第二章 誤算
よろしくお願いします
ある朝、男は目を開けた。
だが、そこは見慣れた自室の天井ではなかった。
洞窟のような天井。
鼻を突く土と獣の匂い。
体が重く、腕を動かそうとすると筋肉が異様に盛り上がり、指先が太くごつごつしていた。
(……は?)
「……グォ……」
声を出した瞬間、低く野太い咆哮のような響きが返ってきた。
慌てて自分の体を見下ろす。
赤みがかった灰色の分厚い皮膚、岩のように硬そうな筋肉、木の幹のような腕。
そして鏡代わりに近くの水溜まりを覗き込むと、そこに映っていたのは――
巨大な鬼のような顔だった。
(うわああ……!?)
「グォーーーー!」
自分の声と思えない絶叫が、獣じみた唸り声となって洞窟に反響した。
しばらくの間、パニックのままその場で暴れ、壁を殴り、天井を見上げ、また水面を覗き込んでは同じ結論に行き着くことを繰り返した。
何度確認しても、映るのはやはり鬼の顔だった。
やがて、その混乱が収まるころには疲れて難しいことを考えるのも億劫になっていた。
(……まあ、いいか。多分死んで生まれ変わったんだろう? なら新しい人生、楽しむしかない)
自棄というより、諦めに近い開き直りだった。
混乱したところで、状況が変わるわけではない。
腕も、顔も、この逞し過ぎる体も、もう自分の一部として受け入れるしかない。
――
そこから始まった森での生活は、想像以上に忙しかった。
最初にぶつかったのは、腹の減り方だった。
人間だった頃とは比較にならないほどの空腹感が、間を置かず襲ってくる。
木の実や草をかじってみても、腹の足しにはまるでならない。
二日も経つ頃には、目についた小動物に飛びかかって、生のまま貪っていた。
「うぐ……」
最初は抵抗があった。
だが、この体は生肉でも平然と受け付けるようにできているらしく、腹を壊すこともなかった。
味についてはどうしようもないが、数をこなすうちに、抵抗感そのものは薄れていった。
数日もすると、狩りの要領も掴めてきた。
この体は想像以上によく動く。
うさぎを追い、鳥の巣を漁り、木の実の在り処を覚える。
人間だった頃には縁のなかった生活だが、体の頑丈さと膂力に助けられ、飢えることだけはなくなっていった。
そんな文明とはかけ離れた生活がしばらく続いた。
魔法というものが、実在すると発見したのは、そんな折だった。
木々の合間を歩いていると、開けた場所で小柄な魔物と遭遇した。
狐に似た姿だが、尻尾が三本に分かれている。
俺と目が合うと、その魔物は威嚇するように牙を剥き、口元に小さな光の粒を集め始めた。
(……お?)
光の粒は瞬く間に膨らみ、掌ほどの火球となって放たれた。
俺は咄嗟に横に跳んでそれを躱した。
着弾した地面が黒く焦げ、木の幹が僅かに炙られている。
(この世界は、本当に魔法が実在するのか……)
驚きと同時に、興奮にも似た感情が込み上げた。
異世界に来たなら魔法くらい使えないと嘘だろう、そう思っていた期待が、今しっかりと裏付けられた瞬間だった。
二撃目が来る前に、俺は一気に間合いを詰め、拳を叩き込んだ。
魔物はあっさりと吹き飛び、そのまま動かなくなった。
狐もどきを腹に入れてから俺は気合を入れた。
(……よし、俺もやってみるか)
存在が確認できた以上、あとは自分にもできるかどうかだ。
俺はその場で早速、目を閉じ、体の奥に意識を集中させてみた。
すると、割とすぐに謎の力を感じた。
これが魔力なら、意外とすぐに使いこなせる気がする。
(これが……魔力か?)
呼吸を整え、掌に意識を集中する。
さっきの魔物がやっていたように、まずは基本の「ファイア」から真似てみることにした。
(Fire……!)
「グォー」
何も起きない。
(ファイアボール!)
