喧嘩(裏)
弱くはないがとてつもなく脆く、弱くないからこそまともに抵抗できず虐げられるしかない女。
自分と運命を共にすることになったのはそういう女だった。
世界を滅ぼす力を持っているくせに、いやだからこそ、その力を十全に発揮することができないのだ。
強情な性格であるので普段は強がっているが、凄まじく脆いことを知っている。
本人は隠しているつもりなのだろうが、毎夜悪夢に苦しんでいることも、明るいところが怖くて眩しい光を目にするたびにその顔を引き攣らせていることも、知っていた。
だからあれは自分が護るべき存在だ。
こんな世界滅べばいいと叫びながら、それでも自分が引き起こす滅びに友が巻き込まれることを許容できずに死を選ぼうとした、そんな後ろ向きの善性を持つ女だったから。
だから殺さなかった、殺すべきではないと、そう思った。
自分はあれを殺すためだけに生きていたようなものだったのに。
けれども、殺さないという選択を取ったからには責任は取らなければならない。
あれには世界を滅ぼす力がある、けれどもあれは善良なので世界を滅ぼすためにその力を使おうとはしていない。
しかしそれは『今のところ』なのだ、あれがもう一度追い詰められればどう転ぶかわからない。
だから、あれを追い詰める者、傷つける者、あれを世界を滅ぼす存在に貶める全てを、この手で。
それがあれを生かした自分が背負うべき責任だ。
その行為を護ると言っていいのか、今になっても答えは出ないがそれでも護っているつもりでいる。
あれに無粋な真似をしようとするものはことごとく斬り捨て、あれがもう二度と傷つけられぬようにと。
自分にはそういうやり方しかできなかった、それ以外にできることなどなかった。
だから、自分なりにやれるだけのことはやっていたつもりだった。
それなのにあれは、簡単にこちらの護りからすり抜けようとする。
一人で平気だとほざくのだ、平気なわけがないのに。
それがわかっていないのだ、きっととても頭が悪いのだろう。
あるいは甘いのだ、世界というものへの認識が。
世界の滅びを一時的とはいえ本気で望んでいたくせに、それを望まずにはいられないほどに痛めつけられた過去があるくせに、もう大丈夫だなんて信じ込んでいる。
大丈夫なわけがない。
あれを狙うものはまだいる、まだ滅ぼしきれていない。
斬っても斬っても蛆のようにあちこちから湧いて出てくる、本当に、キリがない。
あれは元々人間として見られていなかった、ただの莫大なエネルギー源だとしか見られていなかったらしい。
そのために何をされていたのかも知っている、その力を引き出すためだけにあらゆる尊厳が破壊され、どれだけの傷がつけられていたのかも。
それを知って世界を滅ぼそうだなんては思わなかったが、それをやった全てとそれをやろうとする全ては悉く滅ぼそうと思った。
すぐに終わると思っていたのに終わらない、自分の不出来さをこんなところで実感したくはなかった。
なので、まだこの世界はあれにとって全く安全なんかではなくて、そんな場所であれを野放しにするわけにはいかない。
ここならまだ安全だろう、悪意あるものは多かれど、互いに手を出せば悲惨なことになるということを理解しているものが大半だから。
けれども、外は駄目だ。
何もかも理解していないものが多すぎる、それなのにあれに汚い手を伸ばすものが。
その力の有用さを理解して手を伸ばしてくる輩だけでも厄介なのに、あれの美しさに目が眩んで手を伸ばしてくる下衆どもまでいるのだから、勘弁して欲しい。
けれども一番勘弁して欲しいのはそれを理解していないあれのあり方だ。
全く何もわかっていないわけではないらしいが、しかし、あまりにも認識が甘い。
弱くはない、けして弱くはないのは認めよう。
けれどもそのせいで他者を必要以上に傷つけることを躊躇う繊細さを持つあれが、世界の醜さというものをまるで理解していないというのがよろしくない。
もっと慎重に生きてくれればこちらの苦労だって幾分軽くなるというのに。
案外血の臭いに聡いあれに気取られぬように身を清め、適当に軽食でもとろうかと食堂に向かう途中でふと嗅ぎなれた匂いを感じた。
匂いを辿ると小さな背中が見えた。
美しく脆そうな無防備な女の背。
片手で握っただけで折れそうな首は艶のある髪のせいで見えなかった、見えないことに気付いてはじめて、随分と髪が伸びたなと思った。
