを約束する。同じ手順を踏めば、同じ結果が出るはずだ——兄は、そう信じています。
けれど、段取りには、答えの読み方が書いてありません。塩坑の水を訊いても、その答えで何を仕入れるかを知らなければ、訊いただけで終わります。グレスは、頂まで跳ねた塩を「まだ上がる」と読んで、高値で買い込み始めました。マレーナなら、絶対にしない判断です。値の頂で買えば、底で抱える。これが、次回「読めない数字」へ続きます。
そしてマレーナの胸には、また、二つの気持ちが灯ります。兄が自滅するのは自業自得。けれど、番頭の読み違い一つで、王都の貧しい家の鍋から、味が一つずつ消えていく。彼女は、手を下しません。ただ、因果が回るのを、レオ殿と並んで見ています。
奪えるのは、看板だけ。そして今わかったのは——段取りの「形」さえ、奪っても、舵は逆へ切れるということでした。
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