災いと生贄
最近なんか避けられているなと思って、どうにか探し出したそいつに自分は一体何をやらかしたのかと聞いてみた。
全く心当たりがないのだけど、こうも露骨に避けられているということは自分がそいつの地雷を無自覚に踏み抜いた可能性が高い。
だから理由を聞いて、それが謝罪しなければならないことであるのなら素直に謝って、再発しないように気をつけるからと許しを乞おう。
と、思っていたのだけど、そいつは相変わらず感情の読めない顔で「お前は何もしていない」と。
じゃあ何故避けるのかと聞いても、なんでもないの一点張り。
なんでもないわけがないとしつこく絡んで、ようやくなんでもない以外の言葉を引き出すことに成功した。
成功したのだけど……
「はあ? 酷い目に合わせたくなる……?」
どういうことかいまいちよくわからない、何故彼があたしにそんなことを?
するわけないだろう、あたしに対して過剰なほど過保護なこの男がそんなことを。
それでもそういうことがしたくなるというということは、やっぱり自分が何かやらかしたのだろう。
「ええと……やっぱりなんかやらかした? そんなに怒らせるようなこと……」
強いていうのなら昨日こっそり近所のコンビニに無断で行ったくらいの悪業しか思い浮かばない。
けれど彼の異常はもっと前からだ、というか昨日無断でコンビニに行ったのだって、どれだけ探しても彼が見つからなかったから仕方なく、という感じだった。
他には何もなかったはず。
どうしよう本当に心当たりがない、そして多分、心当たりがないこと自体が罪な気がする。
「ごめんなさい、心当たりが本当に……これ、心当たりがないことすら許しがたいってやつよね? ねえ、あたしはあなたに何をしてしまったの?」
縋るように問うてみると、彼は小さく溜息をついた、その顔は若干、苦々しい。
「…………お前は何もしていない。だからそんな顔をするな」
「嘘!! じゃあなんで」
「これはこちらの問題だ。お前にはなんの落ち度もない」
淡々とした声でそんなことを言われた。
問題、一体何があるというのか、少し考えて思いついたことをそのまま聞いてみる。
「ひょっとして風邪でも引いた? それでうつさないようにとか?」
風邪をうつすのが酷いことなのかもしれない、なんか違うな、あわせたくなるんだものね酷い目に。
それでも避けられる理由としてはありえそうだし、念のために彼の身体を全体的に確認してみる。
顔色、普通。それ以外も特に異常は見受けられない。
「……いえ、いつも通りに見えるわ」
「ああ、特に何も。そもそもお前にうつすような風邪でもひいていたら、そもそもお前と会話などしない」
風邪とか体調不良ではないらしい、怪我でもしてそれを隠しているのではと話している途中で思いついたけど、そういうことでもなさそうだ。
「じゃあ、問題って何?」
答えはなかった、無言でただ見つめられる。
何故ここまではっきりしないのか。
ちょっと苛ついてきた、なんで避けられまくった挙句理由を聞いてもちゃんと教えてくれないのか。
どう答えさせるか、いっそ捨て身で何かやるか。
彼を動かすには我が身を切り捨てるような行動を取るのが一番手っ取り早いと気付いて、それをどうにか認められるようになったのはここ最近のことだった。
教えてくれないんだったら三日くらいふらっと行方不明になってやる、という脅し文句を思いついた頃に、やっと彼が口を開いた。
「どう答えたものか考えあぐねていたが、このままだんまりを決め続けていると短気なお前が何をするかわからん。だからそのまま言うぞ」
やっと答える気になったらしい男の顔を睨み上げる。
どことなく仕方なさそうな、やや投げやりにも見える顔で彼はこう言った。
「俺はお前に情欲を抱いている」
「じょう、よく……?」
その言葉の意味を頭から引っ張り出して、思わずそうのたまった男の顔を二度見した。
どういう反応をするのが正しいんだろうか、言葉がなんにも出てこない。
顔が引き攣るだけでそれ以外は何も。
どうやらこちらの顔はよほど酷いものだったらしい、男が半歩後ろに引く。
それだけで結構距離が開いてしまった、向こうの脚が長いので。
「だから、極力寄るな。今の俺はお前に何をしでかすかわからん」
そんなことを言われても、と思う。どうすればいいんだろうかこれは。
何故そんなことになっているのか、何かきっかけとかがあるのか、解決方法とかはないのか。
きっかけとかわからない。
