表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『商いは男の仕事だ』と追放された交易令嬢、十年の商売敵と組んで大陸一の交易路を拓く  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/54

第11話: 形だけの段取り

 ヴィンスの差し出した木札を、マレーナは指で受け取った。


 角が、ささくれていた。荷札に使う安い杉だった。指の腹が、その粗さを読んだ。マルゴーの塩坑で荷に括りつける、坑出しの札だった。


「峠の宿場で、拾いました」ヴィンスは言った。「トルプ商会の奉公人が、落としたんです」


 マレーナは、木札を裏返した。


 墨の字が、薄く残っていた。注文の控えらしい。塩の樽数と、宛先と——その下に、一行、添え書きがあった。


「塩坑の水は、いかがか」と書いてあった。




 マレーナは、その一行を、しばらく見ていた。


 知っている言葉だった。自分が十年、注文書の隅に書き添えてきた一行だった。塩坑の親方への、ただの挨拶ではない。塩坑の水が出れば塩の出来が変わる。だから、訊く。訊いて、相手の答えで仕入れを加減する。


 それを、誰かが、なぞっていた。


「これを書いたのは」マレーナは訊いた。「グレスですか」


「ええ」ヴィンスは頷いた。「番頭のグレスさんです。奉公人がこぼしていました。番頭が近頃おかしなことを始めた、と」




 天秤亭の二階だった。


 昼の光が、欠けた窓から差している。マレーナは机に向かい、ヴィンスは戸口のそばに立っていた。肩に、峠の埃をのせている。


「おかしなこと」マレーナは、繰り返した。


「マレーナさんのやり方を、そっくり真似ているそうです」ヴィンスは言った。「注文書に、雑談を添える。隊商頭に、塩坑の水の話を振る。値は動かさないと、約束する」


 ヴィンスは、指を一本ずつ折った。


「マレーナさんが十年やってきたことを、順になぞっているんです」


 マレーナは、木札を机に置いた。




 兄の次の手が、これだった。


 看板の名で呼んでも、隊商頭は応じなかった。報酬を高く積んでも、誰も荷を引き受けなかった。それで兄は、悟ったのだろう。看板では、握手が戻らないと。


 だから、今度は、中身を真似ようとしている。


 自分の段取りを、グレスに踏ませている。同じ手順を踏めば、同じように隊商が動くはずだ——兄は、そう信じているのだ。


 マレーナは、木札の添え書きを、もう一度見た。


 手順は、なぞれる。けれど。




「グレスは」マレーナは言った。「十年、わたくしの傍にいました」


「そうらしいですね」


「去り際に、心得を渡したのです」マレーナは言った。「ゴット親方への注文書には、数字だけでなく雑談を添えよと。親方は書式でなく、書いた人間を見るのだから」


 ヴィンスは、黙って聞いていた。


「あの心得を」マレーナは言った。「グレスは、覚えていました」


 覚えていて、なぞっている。けれど、なぞるのと、できるのとは、違う。雑談を添えるのは、相手を覚えているからだった。塩坑の水を訊くのは、十年、塩坑の水を見てきたからだった。