髪の長さなどどうでもいいが、これ以上美しくなられても困ると思った。
思わず手を伸ばしたくなる。
自分でさえそうなのだから、気安く女を襲って快楽に溺れるような男共があれを見れば当然その汚い手で触れようとするだろう。
自分の手がいくら汚れようと構わないが、あれがこれ以上穢されるのは我慢ならない。
そんなことを考えているうちに小さな背は遠ざかっていく。
とはいえ、追いつくのは容易いが。
あれはのろい上に足が短い。
こちらが少し早めに歩く程度の速度があれの全速力の走りとほぼ同じなのだ。
なので、もしあれがこちらから逃げようとしたところで絶対に逃すことはない。
とはいえ、逃げられるようなことは特にない、そう思って声をかける。
「また映画か」
小さな背が飛び跳ねて、くるりと回った。
どうやらこちらの気配に全く気付いていなかったらしい女の見慣れた驚愕顔がこちらを見上げてくる。
その手にはポップコーン入りのカップ、おそらくバター味だろう。
「びっくりした……なにか用?」
強張った声でそう問われたので首を横に振る。
別に用があったわけではない。
いるのがわかったからその気配を追って、その顔を正面から見たかったから声をかけただけだ。
こちらを見上げる女の顔を見つめると、目を逸らされた。
「そう、用がないならもういくわね」
随分と寂しく冷たいことを言ってくれるじゃないかと思った。
普段ならぶっきらぼうに、暇なら一緒に見るかと言ってくるのに。
薄情な女はそのまま自分に背を向け立ち去ろうとする。
追い抜かないようにその横に並ぶと、女はぎょっとした顔でこちらを見上げた。
「うわっ……何よ、用とかないんでしょ」
「用はないが……今日は一緒に見ようとは言ってくれないのか」
ひくりと女の顔が強張り固まった。
そのまま足も止まってしまったのでこちらも立ち止まる。
間抜けに見開かれた目を見つめると、女の顔はどんどん引き攣っていく。
何故そんな顔をするのか、意味がわからない。
「………………暇なのあなた」
躊躇いがちに口を開いた女は小さくぽつりと呟いた。
「ああ、先程面倒な仕事が終わったばかりだ」
「仕事が終わったばかりなら」
「ちょうど退屈していたんだ、いいだろう?」
そう問うと女は数秒こちらの顔をじいっと見つめた。
こちらの意図を探るような、何か迷っているかのような。
探るような目付きをされているがこちらには大した意図などない、ただ、いつも通りそばにいようと思っただけだ。
少しして、女は諦めたような顔になった。
「……好きにして」
そう言って女は自分から視線を逸らして歩き出した。
その横に並ぶ、近くで見ると本当に小さくて、足が短い。
以前それを口にしたらえらく機嫌を悪くしたのでもう口にはしないが。
油断すると追い抜きそうになる、何故こんなにも小さくのろまな生き物なんだろうか、この女は。
能力だけは世界を滅ぼせる程度に強いのに、それ以外が弱すぎてあまりにもバランスが悪い。
改めて思った、やはりこれを野放しにするわけにはいかないと。
どこかに閉じ込めてしまおうか、首輪でもつけて出られないように。
いっそ命令してしまおうかとも思ったが、必要最低限な命令以外はしたくない。
ならやはり閉じ込めるか、などと思っていたらふと女が顔を上げてこちらを見上げた。
「なんか、変なこと考えてない?」
「別に」
「本当に? なんか視線に変な空気を感じたのだけど」
「何も。ただ……」
その先をなんと答えるか迷った。
足が短いだとかどこかに閉じ込めようかと思っていた、だなんて馬鹿正直に口にすれば確実に怒るだろう。
それは避けたい。
「ただ、何よ?」
訝しげな顔をされている、さっさと答えなければ疑心が深まるだけだ。
「ただ、脆そうだと思っただけだ」
「はあ?」
不満げな声、この女は能力が強いだけで他は弱いのに、自分が弱く見られることを本当に嫌がる女なのだ。
弱そうと言ったら絶対に怒るから脆そうと言葉を言い換えたのに、それでもやはり駄目であるらしい。
「……お前はなんというか、小さいし、細い」
「その身長いじり、いい加減やめてくれないかしら。なに、また足が短いとかいう失礼なこと考えてたってわけ?」
こちらが口にしなかった言葉を推察した女の機嫌は悪い。