そういえば避けられるようになったというか、この男の不可解な態度が始まったのは果たしていつ頃だったか。
一週間前にはこうなっていた、それよりも前、まともに会話したのはいつだったか。
記憶を遡っておおよそのあたりがついた。
「……どうして、なんだってそんなことに?」
ようやく口にできた言葉に男は答えようとしない。
というかもう立ち去る姿勢に入っている気がする、ここで取り逃がすと次いつ見つかるかわかったものではないので言葉を続ける。
こちらが話している最中に立ち去るような男ではないので、ひとまず引き止めるために。
「ええと、なんか様子がおかしくなったのいつくらいだったっけと思って記憶を辿って、多分二週間くらい前からだった気がするのだけど…………なにかあったかしら?」
その頃、普段と明確に違ったのは出張に行く親戚とやらから長が黒猫のマグロちゃんを押し付けらたことくらいだ。
とても可愛い猫だった、見知らぬ人間の膝の上で平然と根転がるような警戒心の薄い猫。
あの鉄面皮のコトハですらあの黒猫相手にメロメロになっていた。
ひょっとしたら保護したばかりのあの子に本当に必要だったのはアニマルなセラピーだったのではと思わせるほどに。
そしてコトハですらメロメロになる猫の魅力に自分が堕ちないわけがない、思い出してみると顔から火が出るくらいあの猫に夢中になっていた。
そんなことがあったくらいだ、他には何も。
大きな事件もなかったし、自分は猫に夢中になっていたので自分がこの男に対して情欲を誘うような何かをしでかした覚えもない。
男の顔色を伺ってみる、その顔を見た感じ時期はあっていそうだけど何が原因なのかまではわからない。
「二週間前っていうとちょうどマグロちゃんがうちにいた頃よね、あのものすごく可愛い黒猫……」
そういえばこの男があの猫にどのように接していたのか全く思い出せない。
というか触れているところすら見なかった気がする、あの引きこもりでさえわざわざ部屋から出てきて抱っこしてたのに。
まさか少しも関わらなかったというのか、あの可愛いの塊に。
見上げた顔の不機嫌濃度が若干濃くなる。
じとりとこちらを見る目は相変わらず、その景気が悪そうな顔のまま男はわざとらしく溜息をついた。
「え、なに……」
「その猫に嫉妬した、などと言えばお前は笑うか?」
「はい?」
猫に嫉妬、何故。
マグロちゃん争奪戦に敗れた敗者が勝者に嫉妬する、とかならわかる、というか自分がそうだったので。
「あれに触れている間のお前は随分と愛らしい顔をしていた。とろけるような甘い笑みを」
言われたことを反芻して、一回二回……
なんか今、すごく小っ恥ずかしいことを言われた気がする。
あいらしいってなんだ、あいらしいって。
見上げている顔はいつも通りの何を考えているのか非常に読み取りにくい顔のまま。
その顔のまま男は言葉を続ける。
「何故自分ではなくぽっと出の猫ごときに、と腹が立って、抑えが効かなくなりかけて……それでこうなった」
それでこうなった、それで私に情欲を。
猫相手におそらく気味の悪い笑顔を浮かべていただろうあたし相手に、そんな感情を。
愛らしいとか言われたけど、当時の自分を振り返ると多分それはない、普通に気持ち悪かったと思うあの時の自分。
だって、ドチタノとかキャワワワワとかブツブツ呟いてた覚えがある。
嫉妬とか情欲とかそういう色っぽい話が出てくるような状況では絶対になかった気がする、この男が見ている世界は一体どうなっているんだろうか。
「……とにかく、そういうわけだ」
「はあ……」
「もう一度言う、俺はお前に情欲を抱いている」
だからどうしろというのか、というか説明パートはこれで終わりなのかと思っていると、もう一度溜息を吐かれた。
「相変わらず勘の鈍い女だ。さっさと逃げろと言っているんだ、酷い目にあいたくなんかないだろう?」
「ひどい、め……」
先ほどよりも機嫌が悪くなってきたように見える顔を見つめたまま呟く。
酷い目、この男が、あたしにそんなことをするだろうか。
実はそこが繋がらないのだ、さっきから。
不意に肩を掴まれた。
「ここまで言ってもまだわからないのか。本当に呆れる、のろまな上に理解力も危機感もないのかお前は」
今馬鹿にされた。
唐突に売りつけられた喧嘩にどんな言葉で対応しようか考えるよりも先に「は?」とドスを効かせた声をあげ──
肩に痛み、声を上げる前に反射的に痛んだところを見ると、爪を立てられていた。
「具体的に言わなければわからないらしいなお前は」
そう呟いた奴はこちらの耳元に顔を寄せてボソボソと小声で。
