第五章 小さな町
よろしくお願いします
宿は事前に魔物が行くと話が通っていたらしく、角の物置のような部屋が与えられた。粗末なベッドが一つあるだけの部屋だが壁と屋根があるだけ今までよりはマシだった。
宿を得てからというもの、俺たちの生活は安定しつつも単調な繰り返しに落ち着いていった。
この街は、そう大きくない。組合の依頼板に貼られるものも、大した内容ではなかった。畑を荒らす小型の魔物退治、薬草採取、荷運びの手伝い、時おり近隣の農家の力仕事。地道で、代わり映えのしないものばかりだった。
「今日は、これを……」
娘が依頼書を選ぶたびに、俺は特に文句も言わず頷いた。討伐にせよ採取にせよ、この街の依頼は俺にとっては手応えのないものばかりだったが、他にやることもない。
ある日の依頼は、組合近くの商会が抱える倉庫の整理だった。長年放置され、奥まで人が入れなくなっていた倉庫を、一から片付けてほしいという内容だった。
案内された商会の主人は、恰幅のいい中年の男だった。俺の姿を見た瞬間、露骨に眉をひそめて、
「壊れやすい物は少ないが、あまり乱暴にされても困るよ、本当に大丈夫かね?」
と娘に言った。
「この子なら、問題ないと思います」
娘がそう答えると、主人はまだ半信半疑な様子だったが、それ以上は聞かなかった。
「まぁいい。奥の方に、動かせなくなった棚がいくつもあってな。うちの人手じゃどうにも大変だったんだが……」
主人はそう言って、倉庫の扉を開けた。
中は薄暗く、埃と黴の匂いが充満していた。詰め込まれた木箱が天井近くまで積み上がり、崩れかけた棚がいくつも通路を塞いでいる。長年、誰も本腰を入れて手をつけてこなかったのだろう。
俺は言われるまま、崩れた棚を持ち上げ、外へと運び出す作業に取り掛かった。人間なら数人がかりでも動かせないような棚も、俺の腕には大した重さではなかった。積み上がった木箱も、一度に三つ四つを抱え、次々と外へ運び出していく。
作業を眺めていた主人が、途中で小さく声を漏らした。
「……これは、たまげたな」
驚きの声だったが、それ以上近づいてくることはなかった。距離を保ったまま、遠巻きに様子を窺うだけだった。娘がその都度、指示や確認事項を代わりに伝え、俺はただ黙々と作業を続けた。
半日ほどで、奥まで人が通れるようになった。積み上げられた木箱の山も、外の空き地にきちんと分類されて並んでいる。
「助かった。正直、ここまで早く片付くとは思ってなかったよ」
主人はそう言いながら、報酬のための割札を渡した。
「今日もお疲れ様でした」
(疲れてなどない。簡単な仕事だ)
念話でそう返すと、娘はそれ以上何も言わず、ただ小さく頷いた。
報酬がどれほどの価値を持つものなのか、俺には正直よく分からなかった。娘が硬貨を数えているのは見ていたが、それが多いのか少ないのか、判断する材料を持ち合わせていなかった。
宿に戻った夜、娘は寝る前の決まった作業として、水を張った桶と布を用意するようになっていた。
「体、拭きますね……」
ぼそりと小さな声でそう言うと、娘は湿らせた布で俺の腕や背を拭っていく。最初の頃こそぎこちなかったその手つきも、繰り返すうちに、それなりに慣れた動きへと変わっていった。
「土、ついてます……ここ」
指摘されるまま、俺は素直に体の向きを変えてやる。討伐でついた泥や血の跡を、丁寧に拭い落としていく娘の手は、いつも小刻みに震えていた。それでも、作業の手を止めることはない。
(まあ、悪くない習慣だな)
清潔さというものに、この一月半で改めて価値を見出しつつあった。森で獣のように過ごしていた頃は気にもしなかったことだが、人間の暮らしに触れるほど、こういう些細な積み重ねが心地よく感じられるようになっていた。
繰り返し依頼をこなすうちに、俺の中で少しずつ変化していったものがあった。
人の言葉だ。
最初は何も分からなかった声の羅列が、依頼のやり取りや娘との会話を通じて、少しずつ輪郭を持つようになっていった。「討伐」「報酬」「依頼」――繰り返し耳にする単語から、意味が像を結んでいく。
娘が誰かと話しているのを黙って聞いているだけの時間も、いつしか退屈しのぎから、実益を兼ねたものに変わっていた。
「お疲れ様です」
組合の受付でそう声をかけられた時、俺はその言葉の意味を、以前よりはっきりと掴み取ることができた。まだ自分から話せるわけではない。声帯の構造上、それは今後も難しいだろう。それでも、聞き取れる範囲は、着実に広がっていた。
そんなある日、組合長に呼び出された。
恰幅のいい初老の男は、書類を机に広げながら、娘に向かって切り出した。
「お前さんの働きぶりは、ずっと見てきた。その上ではっきりと言おう。この街の依頼じゃ、お前さんの力を持て余してる」
娘が僅かに身を強張らせた。組合長は構わず続けた。
「もっと大きな街に行った方がいい。依頼の種類も報酬も、こことは比べ物にならない。お前さんの従魔なら、十分にやっていけるはずだ」
娘は戸惑った様子で、俺の方をちらりと見た。
俺は、その話にすんなりと頷けるだけの理由があった。この一ヶ月半で、簡単な言葉はそれなりに拾えるようになっている。この街での経験は、その意味で十分に役立った。潮時だろう。
(行くぞ。返事しておけ)
念話でそう命じると、娘は一瞬びくりと肩を震わせたが、すぐに姿勢を正し、組合長へと向き直った。
「……はい。大きな街へ、行かせていただきます」
娘の声はまだ硬かったが、はっきりとした返事だった。組合長は満足げに頷いた。
「決まりだな。なら、これを持っていきな」
組合長は一枚の書状を取り出し、娘に差し出した。
「推薦状というほど大層なもんじゃないが、事情は書いておいた。うちの街でどれだけの依頼をこなしたか、従魔の実力がどの程度か――向こうの組合に見せれば、多少は話が早くなるはずだ」
娘はそれを受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとう、ございます……」
「なに、礼はいらん。むしろ、もっと早く言うべきだったかもしれんな」
組合長はそう言って、豪快に笑ってみせた。
その夜、宿の一室で、娘は受け取った書状を何度も見返していた。
俺はといえば、もっと稼げる依頼、もっと広い街、もっと良い暮らし――そこに待っているものへの期待が、静かに胸の中で膨らんでいくのを感じていた。
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