「グォーー」
まだ何も起きない。
何度も試す。
掌を擦り、イメージを強く持ち、声を張り上げる。
自らの肺から出る声は森に響き渡ったが、指先には小さな火花すら生まれない。
二日目も、三日目も同じだった。
掌に意識を集め、「ファイア」と念じる。
たまに「ウォーター」と念じる。
だが、何も出てこない。
代わりに、体の芯が妙に熱くなり、筋肉が張るような感覚だけが残った。
(うぬぬ……ぬおおおお……)
低く唸りながら、何度も何度も繰り返す。
一週間が過ぎても、二週間が過ぎても、結果は変わらなかった。
毎日、生肉と木ノ実の日々。
魔法に希望を見いだしたが、それも段々絶望に変わりつつある。
(……もういい。今日はここまでにしよう)
そう呟いて練習を切り上げる日が、次第に増えていった。
そんな折、森の奥で熊と遭遇した。
こちらより一回り大きい、図体のデカい個体だった。
唸り声を上げながら向かってきたそれに、俺は咄嗟に身構えた。
「グォッ……」
前に出るしかなかった。
逃げるには出会った距離が近すぎた。
爪を振りかぶった熊の一撃を、腕でどうにか受け止める。
衝撃で腕に骨が軋むような痛みが走った。
「グァ……!」
思わず声が漏れたが、怯んでいる暇はなかった。
反射的に振り抜いた拳が、熊の横っ腹に叩き込まれる。
ドンと言う肉を打つ低い音。
手応えは重かった。
熊の巨体が僅かによろめいた。
そこからは、無我夢中だった。
爪で引っかかれ、体当たりを受け、何度も体勢を崩されながらも、俺は殴り返し続けた。
痛みはある。
だが、それ以上に体が丈夫にできているらしく、致命的な傷にはならなかった。
最後は、渾身の一撃を熊の頭に叩き込んで決着がついた。
ぐったりと崩れ落ちる熊を前に、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(……勝った、のか? 向こうの方がデカかった気がするんだけどな)
殴られた箇所はひりひりと痛む。
だが、思っていたより呆気なかった気もする。
とりあえず、しばらく食事には困らなさそうだ。
それからしばらくして、今度は自分と同じような姿をした魔物と鉢合わせすることがあった。
図体は、明らかに向こうの方が一回り大きい。
同種にも関わらず、向こうは明確な敵意を向けてきた。
縄張り争いなのか、単なる気性の荒さなのか、理由は分からない。
だが、飛びかかってきたそれと、俺はまともに殴り合うことになった。
体格差がある分、最初は分が悪いかと身構えた。
だが、殴り合ってみると、思ったより手応えが軽かった。
相手の一撃を受けても、想像していたほどのダメージはない。
逆に、こちらの拳は相手を確実に怯ませていた。
数合の応酬の後、相手はよろめきながら後退り、そのまま逃げるように森の奥へと去っていった。
(……あれ、勝った? 向こうの方がデカかったのに?)
拍子抜けするほどあっさりとした決着だった。
俺は自分の拳を見下ろし、それから、去っていった同族らしき魔物の背中を見送った。
図体で劣っていたはずなのに、これだ。
こういうことが、その後も何度か続いた。
狼の群れに囲まれても、殴り倒せば大抵は退散する。
猪のような魔物に突進されても、真正面から受け止めて投げ飛ばせる。
痛みは毎回あるが、それ以上に、致命的な結果にはならない。
(……この辺の化け物なら、意外と何とかなるもんだな)
そんな実感が、次第に積み重なっていった。
魔法はまるで上達しないままだったが、魔力らしい力が体を丈夫にしている気がする。
さらに最初の頃より少し魔力が増えている気もする。
森の獣を食べているせいだろうか。
それらの出来事のおかげで、この体の頑丈さと膂力だけは嫌でも思い知らされていった。
俺はまだ、それが「強い」ということなのか、単に「この程度の相手だから」なのか、深く考えることはなかった。
ただ、生き延びる分には困らない――その程度の実感だけを胸に、数ヶ月という時間が過ぎていった。
生肉を食べ川の水を飲むこの数ヶ月の森の生活は俺の人間性を確実に削っていった。
そんな日々を送りながらも、俺は魔法の練習だけは欠かさなかった。
理由は単純だった。
生肉はもう飽き飽きしている。
もし火が出せれば、多少なりとも人間らしい飯にありつける。
それだけを支えに、今日も朝から森の奥で、目を閉じて魔力を練った。
しばらく粘ると、掌の上にライターの火程度の、本当にささやかな炎が一瞬だけ灯った。
(……お、お! ついに!)