何を言われたのか一瞬理解できなかった、聞こえなかったわけではない。
けれども徐々に理解が追いついて、やや露悪的に言われたそれによって補強された『情欲』の一言に顔が熱くなった。
「へ……?」
「そういうわけだ。だが安心しろ、手を出す気はない。ただ、お前を見ていると抑えが効かなくなりそうになる」
抑えが効かなくなったら言った通りのことをするのか、そういうことをされてしまうのだろうか自分は。
そうなった未来を想像して、全身から火が吹き出るかと思った。
「だからしばらく距離を取る、この下賎な感情が消えるまで」
そう囁いて彼の顔がこちらの耳元から離れた、掴まれていた肩も解放される。
彼はこちらを一瞥して背を向けた。
「ま、まって……ちょ、待ちなさい!!」
どうにかしてその背を引き止める言葉を上げることに成功する。
こっちの言葉なんてもう聞いてくれないかもと思ったけど、彼は去らずに、けれども振り向くこともせず。
「けど、あなたの話だともう二週間もその……そういうことしたいって気持ちが、消えてないってことでしょう……いつ頃消えると思っているのよあなたは」
しばらく答えはなかった。
振り返ることもしないけど立ち去りもしないのだから、多分どう返答するのか考えているのだろう。
どのくらい経ったか、ぼそりと声が聞こえてきた。
「さあ、いつになるのやら。……だが、案ずるな、この先何があろうとお前を穢すような真似はしないと誓う」
そんな誓いをされても、と思った。
けれども彼はこちらが口を挟むまもなく一方的に言葉を告げる。
「どちらにせよやるべきことは変わらない。俺はお前を穢す全てからお前を護ろう。顔を合わせずとも言葉を交わさずとも、それは今まで通りだ。だからお前は安心していればいい」
余計なお世話だと衝動的に叫びそうになって、それをどうにか飲み込んだ。
護られっぱなしというのは悔しいけれど事実だったので。
けれども、それ以外に関しては意見や反論を口にしてもいいはずだ。
「顔も合わせてくれない、口をきこうともしてくれない人に護ってもらおうとは思わないわ。それなら本当に何もしないでいてくれた方がいい」
どういう顔をしているのかその背から予想することはできなかった。
けど、向き合ってくれないのだから仕方がない。
無理矢理正面に回って強制的に目を合わせてやろうかとも思ったけれど、身体的な能力に差がありすぎる。
こちらが無様にあちらの身体の周りをぐるぐる回って、体力が切れてへたり込むのが目に見えていた。
だからそのまま会話を続けることに。
「あたしは今まで通りとはいかなくても、それでもあなたとまともに会話できる関係でいたいと思っている。……ずっと今みたいな顔も合わせてもらえないような時間が続くのはすごく嫌。だからあたしとしてはあなたが今抱えている問題をどうにか解決したいと思っている」
そのためにどうすればいいのか。
こちらがあちらの情欲を誘うような存在でなくなれば一番いいのだろうけど、どうすればそうなるのかその方法がわからない。
そもそもこちらの容姿はそこまで優れたものではない、可愛くもなければ美人でもない。
ともだちみたいな愛らしさもなければ、ツヤコみたいな色気もない。
醜くはないとは思う、どこにでもいそうな見た目にがなっているはずだ。
けれどもその普通ですらこの男の情欲を誘ってしまうというのなら、どうしようもない。
わざわざ自分の見た目を醜く無様なものにしたいとも思えない。
なので、ひどく短絡的な解決方法を提示してしまおうと思う。
情欲を抱いているというのであれば、無理に抑え込まずに好きにさせてしまえ。
なんてことを考えつつ、ふと嫌な記憶が蘇ってきた。
何年経っても消えてくれない悍ましい悪夢のような記憶がある。
その悪夢の中でこの身体は綺麗なものではなくなった。
細かい穴だらけにされ、切られ、溶かされ、焼かれ、そして犯された。
それをやったのは人ではなく機械だったけど、それでも綺麗と言えるような状態ではないのは確かなこと。
彼がどこまで知っているのか実のところよくわかっていない、あえて話題にはしなかったし、向こうもそれは同じだった。
けれども、もし向こうがこちらの身体を綺麗なままだと信じ込んで勝手に神聖視しているんだったら、一旦その誤解は解いてしまおう。
「あなたがどこまで知っているか知らないから話すけど……あたし、とっくの昔に傷物にされてるから。だから別に今更何をされたとしても大したことないわよ」