「ありがとう」マレーナは言った。「助かります」


「いえ」ヴィンスは頭を下げた。「では、俺は荷の支度に戻ります」


 ヴィンスが出ていって、戸が閉まった。


 マレーナは、木札を符牒帳の間に挟んだ。十年分の握手の記録の中に、その握手を真似ようとする兄の影が、一枚、加わった。


 羽根ペンを取って、新しい頁に、一行書いた。


 ——兄、番頭に段取りを真似させ始める。


 書いた字の墨が、まだ濡れていた。指でなぞると、冷たかった。




 戸が開いて、レオが入ってきた。


「ヴィンスとすれ違った」レオは言った。「何か、あったのか」


「兄が」マレーナは言った。「わたくしの段取りを、番頭に真似させ始めたそうです」


 レオは、向かいの腰掛けに座った。


「真似」


「注文書に雑談を添える。塩坑の水を訊く。値を動かさないと約束する」マレーナは言った。「全部、わたくしが十年やってきたことです」


 レオは、腕を組んだ。


「で、うまくいってるのか」




「いきません」マレーナは、はっきり言った。


「言い切るな」レオは、口の端を上げた。「まだ、始まったばかりだろう」


「形は、なぞれます」マレーナは言った。「けれど、形に十年の重みは乗りません」


 マレーナは、木札を符牒帳から出して、レオの前に置いた。


「これを見てください」


 レオは、木札を手に取った。薄い墨の字を、目で追う。


「塩坑の水は、いかがか」レオは読んだ。「……あんたの、いつものやつだな」


「ええ」マレーナは頷いた。「けれどグレスは、その答えを聞いてどうするかを知りません」




「塩坑の水が出れば」マレーナは言った。「塩の出来が落ちます。湿けて、目方の割に値が出ない。だから水の年は、買い控えるのです」


「ああ」


「水が引けば」マレーナは続けた。「次の坑出しは、塩が締まって良くなる。値が下がる前に、その良い塩を買う。それが、塩坑の水を訊く意味です」


 レオは、木札を置いた。


「グレスは、訊くだけか」


「訊くだけです」マレーナは言った。「答えを聞いても、何を読むかを知らない。だから、訊いても何も変わりません」


 言ってから、マレーナは、窓の外へ目をやった。




 オーレンの広場では、荷が回っていた。荷夫の影が、塩袋を担いで、ゆっくりと蔵へ消えていく。日の差す広場だった。


 その明るさの、遠く向こう。五日の道の果ての王都では、東門の広場が、暗いはずだった。荷が消え、人が引いて、灯の落ちた広場。明るさと暗さが、五日の道を挟んで、向かい合っていた。


