09-兵士と少女の記憶 その①
リサとアマディオの潜伏先は、ロウワー・ティアの深部に位置する、打ち捨てられた場末のモーテルだった。
湿気で剥がれかけた壁紙、酸性雨の雨漏りが落とすカビの匂い。
一般人の感覚からすれば到底『人が住む場所』とは呼べない廃墟同然の代物だったが、追手を撒くにはこれ以上の隠れ家はなかった。
間取りは無駄に広い2LDK。
だが、生活感など皆無に等しい。奥の部屋の一つは、プレス機や薬莢、ガンパウダーの硝煙臭が充満する、アマディオの即席弾薬工場兼武器庫と化していた。
「ここで寝ろ」
もう一つの部屋に入ると、アマディオは無造作に、部屋の中央に置かれた使い込まれたダブルベッドを指さした。
リサは入口で立ち尽くし、首を傾げて難色を示した。
「リサの解析によると……これはアマディオが日常的に使用している寝具です。他者への譲渡、特にリサのような被検体への提供は、優先順位として推奨されないのでは……」
「お前は『被検体』じゃない。それに……」
アマディオはリサの硬い言い回しに頭を掻き、呆れたようにため息を吐いた。
「俺がソファで寝る。シーツは一応、コインランドリーでちゃんと洗濯してあるから安心して使え」
「おじ……様……?」
「はいはい、おじさんで悪かったな」
アマディオは少し拗ねたように背を向け、リビングにある軋む古革のソファにどっかりと横たわった。毛布を頭まで被り——
「明日は早い、さっさと寝ろ」
と吐き捨てる。
リサはしばらくその背中を見つめた後、そっとベッドの上に腰を下ろした。シーツからは、安っぽい柔軟剤の香りと、ほんの少しだけアマディオの煙草の香りが残っていた。
* * *
最初こそ、二人の間にはぎこちない距離があった。
アマディオはぶっきらぼうに接し、リサは感情の起伏を知らない機械のように無機質だった。
だが、逃亡の終わりが見えない日々の中、小さな変化が二人の間に積み重なっていく。
朝になれば、アマディオが缶詰のスープを温め、カリカリに焼いた食パンをリサの皿に載せる。リサは慣れない手つきでスプーンを握り、温度や味覚を『エラー』と表現しながらも、一口ずつ口へ運んだ。
夜になれば、液晶の潰れかけた古いブラウン管テレビの前に二人で並んで座った。
ザーザーと白ノイズが混ざる古い映画や、アッパー・ティアの豪奢な暮らしを映すワイドショー。
リサは画面から流れる『外の世界』の情報を熱心にプロセッサへ記録し、アマディオはその横顔を静かに見守りながら、愛銃のメンテナンスや薬莢の目方の調整に没頭した。
「アマディオ。この映像の『家族』というユニットは、どのような定義で機能しているのですか?」
「……血の繋がりか、あるいはそれ以上に強い絆で結ばれた居場所のことだ」
「居場所……リサには、理解が困難です」
「今に分かる。急ぐ必要はない」
ただ同じ空間で飯を食べ、同じテレビのノイズを聞き、同じ屋根の下で眠る。
最先端のラボにも、極限の戦場にもなかった『穏やかな日常』が、カビくさいモーテルの中に確かに芽生え始めていた。
* * *
ある日の朝。
薄暗い部屋に街灯の光が差し込む中、二人は小さな食卓を囲んでいた。
リサは紙パックの牛乳にストローを挿し、ちゅうちゅうと静かに喉を鳴らしていた。白い雫が唇に少し付着する。
「……アマディオ」
「なんだ?」
トーストにバターを塗っていたアマディオが視線を上げる。
「リサのデータベースにある人間社会の構造について、一つ質問があります……アマディオには、配偶者がいるのですか?」
ピタリと、アマディオの手が止まった。
バターナイフの銀色の刃先が、朝光を浴びて虚ろに光る。