どう答えたものかと考えていると、女がこちらに体ごと向き合った。
髪でよく見えていなかった白い喉が無防備に。
「大体あなた、いつもあたしのこと小さいだの短いだのいうけど、そりゃああなたに比べればそれは当然でしょう、というかあなたにとってたいていの人間が小さくて短くて脆いんだから、あたしのことだけ何度も何度も……って、ちょっと聞いているの!?」
強い口調の声に白から目を逸らした、怒りでぎらつく瞳がまっすぐこちらを見据えている。
けれども強いのは視線と口調だけ、というかその脆そうな身体で睨まれたところで、逆に弱く見える。
無防備な白く柔らかそうな首、そこには以前こちらがつけた傷がまだ残っている。
「お前は、世界を滅ぼす力を持っているくせに、その肉体は酷く脆弱だ」
真白い喉を右手だけで掴む、細い首は片手だけで簡単に絞められるほどに細い。
ひゅっと空気が漏れる音がした、抵抗はされなかった。
するつもりがないのか、それともできなかったのか。
「今この手にほんの少し力を入れればお前は簡単に死ぬ。ああ、わかっていたがお前は本当に脆いなあ」
緩く力を込めると女の顔が恐怖で染まった、それでいい、そうでなければこちらの気苦労がさらに増える。
「よく理解しろ、脳に刻め。お前は世界を滅ぼす力を持っているがただそれだけだ。その肉体は脆く脆弱で頼りない。お前なんて誰だって簡単に害せるし、誰であっても殺せる」
女が身動ぎする、苦しかったのか反論を口にしたかったのか、怯えと不満が混じった瞳から察するにおそらく後者だろう。
反論など口にさせるつもりなどないし、一つだって否定させないが。
「お前は弱くはないが酷く脆い、それを忘れるな」
女は否定したそうな顔をしているが、何も答えない。
まだそんな顔をするのか、苛立ちと共に首を絞める力を強める。
「そして、俺がお前を最も害せる存在だということも忘れずに覚えておけ」
そんなつもりは全くないし、余程のことが起きなければそんなことをするつもりはないが。
やろうと思えば抵抗なんて一つもさせずに外道なことができる立場なのだこちらは、最近は忘れられているようだが。
傷も、苦しみも、屈辱も、やろうと思えばいくらでも。
お前が過去に受けた傷、それが甘く思えるほどの絶望だってやろうと思えば簡単に。
白い首は柔く温かかい、これ以上力をこめたら死ぬだろうが手放すのは惜しい。
柔い首が僅かに動く、白肌に気取られていたせいで気付かなかったがひどく不満げな両目がこちらを射抜くように睨め付けていた。
口が小さく動くが言葉にはならなかった、これ以上は命に関わりそうだったので手放してやると、それはよろめくように一歩大きく後ろに下がった。
転んで頭でも打たれたらよろしくないと伸ばした手を叩かれる、ひどく弱々しいがおそらくそれにとっては全力の一撃だったのだろう。
「…………色々と、言いたいことはあるけれどとりあえず一つだけ」
そう言ってそれはこちらを睨みつけてくる、首を絞められたのがそんなに嫌だったのか、大層機嫌が悪そうだ。
「あなたは、そんなことしないでしょう」
「…………は?」
「あたしを本気でビビらせようって思っているのだったら最後の一言は完全に余計な言葉ね。……すごく不愉快」
真底機嫌が悪そうな声だった、ここまで気を損ねたところを見るのは初めてかもしれない。
「だって、あなたさっきのを脅し文句として使ったつもりなのでしょう? それを脅し文句に使うってことは、あたしのことこう思ってるってことじゃない、あたしは内心、どこかであなたに危害を加えられる可能性があると信じているって」
そうだ、というかそうであるべきだ。
こちらはやろうと思えば一方的にこれを甚振ることができる、それができるだけの力がある。
だからその警戒心は必要なものであるはずだ。
そう口にする前に女が握り拳を作って、こちらの腹を無言で殴ってきた。
小さな握り拳による力のない一撃だった、殴りたいほど不満だったのなら手加減など不要だと思ったら、女は顔を顰めて拳を引っ込め、もう片方の手でおさえる。
「〜〜っ!! かったい!! ああもう腹が立つ!! 何よそのなんとも思ってなさそうな顔、少しは痛がりなさいよ!! 今の全力だったのに!!」
「は……?」
全力、全力ってなんだ今のが全力? 子供だってもう少しマシな威力が出そうなあれが?