 マレーナは、こちらの明るさを、長くは見ていられなかった。


 こちらが明るいほど、向こうは暗い。同じ塩が、同じ隊商が、両方の広場に同時にあることはできない。荷には、限りがある。


 それを、マレーナは十年、誰よりよく知っていた。




 夕刻に、その続きが届いた。


 戸が叩かれて、開くと、行商の老人が立っていた。霜焼けで赤くなった手に、塩袋を提げている。レオが声をかけた相手だった。


「ハルダーの旦那に」老人は言った。「王都の塩の話を、伝えてくれと頼まれました」


「上がれ」レオが言った。


 老人は、腰掛けに座ると、塩袋を膝に置いた。


「王都の塩が」老人は言った。「もう一度、跳ねました」




「もう一度」マレーナは、繰り返した。


「先月、平時の倍になったでしょう」老人は言った。「樽一つ、二十二銀。それが、なお上がっています。二十五を超えたとか」


 マレーナの指が、符牒帳の角で止まった。


「二十五」


「ええ」老人は頷いた。「妙な話なんですよ。塩が上がるのは、路が止まってるからだ。なら、買い手は様子を見るはずでしょう。値が落ち着くのを待って、買う」


「ふつうは、そうです」


「ところが」老人は言った。「トルプ商会が、高値で買い込んでるそうで」




 マレーナは、老人を見た。


「買い込んでいる」


「ええ」老人は言った。「番頭が塩坑から出る塩を、片端から買い付けているそうです。二十五でも二十六でも、出れば買う。値はまだ上がると見ているらしい」


 マレーナは、何も言わなかった。


 頭の中で、天秤が、傾いた。


 塩は、塩坑から出る量が決まっている。値が二十二まで跳ねたのは、路が止まって王都へ届かないからだった。一時の、路の詰まりだった。塩坑が涸れたわけではない。


 路が通れば、値は、落ちる。




「番頭は」マレーナは言った。「値が、まだ上がると読んだのですね」


「らしいです」老人は言った。「だから今のうちに買っておけ、と」


「逆です」マレーナは、低く言った。


 老人が、顔を上げた。


「逆、ですかい」


「値が二十二まで跳ねたのは」マレーナは言った。「路が一時、詰まったからです。詰まりは、いつか抜けます。抜ければ、塩はまた流れ出す。流れ出せば、値は元へ戻る」


 マレーナは、符牒帳に手を置いた。


「頂で買えば、底で抱えます」




 レオが、低く口笛を鳴らした。


「蔵に、二十五の塩が山積みになるってことか」


「ええ」マレーナは頷いた。「路が抜けて値が十二に戻れば、その塩は半値以下の蔵荷です。買った銀は、戻りません」


「それを、番頭は読めてないのか」


「読めません」マレーナは言った。「読むには、塩坑を十年見ていなければなりません。いつ路が抜けるか。抜ければ値がどこまで戻るか。それは、注文書の雑談には書いてありません」


 マレーナは、木札を、指で押さえた。


「段取りは、なぞれます。けれど、相場を読む目はなぞれません」




 レオは、しばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと言った。


「あんたなら、買わないんだな」


「買いません」マレーナは言った。「水の年でなくても、頂では買いません。頂で買って損をした隊商を、十年いくつも見てきました」


「兄貴は」レオは言った。「その逆をやってるわけだ」


「ええ」


「あんたの段取りを真似て」レオは言った。「あんたと逆の手を打ってる」


 マレーナは、頷いた。


 形を真似ても、中身が空なら、舵は逆へ切れる。手順だけが、一人歩きしていた。




 けれど、マレーナの胸は、晴れなかった。


 兄が損をするのは、自業自得だった。看板を頂いて、握手を相続できなかった。番頭に真似をさせ、頂で塩を抱える。それは、兄が蒔いたものだった。


 けれど。


「番頭が塩を買い占めれば」マレーナは言った。「王都の塩は、いまよりもっと上がります」


「ああ」レオは言った。「塩坑から出た分を、片端から抱え込むんだからな」


「市に、塩が回りません」マレーナは続けた。「値は二十五から、もっと上がる。三十を超えるかもしれません」


 マレーナの声が、また、低くなった。




「貧しい家は」マレーナは言った。「二十二でも、塩を買えなくなっていました。それが、三十になれば」


 マレーナは、言葉を切った。


 冬の肉を漬けられない家。塩なしで、何日も過ごす家。そういう家が、兄の番頭の読み違い一つで、増えていく。


「彼らは」マレーナは言った。「兄の見栄とも、番頭の読み違いとも関わりがありません。ただ、塩を待っているだけです」


「あんたは」レオは言った。「その民のことが、気にかかるんだな」


「左様です」マレーナは言った。「数字なら、答えが出ます。けれど、これは出ません」




 マレーナは、レオを見た。


 この男は、こちらの話を、最後まで聞く。急かさず、遮らず、結論を奪わない。十年、競りの広間でぶつかってきた相手だった。それが今は向かいに座って、こちらの迷いを、黙って受け止めている。


 ふと、自分がこの男を、何と呼んでいるかに気づいた。


 いつからか、心の中で「レオ殿」と呼んでいた。


 オーレンに来たばかりの頃は、「ハルダー商会の方」だった。商売敵への、礼儀正しい距離だった。それが、いつの間にか縮んでいた。関所でガルニを論破した日。葡萄酒を酌み交わした夜。荷を下ろした晩の、馬の落ち着いた息。そういう日が、一つずつ積み重なっていた。