部屋の空気が、急激に重く沈み込んでいくのをリサのセンサーが察知した。
「……昔は、いたさ」
短くそう答えたアマディオの声は、どこまでも低く、かすれていた。
彼はトーストを残したままゆっくりと立ち上がると、スカーフを首に巻き、そのまま黙って部屋を出て行ってしまった。
* * *
残されたリサは、自分の質問がアマディオの心に想定外の負荷を与えたことを悟り、牛乳パックを置いて彼の後を追った。
モーテルの裏手に伸びる、排気とオイルの匂いが立ち込める車庫。
薄暗いガレージの前に、アマディオはポケットに手を突っ込んだままポツンと立っていた。
「はっ……はっ……アマディオ。リサの問いは、不適切でしたか?」
リサの足音に、アマディオは振り向くことなく静かに首を振った。
「いや……いいんだ……ただ、少し思い出していただけだ」
アマディオが車庫のシャッターを押し上げると、重々しい金属音とともに、暗闇の中から一台の車が姿を現した。
銀色の流麗なクーペスタイル——『Audi-A7』。
旧時代の美学と重厚な剛性を残したその名車は、ホコリを被りながらも、鈍い銀色の光沢を放っていた。
「殺風景で薄汚ェ街だけど……ドライブしてみるか?」
アマディオが振り返り、少しだけ不器用な笑みを浮かべた。
* * *
V8ツインターボエンジンが低い咆哮を上げ、車体が滑らかに加速する。
近未来のニューヨーク——その最深部、光の届かない都市下層〈ロウワー・ティア〉。
頭上を這う巨大な排気ダクトと幾層もの高架橋の隙間を、銀色のAudi-A7が軽やかに縫っていく。
雨に濡れた黒いアスファルト。そこに、頭上にひしめくホログラム広告や毒々しい色合いのネオンサイン——青、赤、サイバーグリーンの光が、鏡のように美しく反写していた。
車内は驚くほど静かで、流れるネオンの光彩が、助手席に座るリサの青い瞳と白い肌を可憐に彩っていく。
「綺麗な……光……」
窓の外に広がる流星のようなネオンの群れを見つめ、リサがポツリと漏らした。
ステアリングを握るアマディオは、前方の闇を見据えたまま口を開いた。
「俺はな……親の顔も知らず、この街のドブ底にある孤児院で育った」
エンジン音に混じり、彼の静かな告白が車内に響く。
「軍に入って、なんとか飯が食えるようになって……若い頃に、一人の女と結婚した。慎ましくても、温かい家庭を作ろうと思ってたよ。だが……子供を作る前に、病気で死に別れた」
アマディオの指が、レザーのステアリングをぎゅっと強く握りしめる。
「それからの俺は、ただ死に場所を探すように傭兵として生きてきた。命の価値なんて、とっくに忘れてたさ……だが、ラボでお前を見た時、そしてこうして一緒にメシを食っている時……俺の死に絶えたはずの良心に、何かを感じるんだ」
アマディオはチラリと助手席を見やった。
ネオンの光を浴びながら、真剣な瞳で自分を見つめる小さな少女。
「お前は兵器じゃない。ただの、生きてる少女だ。俺がかつて守れなかった未来の……代わりなのかもしれない」
銀のA7は濡れた高速道路を滑るように走り抜け、都市の境界線へと近づいていく。
「リサ。いつか……こんな汚い都市の底から抜け出して、誰も俺たちを知らない場所へ行こう。本物の空が見える場所へ……自由になろう」
それは、過去の絶望に縛られていた一人の男が、新しく見出した『生きる約束』だった。
リサは自分の胸のあたり——不気味な脈動ではなく、温かく跳ねる心臓の鼓動を感じながら、静かに、だがはっきりと頷いた。
「はい……アマディオ。あなたとなら、どこへでも」
ガラス越しに流れていくネオンの光が、二人の行く先を輝かせるように、夜の暗闇を鮮やかに照らし続けていた。