なんの反応も返ってこなかった。
と思ったけれど、あからさまに彼が纏う空気というか雰囲気が重苦しいものになっていることに気付く。
けれども、何も言ってくれないのならこちらが語りかけ続けるしかない。
「だから、こんな身体でいいのなら好きに使ってくれていいわよ」
本心からそう思ってそんな言葉を口にした。
顔を合わせるのも嫌になるほどの情欲がそれで発散できるのならそれでいい。
とっくに穢れたこちらの身体に触れたくもないというのなら別にそれで構わない。
ただ、『このまま』は嫌だったので、それをどうにかできるのであれば。
どうせどれだけ手荒な真似をされたところであの悪夢を超える目に遭うことはないだろう。
その程度でどうにかなるのなら安上がり、もしも仮にあの悪夢を超えるような目に遭うとしても、それはそれで悪くない。
あの悪夢を上回るような目に遭わされて、毎夜見るいつもの悪夢がそれに書き変わると仮定する。
どれだけ酷いものであったとしても、機械ではなくこの男に犯され辱められる夢の方が今の悪夢よりもきっと幾分ましだ。
むしろそうなってくれればどれほど、なんて思った直後に、息が詰まった。
喉が苦しい、いつの間にか真っ暗で深い穴のような双眸がこちらを睨んでいる。
「二度と口にするな」
地の底から響くような、低く恐ろしげな声。
喉が苦しいのはこの男の大きな手のひらで鷲掴みにされているからだろう。
かなり、ものすごく怒っているらしい。
思えばこの男はこの手の話には昔から過剰に過敏だった。
とにかくこの身体が他者の欲望、性欲や肉欲というものの前に晒されることを忌避していた。
ふと都合のいい妄想が頭をよぎる。
そうだったらと思って自覚したくなかった自分の感情に気付いてしまった。
けれども自覚した瞬間にそれもそうかと思って笑ってしまった。
直後、喉にかかる負荷が重くなる。
「なにがおかしい」
余裕のない声だった、怒りを通り越してもはや殺意にも近い雰囲気を漂わせ始めた男の顔を見る。
そのせいで余計に可笑しい、自分もこの男も今更すぎる。
何年行動を共にしてきただろうか。
少なくとも小さかった幼子が自分の身長を容易く超える程度の年月が流れていた。
それなのに、今に至るまでこの手の話がほぼ出てこなかったのは異常だろう、互いに鈍感というか思い切り目を逸らしていたというか。
きっかけが無ければきっと一生そのままで、逆にいうときっかけさえあればもっと早くこうなっていたのだろう。
さて、この後どうするか、どうせこの可笑しさを共有したところで目の前の男は共感してくれそうにない。
「…………なんでもないわ。今更過ぎる事に気付いて、あんまりにも今更過ぎるから笑ってしまっただけ」
「は?」
どういうことだ説明しろと思われてそうな雰囲気だけど、具体的には語らないことにした。
それは小っ恥ずかしい、きっと呂律が回らなくなってまともな会話など不可能になるだろう。
なので卑怯な手を取ることにした、それで自分が優位に立てれば少し優越感のようなものを感じられそうだけど、それはそれでどうかとも思った。
けれども意趣返しのつもりでそうしてしまおう。
「ところであなた、あたしに情欲を抱いているとか言っているけど、他には何かないの?」
顔色を伺う、不可解そうな苛立っているようなそんな目で睨め付けてくる。
その目をまっすぐ見つめ返して、笑ってやった。
「あたしを災いにしないという魔術師として当然の義務感、責任感はあるでしょうね。あとは怒りも、あなたいつもあたしに対して怒っているものね、危機感がないって。けれども他は? なにもないの?」
相手の目に動揺が見えはじめた、それでも何も答えない。
答えられないのか、答えるつもりがないのか、きっと両方だろう。
馬鹿な男と思った、そう思った自分だって大馬鹿なので人のことは言えないけれど。
向き合うつもりがないのならこの男はあたしを徹底的に避けるべきだった、その程度ならきっと造作もなかっただろう。
それなのに正面から向き合って情欲を抱いているとか言っちゃって、それでこちらがあちらを避けるように仕向けようとして。
もっと別の言葉があるだろう。
お前を愛しているとでも言ってくれれば、それが嘘でも本当でもあたしは簡単にあなたのものになったのに。
けど、そう言ってくれる気はないらしい。
というかそういうつもりだったらそもそもこんなことにはなっていない。
こちらからいうのは気恥ずかしいし、何より向こう側から無理矢理にでもその言葉をもぎ取らないといつまで経ってもちゃんと触れてくれなそうな気がした。