声にならない歓喜が全身を駆け巡った。
ようやく、ようやく形になった。
だが、その炎は瞬きする間もなく消えた。
同時に、体の奥から全身に気怠さが広がった。
「……グォォ」
大きく息を吐き出す。
全力疾走した後のような、そこまで深刻ではないが、確かにどっと疲れが出るような感覚だった。
今日はこれ以上は無理そうだ。
急に腹が減り、水も飲みたい。
ついでに、最近ずっと肉ばかりだったから、そろそろ魚が食いたい気分だった。
俺は気だるい体を引きずるようにして、聞き覚えのある水の音がする方へと歩いていった。
水場に近づいたところで、足元に何かが絡みついた。
「グ……ゥ?」
見下ろすと、縄のようなものが足に食い込んでいる。
木々の間から重石が落ち、周囲の縄が一斉に締まっていくのが分かった。
地面から跳ね上がった罠石が、さらに足元に絡みつく。
(罠……? こんなとこで?)
振り払おうとして、ふと動きを止めた。
さっきの疲れがまだ残っている。
いつもならさっさと引きちぎるところだが、今は少し面倒に感じた。
そうしているうちに、茂みの向こうに小さな人影があるのに気づいた。
(……人間がいるじゃん)
思わず身体が硬直した。
この数ヶ月、獣と魔物と鳥しか出会ってこなかった。
人間の姿を見るのは、これが初めてだった。
その事実に、俺は自分でも驚くほどの喜びを覚えた。
人間がいる。
つまり、人間の暮らしがこの世界のどこかにある。
屋根のある場所、火の通った飯、柔らかで暖かい寝床――そういう「普通の生活」への渇望が、腹の奥からじわりと湧き上がってくる。
若い娘――というより、まだ子供に近い年頃に見える。
緊張した面持ちでこちらを窺っている。
手元には仕掛けた罠の続きらしきものが見えた。
恐らく、うさぎか魚を狙って、この水場に罠を張っていたのだろう。
(……この罠、この子が仕込んだやつか)
図体のでかい自分がそこに踏み込んで、うっかり台無しにしてしまった格好だ。
妙な罪悪感が湧いた。
ただでさえ人間と出会えたことが嬉しいのに、その最初の相手の獲物を横取りする形になるのは、なんとも据わりが悪い。
これ以上は壊さないでおこう。
俺はそう決めて、縄が締まるのを大人しく受け入れることにした。
「グ……ゥ」
低く唸ってみせる。
娘の顔に、みるみる驚きと高揚が広がっていくのが見えた。
何か呟いているが、言葉としては理解できない。
日本語ではない。
英語でもなさそうだ。
もっと柔らかい響き――どこの言葉かは知らないが、どうでもよかった。
娘はさらに紋様の描かれた札らしきものを取り出し何やら呪文を唱えた。
札の紋様が光り娘の周りに魔力が渦巻く。
次の瞬間、俺の足元の地面から這い上がる光が、俺の四肢を締め上げていく。
魔法に驚いていると、娘が近づいてきて震える手を伸ばし、俺の額に触れた。
指先が触れた瞬間、そこから何かが流れ込んでくるのを感じた。
「……グア?」
娘の指を通して、額から体の奥へと何かが流れ込んでくる。
温かい、じんわりとした感覚。
それが体の隅々にまで広がっていくと、さっきまでの気怠さが、みるみる引いていくのが分かった。
(私と……契約を……)
心の奥にぼんやりと謎のイメージが広がる。
理由は分からないが、体が軽くなっていく。
悪い話ではない。
娘は膝をつき、荒い息で俺を見上げていた。
何かに怯えているような、混乱しているような、そんな顔だった。
(まあ、何だかよく分からんが)
俺は特に深く考えることもなく、その場に留まり続けた。
少なくとも、悪いことは起きていない。
むしろ体調は良くなっている。
それに何より、人間と出会えたという事実の方が、俺にとってはよほど大きな意味を持っていた。
―――
森を歩きながら、俺は前を行く娘の背中を見つめた。
小柄で、細い肩。
時折こちらを振り返っては、また前を向く。
何を考えているのかはよく分からないが、少なくとも、俺をどこかへ導こうとしているらしいことだけは伝わってきた。
(人間の街とか、あるといいけどな)
屋根のある寝床、火の通った飯――そういうものに、この娘を通じて近づけるかもしれない。
そんな期待だけを胸に、俺はふらつくこともなくなった足取りで、娘の後についていった。
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