「レオ殿」マレーナは、口に出した。


「ん」レオは、顔を上げた。「今、何て呼んだ」




「いえ」マレーナは、わずかに目を伏せた。「……何でもありません」


 レオは、口の端を上げた。けれど、それ以上は、つつかなかった。襟の古い銅貨を、指でそっと押さえる。決まりが悪いときの、この男の癖だった。


「とにかく」レオは言った。「今日決めることじゃない。塩を、いつ王都へ戻すか。戻すなら、どんな値で戻すか。それは確かめてからだ」


「ええ」マレーナは頷いた。


「だが」レオは言った。「番頭が頂で買い込むのが本当なら、放っておいてもそう遠くない。蔵が、塩で溢れる」


 マレーナは、頷いた。


 番頭が、買い込む。値が上がる。買い込むほど、蔵が膨らむ。やがて、路が抜ける。値が落ちる。蔵の塩が、底荷になる。


 その因果は、もう、回り始めていた。




 老人が、礼を言って、塩袋を担いだ。


「あんた、王都の方だろう」戸口で、老人は振り返った。「その帳面で、分かる。差配の帳面だ」


「以前は、そうでした」マレーナは言った。「今は、自分の名で商っています」


 老人は、それ以上は訊かず、霜焼けの手を上げて、広場へ出ていった。


 戸が閉まると、食堂が静かになった。


 レオも、立ち上がった。


「俺も、行く」レオは言った。「カルンの毛織の段取りがある。明日、また来る」


「ええ」マレーナは言った。「気をつけて」


 レオは、襟の銅貨を指で弾いて、出ていった。




 一人になって、マレーナは、机に向かった。


 符牒帳の新しい頁に、もう一行、書き足した。


 ——番頭、頂で塩を買い込む。値はまだ上がると読む。逆。


 書いた字を、指の腹でなぞった。墨が、まだ濡れていて、冷たかった。


 その冷たさで、頭を落ち着けた。鉄塊に触れたときと、同じだった。触れていないと、考えられない。


 兄は、看板を持っている。商館も、帳場も、蔵もある。そして今、自分の段取りまで、手に入れた。


 看板と、段取りが、揃った。


 けれど、揃った道具を、逆へ向けて使っている。




 マレーナは、ペンを置いて、窓の外を見た。


 オーレンの広場は、まだ明るかった。荷夫が蔵の戸を閉め、馬が水を飲んでいる。一日の終わりの、満ちた静けさだった。


 その明るさの、遠く向こうの王都では、番頭のグレスが、自分の真似た注文書を握りしめているのだろう。塩坑の水を訊いて。値据え置きを約束して。けれど、答えの読み方を知らないまま、二十五銀の塩を、片端から蔵へ運び込んでいる。


 その蔵が膨らむほど、王都の市から塩が消える。塩が消えるほど、貧しい家の鍋から、味が消える。


 兄の見栄が、番頭の手を借りて、王都の食卓を、一つずつ細らせていく。


 マレーナは、蝋燭を吹き消した。


 暗がりの中で、符牒帳の革の表紙を、手のひらでそっと押さえた。角の擦れた革が、ほんのりと温かかった。十年分の握手と、その握手を真似て逆へ切られた舵とが、一冊の中で、静かに向かい合っていた。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


第二部「看板の落日」、二話目です。


看板で呼んでも隊商頭が応じなかった兄バルトは、次の手として、マレーナの段取りそのものを真似させ始めました。注文書に雑談を添え、塩坑の水を訊き、値据え置きを約束する。同じ手順を踏めば、同じ結果が出るはずだ——兄は、そう信じています。


けれど、段取りには、答えの読み方が書いてありません。塩坑の水を訊いても、その答えで何を仕入れるかを知らなければ、訊いただけで終わります。グレスは、頂まで跳ねた塩を「まだ上がる」と読んで、高値で買い込み始めました。マレーナなら、絶対にしない判断です。値の頂で買えば、底で抱える。これが、次回「読めない数字」へ続きます。


そしてマレーナの胸には、また、二つの気持ちが灯ります。兄が自滅するのは自業自得。けれど、番頭の読み違い一つで、王都の貧しい家の鍋から、味が一つずつ消えていく。彼女は、手を下しません。ただ、因果が回るのを、レオ殿と並んで見ています。


奪えるのは、看板だけ。そして今わかったのは——段取りの「形」さえ、奪っても、舵は逆へ切れるということでした。


☆評価・ブクマ・感想をいただけると、次の話を書く手が速くなります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