なのでもう少しダメ押しを。
「何も答えてくれないっていうんだったら、この後ツヤコのところにでも行こうかしらね」
ほぼ最終兵器扱いのエロ魔人の名を出してみた。
あのエロ魔人は他人の色恋沙汰を滅茶苦茶面白がるので、あたしが恋愛相談を持ち掛ければ満面の笑みと最高品質の茶菓子でもてなしてくれるに違いない。
なんならコトハ含めた女性陣全員を招集してしまおうか、手土産にポップコーンでも携えて。
コトハももうずいぶん大きくなったし、他の女性陣もいればあのエロ魔人もそう悪さはできまい。
そんな女子トークをするつもりでそんな戯言を口にしてみたけど、向こうはほぼ確実に違った意味で捉えるだろう。
案の定、すごい顔をされた。
愉快。
どうしようすごく愉快、自分ってこんな性格悪かったんだ。
だってあまりにも愉快すぎる、なんとも思われてなかったらこんな酷い顔はされない。
なんとも思われてない訳がないらしい現状が愉快で愉快で仕方がない。
「ふざけるな」
地獄の底から響いてくるような低い声、怯えかけたけどこの男相手にそれは不要だ。
というか今の声にこちらが心底怯えるような人間関係が築かれていた場合、あたしはとっくにこの男に喰われていたのだろうし。
「ふざけてないわよ。だってこのくらい言わないとあなたなんにも話してくれなそうだもの」
じっと見つめてただ相手の言葉を待つ。
こっちからは言ってやらない、甘やかしてやらないと確固たる意志を持ってその顔を見つめてどれだけ経ったか、やっと彼は口を開いた。
「お前を、傷つけたくない」
「うん」
「穢すなんてもってのほかだ」
「うん」
「お前の首に傷をつけたあの日、誓った。お前を災いに貶める全てを……全てから護ると。それが俺なりの、魔術師としての役目だと」
「うん」
「だから、俺だけはお前を傷付け穢すような存在であってはならない。それなのに俺は」
そこで彼は言葉を止めてしまった。
壊れた機械みたいだな、と何となくそう思った。
その目にはこちらに向けられた執着が、狂気にも似ているそれが見てとれた。
「それで?」
無慈悲に先を促してやると、その顔が苦痛で歪んだ。
「お前に触れて、閉じ込めて、誰にも見られないようにして……お前の全てがほしい、と」
ふむ。
百点満点にはきっと程遠い、それでもここまでよく引き出せたものだと自分に感心する。
あたしにもっと魅力というものがあれば、あるいはこんなふうに傷付けてはいけないと思い詰められるほど弱くなければ、きっともう少し事は簡単に動かせただろう。
それにしても、欲しい、か、そうなのか。
今まで自分を護り続けた、おせっかいな男の顔を見る。
向こうからすればこちらは元々殺すべき災いだったのに、それなのにわざわざ生かした。
出会った頃は何を考えているのかちっともわからなかった、表情筋というものがほとんど動いていなかったから。
それが今はどうだろうか、こんなにも物欲しそうな顔でこちらを見つめてくる。
だから、欲しいのならあげる、とでも言おうと思ったのに、その前に彼の顔が苦痛に歪んだ
「だが、それは駄目だ。お前に苦痛を与える存在になるわけにはいかない」
物欲しそうなのにそれを必死で耐えているかのようなその顔は、まるで餌を前にした飢えた獣みたいだった。
「……それにお前は言っただろう。信頼している、と。俺だけは絶対にお前を害さない存在だと」
そういえば言ったなあ、と思い出す。
まさかあの時の信頼がこんな呪いになるとはあの頃は思ってもいなかった。
あれがなければこうはならなかったのだろうか。
自分は彼を信頼しすぎていたというか、甘ったれすぎたのかもしれない。
とはいえ、多分今更どうにもならない。それに自分だけが悪いとも言えないので、それはもういい。
「なら、あの時の言葉、今ここで訂正するわ。──あなたになら、何をされてもそれを害だとは思わない、ってね」
とびきりの睦言のように言ってやると、あからさまに動揺が見えた。
もうひと押し、もう少しでこの男が全部自分のものになる。
そして同じく、自分も彼のものになる。
それは多分、幸福な事なのだろう、少なくとも自分にとっては。
最後のひと押しをどうしてやろうかと男の目を覗き込む。
きっと今、自分はとてつもなく性格の悪い笑顔を浮かべているのだろう。
けれど多分、きっとこのくらいがちょうどいい。
なんせあたしは世界を滅ぼす災いで、彼はそんな災いに身を捧げるしかない生贄なのだから。




