そうだ、海に行こう
食堂で昼食を食べていたら、同席した幼子がふとこんなことを言った。
「そういえば私、本物の海って一回も見たことありません」
その視線の先にはテレビ、どこかは知らないけれど多分外国の大海原が映っている。
キラキラ輝く魚影と空とは違う青の水の色に夢中になっているらしいその子は、こんなことを聞いてきた。
「お姉さんは見たことありますか、海」
「いいえ」
考えるまでもなく答えは否だった。
なんせ自分は生まれた直後に『施設』に引き渡されたので外の世界を知らなかったし、『施設』が解体された後はあの実験場でぐちゃぐちゃにされていた。
ここに来て外を出歩ける自由を手に入れたけど、遠くの方には行ったことはない。
「行ってみたい?」
と幼子に聞いていた、行ってみたいのは自分だったのに。
幼子はちらりとこちらを見て、静かに首肯した。
「なら今度行ってみましょうか、海」
そう提案してみると子供は小さく目を見開いた。
インターネットで適当に調べたところ、最寄駅から電車に乗って一時間程度のところに海があるらしい。
そこ以外にもいくつか候補がある、どうせなら海の他にもと思って適当に検索していたら水族館や観光地もヒットした。
海に行って水族館その他に寄って、それでも日帰りで事足りるようだ。
どこに行くかは幼子と要相談、個人的には水族館に行ってみたいけど、小さい子の意見を優先しよう。
なんてことを考えつつ、今夜も映画を見ることにした。
ポップコーン片手に廊下を歩いていたら、すっと後ろから影が。
「あら、奇遇ね。暇なら付き合う?」
振り返ってそう聞いてみると、嫌味なくらい身長が高い男は無言で首肯した。
いつのまにか自分の横に並んだ彼に、一応小さな子も連れて行くのだからと話しておくことにした。
「今度コトハと海見に行くから、日帰りで」
行き先はまだ決まっていないけどお土産で欲しいものとかあるかと続けて聞こうとしたら、片手を引っ掴まれた。
「は?」
「え? なんか駄目?」
そこまでやばいことを言ったつもりはなかった、日帰りで海行くだけって、そんな大層な話じゃない。
例えば『来週四泊五日で海外に行ってくる』とかだったらその反応も妥当だっただろうけど。
そんなに駄目な要素なくないか、と顔を見上げると彼はやや渋い顔になった。
「駄目に決まっているだろう」
「何で?」
「危ないだろう。何かあったらどうする」
危ない、か。
確かに最近海難事故のニュースをよく聞く。
あとカツオノエボシとかいう毒クラゲとかも打ち上げられるらしい、触るとなんかやばいらしい。
確かに、海は危ない場所といえばそうなのかもしれない、自分もあの子も海には一回も行ったことがない海初心者、危険への対応は完璧には程遠いだろう。
けど、行く前に危険物の知識と対応方法を学び、万全の状態で挑めば問題ないはず。
「大丈夫よ。行く前に何が危険かはちゃんと調べるしコトハにも言い聞かせるから」
「大丈夫なわけがあるか。海にはよくない者が少なからずいる。お前だけでなくコトハに何かあったらどうする?」
コトハを引き合いに出せばこちらが引くと思っているらしい、けれど引く気はない。
確かによくない物はたくさんあるのだろう、カツオノエボシの他にも毒のある生物とかもいるらしいし。
けど、事前に調べておけば多分問題ない、そもそも生物なんかには最初から触らなければそれでいいはずだ。
「だから大丈夫だって、そういうのには近寄らないようにするし」
「お前らがそう思っていても寄ってくる者はいるだろう」
「そういうものかしら?」
調べてすぐに出てきたカツオノエボシはそもそもクラゲなので浜辺では身動きとか取れなそうな気がするけど、他になんかいるんだろうか、危険生物。
「……お前は本当に呆れるほど呑気だな。大体お前もコトハも泳げるのか?」
「失礼な。あたしは一応泳げるわよ」
『施設』で一応水泳はやらされていた、平泳ぎならいける、今はどうだかわからないけれど、一回は泳げるようになった身なので多分大丈夫。
「コトハは……どうだか知らないけど。けど別に泳げなくても平気よ」
事故とか怖いし、波打ち際に多少近付いてみようとは思っているけれど、波にのまれるようなことは絶対にないように注意するつもりだった。
なので別に泳げなくても、と思ったのに、何か妙な顔をされてしまった。
「は? ……いや待て、お前、海に何をしに行くつもりだ」
「だから、見に行くのよ」
「見るだけ、か?」
「ええ。……あたし達、実物見たことないから。一回くらい見てみたいのよ、海を」
そう答えると、彼は小さく溜息を吐いた。
「……なら、もう二、三ヶ月後にしておけ。今の時期は泳ぎに来た観光客で溢れかえっているぞ」
そう言われて、ようやくこの男が何を心配していたのかやっと理解できた。
「あ、ええ、そうね。そっか人が多いと見づらいものね、海。……あと、何で駄目と言われたのか意味わからなかったけど、泳ぐつもりだと思われてたのね」
それなら先ほどのよくないものが寄ってくるというのも、泳いでいる最中にとかそういう話だったのだろう。
うん、納得した。
納得した上で時期をずらすという提案も受け入れることにした、どうせならゆっくりじっくり海というものを堪能したいので。
「……いつ行く気かは知らないが、必ず事前に声をかけろ」
「ええ、わかってるわよ」
自分一人ならまだしも、小さい子を連れて遠出するなら声くらいかける。
それに一応あの子は彼の弟子なので。
「それで、お土産とかで欲しいものってある? どこ行くかは決まってないけど、どうせなら海以外にも水族館とか行こうと思ってる」
「土産は不要だ。……というか、二人で行かせるとでも?」
おっと、これはついてくる気か。
……まあ、別にいいか。
というか、あたし一人にコトハを任せられないということなのかもしれない。
不甲斐なくて悔しいけど、そう思われても仕方ないので抗議はしない。
「わかったわよ。確かにあたしに可愛い弟子を任せるのは不安でしょうね」
「何を言っている?」
「はい?」
「逆だ。コトハにお前を任せるのは荷が重い」
…………。
怒っていいか、怒っていいな、これは流石に怒るべきことであっているよねえ!!?
その後、流石に逆はないだろうと抗議したけれど、コトハの方がお前よりも余程しっかりしているという言葉を皮切りに、こちらの間抜けさと迂闊さを淡々と述べられた。
すごく悔しいけれど全部本当のことではあった。
ぐうの音も出ないとはきっとこういうことを言う。くやしい、腹立つ。




