第十八章 雌伏
よろしくお願いします
サインを終えた書類を確認すると、男は満足げに頷き、後ろに控えていた護衛たちへ顎をしゃくった。屈強な兵士が数人がかりで、太い鎖を担いで歩み寄ってくる。鉄の色ではない、黒みを帯びた金属で編まれた鎖だった。表面には独特な模様があり、見るからに並みの拘束具とは違う重さと威圧感を纏っている。よほど頑丈なものを、わざわざ用意させたらしい。
軽く力を込めてみると、腕にかかった鎖が僅かに軋んだ。この程度なら、本気を出せば容易く引きちぎれるだろう。だが、ここで暴れて騒ぎを起こす理由もない。俺はされるがまま、大人しく両腕と首に鎖を巻かれていった。
「おい、さっさと従魔契約を破棄しろ。そのオーガはもう俺の物だ」
マリーの顔から血の気が引いた。震える手を胸の前に持ち上げ、何かを唱えようとする。だが、指先は宙で止まったまま、しばらく動かなかった。当然だ。この契約は逆転している。破棄の権限など、初めからマリーの側にはない。
男の眉が不快そうに歪んだ。護衛の一人が剣の柄に手をかける。空気が張り詰めた。
慌てる娘の様子を見てから、俺は自分の内側を探り、マリーとの間に繋がる魔力の糸を辿った。繋がりの根本を握っているのは俺自身だ。断ち切ることも、造作もない。
繋がりを、内側から解いた。
「――え……?」
マリーが弾かれたように顔を上げた。目に浮かんでいたのは、驚愕だった。しばらく呆然としていたが、やがて震える声を絞り出す。
「……契約を、解きました」
外から契約の成否を見抜く術はない。それを証明するように、マリーは力なく肩を落とし、俯いた。護衛がすぐさまその腕を掴み、屋敷の外へと引き摺るように連れて行く。マリーの姿は、あっという間に視界から消えた。
「父君への報告は?」
護衛の一人が男に尋ねた。
「俺の方でやっておく」
「はっ!」
程なくして、痩せた中年の男が訓練場へと呼び出されてきた。身なりはこざっぱりと整えられている。伯爵の息子が抱える魔物使いの一人らしい。前回の魔物狩りで従魔を失い、今は次の獲物待ちの身なのだろう。男の目には、オーガに対する怯えと、強力な従魔が手に入るという期待とが、入り混じって張り付いていた。
「さあ、契約しろ」
男が命じると、魔物使いは震える手を俺の額へと伸ばしてきた。マリーの時とは違う。今度は俺の側から、迷わずに繋がりを引き寄せた。細く頼りない魔力の糸を、力ずくで手繰り寄せ、支配下に置く。抵抗する間も与えなかった。
魔物使いの顔から、みるみる血の気が失せていった。自分の中に、得体の知れない何かが入り込んできたことに、遅れて気づいたのだろう。
「上手くいったか?」
伯爵の息子が、偉そうに言った。
(ハイと答えろ)
念話でそう命じると、魔物使いは操られるように口を開いた。
「ハイ、契約出来ました……」
「ハハハハハ! 良くやった! 拘束を解け!」
魔物使いの顔は、なお蒼白なままだった。自分が今、何をさせられているのか。理解しているのに、抗う術がない。
「おい、誰か。このオーガの強さを知りたい。我こそはと言う者はおらんか」
伯爵の息子がそう促すと、屈強な兵士の一人が進み出た。
「はっ、私にお任せ下さい。オーガならこれより大きな個体を仕留めた事があります」
「魔物使い、戦うように命令しろ!」
伯爵の息子が命じると、魔物使いは震えながら俺に向けて指示を絞り出した。俺は素直にそれに従い、一歩前へと進み出た。
兵士は自信に満ちた顔で剣を抜き、じりじりと間合いを詰めてくる。切っ先を低く構え、隙を窺うような足運びだった。俺もまた、腰を落として低く唸ってみせる。
「グルルル……」
兵士の足が一瞬止まった。だがすぐに気を取り直し、床を蹴って踏み込んでくる。剣が唸りを上げて振り下ろされた。俺はその一撃を、わざと肩で受けた。鈍い衝撃が骨まで響く。兵士の顔に、一瞬だけ余裕の色が浮かんだ。
「まだまだ……!」
兵士が返す刀で二撃目を放とうとした、その瞬間だった。俺は間を置かず、振り上げた拳を叩き込んだ。鎧ごと、兵士の左肩が潰れる鈍い音が響いた。男は悲鳴を上げ、そのまま地面に崩れ落ちた。
「おおっ! お前達見たか、このオーガは凄いぞ!」
伯爵の息子は興奮した様子で叫んだ。周囲の兵士たちも驚いている。
「来週の魔物狩りにはコイツを連れて行くぞ! ヴァイス子爵家の悔しがる様が、やっと見れるぞ! ハハハハハ! 前回は子爵家のくせに、ユニコーンなんぞを見せつけられたからな! 次は伯爵家の実力を見せねばならん!」
上機嫌に笑っていた男が、不意に口を閉ざし、腕を組んで考え込んだ。
「……いや、待てよ。ユニコーンに対抗するには、これだけじゃ弱いか……何かないか……」
独り言のようにぶつぶつと呟きながら、答えの出ない思案を続けている。俺はその隙に、震える魔物使いへ念話を飛ばした。
(おい、俺に鎧を用意しろ)
魔物使いの顔が強張った。
「そ、そんなの無理だ……ゲイル様にそんな事を言えばどうなるか……」
(黙れ、殺すぞ)
「ひっ……! わ、分かりました!」
男は震え上がりながらも、必死に頭を働かせたらしい。伯爵の息子へと向き直り、恐る恐る切り出した。
「ゲイル様……それでしたら、全身鎧を着せてみてはいかがでしょう。大きな兵士として見せておいて、狩りの場で兜を取れば、より驚かれるかと」
「なるほど、お前にしては気の利いたアイデアだな! すぐに用意しろ!」
ゲイルは上機嫌にそう言い放ち、従者に指示を飛ばした。機嫌が良くなったところで、俺は畳みかけるように念話を送った。
(飯もだ)
魔物使いは今度こそ躊躇うことなく、すぐさま願い出た。
「あの、ゲイル様。オーガが腹を空かせております。娘の所ではロクな物も食べておらんのでしょう」
「ふん、まあいい。好きなだけ食わせてやれ」
それもあっさりと通った。程なくして、大きな生肉の塊が運ばれてきた。俺はそれを手掴みで掴み上げ、目の奥だけを静かに光らせながら、勢いよく齧りついた。
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