「脆い、というよりも儚い……」
「何よ儚いって!!」
「事実だろう。……正直、そこまでとは思っていなかった」
あまりにも弱い、生命力というものが希薄なんだろうかこの生き物は。
小動物と同程度と思っていたが認識を改めるしかない、小動物の方がこれよりも遥かに強い。
自分はこんな弱く儚い生き物を護らねばならないのか。可能だろうかそんなことはと不安になった。
「うぐ、馬鹿にしてるわけじゃなさそうなのがより腹が立つ……」
心底悔しそうな顔で睨まれている、いっそ馬鹿にできる程度だった方がきっと互いにとって幸せだっただろうと思った。
弱い、弱すぎる、今後どう扱えばいいのか悩ましい程度に。
「ノーダメージどころか殴ったこっちがダメージ受けてるのも腹立たしい……」
「痛めたのか?」
まさかと思いつつ調子を見るために握られたままの手を掴もうとすると、半歩後ろに引かれた。
明確な拒絶の意思が見えたので一旦止まる。
「この程度なら別に平気!! そもそも自分に急に殴りかかった奴のことなんか心配しないでよこの馬鹿!」
癇癪を起こされてしまった、心配するなと言われても自分が一生をかけて護ると決めた存在が怪我をしたと言うのなら心配して当然のことだと思うのだが。
「というかなんで避けなかったのよ!! あなたなら余裕でしょう、そうよねえあなたは馬鹿みたいに強いですものねえ」
避ける必要性を感じなかったしこちらを殴る程度で気が収まるのならそれでいいと思ってそうしたのだが、こんなことになるのなら避ければよかったと後悔する。
「……あたしに殴られても反撃しないどころか避けもしない奴があたしに危害を加えるとでも? あの脅し文句をあたしに信じ込ませてビビらせたいっていうんだったら、反撃して、こっちの腕でもへし折ればよかったじゃない」
「…………は?」
「なんで今ここ一番でキレるのかしらねあなたは。…………なんか、もう全部馬鹿らしくなってきたわ、もういい」
そう言ってこちらから目を逸らして先に行こうとするので、その小さい背に待ったをかける。
「おい、まだ話は」
「もういいでしょ、終わりで。ああ、けどこれだけは言っておくわ。あたしはあなたのことを信頼してる、悔しいくらいにね。あなただけは世界で唯一、絶対にあたしを害さない存在だって。そうじゃなければ、あなたにあたしに何かしてやろうって悪意が少しでもあったのなら、あたしはとっくにここいら一辺を更地にしている……そこまであたしに信頼させておいて、その自覚がないあなたに正直かなりムカついているけど、これ以上は言っても無駄だと思うからもういい」
振り返ったその顔はひどく不満げで、それなのに自分への過剰なほどの信頼の言葉を吐いた。
意味がわかない、何故そうなるんだ。
何故信頼などする、何故こんな男のことを、かつて自分を殺そうとした男に、そんな。
小さな背が何も言わずに遠ざかる、すぐに追いついたが声をかけても「うるさい」という言葉しか返ってこなかった。
視聴覚室に着いた後、適当に目についたものをさっと選んで席ついた女の横に座った。
不平不満は言われなかったので、ひとまず自分がここに存在することは許してもらえているらしい。
スクリーンに映されたのは国内のコメディ映画だった、幼い頃にテレビで見た気がするが細かい内容は覚えていない。
スクリーンを注視しつつポップコーンを口に運ぶ女の横顔を見る。
意識はこちらに一切向けられていないらしい、そんな無防備な女が抱えるカップからポップコーンをさっと取って口に運んだ。
いつも一人では食べきれない量を作ってくるので、映画終了と同時に食べ終わるようにこちらが調整していることなんて全く気付いていないらしい女の無防備な顔を見る。
こちらのつまみ食いに容易く気付くくらい警戒心が高ければこちらの気苦労は幾分減るだろうに、そう思いつつ隙だらけのカップからもう一粒ポップコーンを摘んだ。




